後輩たちが出ていった。サークル部屋に俺1人になった。静寂が訪れる。
絶好の『漫画雑誌精読タイム』だと思った。ここ何週かの週刊少年マガジンをテーブル上に積み上げる。
「読み直し」である。週刊少年マガジンは毎号欠かさずチェックしていた。積み上げたマガジンは既に読んでいたのである。だが、あらためて読み直してみる。大半の人間は漫画雑誌(とくに週刊)を1回読んで終わりにしてしまう。俺は違う。2回目からが面白いのだ。ひと晩寝かせてもう1度食べるカレーは美味しい。それに似ている。
連載作品の過半数を占めるがごときラブコメディ漫画を復習する。ひっきりなしにラブコメ漫画が供給される雑誌である。いったい何人の美少女が雑誌の中で登場しているのであろうか。全ヒロイン人気投票みたいな企画もやっていた気がする。俺の推しは秘密である。
俺が産まれた頃はこんな雑誌では無かったらしい。つまり20数年前の時のマガジンだ。もっと社会派だったらしい。『クニミツの政(まつり)』だとかね。『15の夜』みたいなノンフィクション読み切りも盛んに掲載されていたそうな。ただ、社会派読み切りは「暗い」「説教臭い」と敬遠されがちな宿命にあるモノだ。
今より100倍真面目だった誌面。そんな中で、異彩を放っていたラブコメ漫画があった。
『スクールランブル』である。
あの漫画は昨今のラブコメ漫画とはひと味もふた味も違っている気がする。なんで違うのかは上手く説明できないが、とにかく異彩を放っていたのである。もっとも、当時を知る人なら周知の通り、風呂敷を畳まないまま連載終了してしまったワケだが。
『スクールランブル』は後追いで全巻読んだ。アニメも1期は全話観た。これがテレ東の平日夕方に放映されてたんだもんなぁ。
このサークルの前々代幹事長も『スクールランブル』が好きだったらしい。
略称『スクラン』。サークル室の棚には講談社コミックスが全巻置かれている。
さて連載中のラブコメ漫画を隈なく「おさらい」した俺はマガジンのバックナンバーを元あった場所に戻し、スケッチブックをリュックから出す。ついでに「資料」もスケッチブックのそばに置く。
ウマ娘が描(か)きたいのである。
TVアニメ版第1作はゲームがまだリリースされない中での放映だったと思う。高校1年の春に始まったアニメだった。制作は何とあのピーエーワークスだ。2010年代をアニメと駆け抜けた俺はもちろんリアルタイムでガチで視聴していた勢の1人だ。
大学に入ってからTVアニメ版第2作が始まった。制作会社が変わった。ゲームはリリースされていた。社会現象的なモノが起こったのはTVアニメ版第2作が放映されていた頃だ。確か、アニメDVDの売り上げ記録を更新したんじゃなかったっけ。
鉛筆を手に取る。資料とにらめっこ。どのウマ娘を描くか。……ダイワスカーレットを描いてみようか。
競馬のコトなんて全く知らない。ダイワスカーレットに関しては、「全部のレースで1着か2着だった」という情報だけ知っている。
負けたとしても2着って凄くないか……と実際の競馬を一切見たコトのない俺は思いつつ、ダイワスカーレットちゃんの眼から描き始めようとした。
しかし、ここでガチャッ、とドアが開く音。
× × ×
大井町侑(おおいまち ゆう)さんはいつも通り俺と向き合う席に居る。
右腕で頬杖をついている。どうやら俺の様子を眺めているようだ。俺のダイワスカーレットちゃんの絵がダメ出しされなければ良いのだが。
いつもながらにキリリとした眼の彼女だ。ただ、その眼が鋭くなり過ぎると、たちまち不穏がやって来るのだが。彼女と同じ空間に4年間居続けているコトになる。これまでたくさん怒られてきた。俺の方から怒ったコトはほとんど無い。
「……新田くん? あなた、ウマ娘を描いていたみたいね」
大井町さんが言った。
首肯しながら、「描いてたよ。ダイワスカーレットっていうウマ娘なんだ」と答えた。
そしたら、
「ふぅん」
と、つれない声。
関心があまり無さそうだという現実が、俺の胃袋を痛くする。
スケブを閉じてしまう。何というか、気まずい。2人だけの静かなサークル室。このまま希薄なコミュニケーションを続行していると、気まずさのレベルがどんどん上昇していってしまう……!
懸命に話題を探すしか無い。どんなに些細なトピックだって良い。話題をこちらから振らなければ、際限無くツラくなっていってしまう。場を取り繕えるだけマシだろう。とにかく、少しでも、彼女と会話のキャッチボールを成立させて……!
「スケッチブックはもう良いの? 新田くん」
言われた。彼女の声はヒンヤリと冴えていた、ように聞こえた。
苦し紛れに、本当に苦し紛れに、
「え、えーと……大井町さんって、さ。あのその……絵本の新人賞、だっけ? 応募したんだよね? 結果も、ぼちぼち、分かる頃なんじゃないかなー、って」
と、話題を絞り出す。
そしたら。
彼女は、即座に、
「最終候補に残っているわ」
と……!!
驚いた。驚いた反動で、背中に鳥肌が立った。背筋が寒くなるのとはニュアンスが違う。驚いて鳥肌が立ったのにはポジティブな感情も含まれていた。
ポジティブな感情でもって立つ鳥肌……。理屈としてどうなのか、という面はもちろんある。
でも、俺は、嬉しかったのだ。
彼女が、最終候補に残っている。その事実の嬉しさが、俺に鳥肌を立たせた。
驚いたからしばらく声を出せなかったけど、やがて俺は、彼女の顔にできるだけまっすぐ眼を向け、
「良かったじゃないか。凄いじゃないか。素晴らしいじゃないか」
と言ってあげる。
「最終候補に過ぎないのよ? ぬか喜びするのはまだ早いわ」
と、彼女は軽くあしらうように。
しかし、俺の口から、
「俺、ドキドキし始めちゃってる」
というコトバが、出る。
大井町さんは眼を丸くして、頬杖をつくのをやめる。それから、
「どうして……あなたが、ドキドキするのよ」
と、困った声になって言う。
彼女の目線が安定しなくなる。目線は時折逸れる。ストレートの黒髪に左手で触れたりする。口を半開きにして何か言おうとするが、結局口を結んでしまったりする。
ようやく、
「自分自身のコトでも無いのに……。分野は違えど、創作志望であるのは同じなんだから、わたしが最終候補に残ったコトに対して、自分の状況と比べたり、焦ったりする方が、よっぽど自然な反応で……」
ごもっともである。
しかし、俺は、彼女のごもっともなコトバも柔らかく受け止め、優しいキモチになって、
「それは、どうかな?」
と、穏やかに、穏やかに、反発する。
反発とはいえないぐらいの、ささやかな反発。
でも、大井町さんは揺さぶられる。たぶん、必然的に。
自分のバッグから、俺とは色違いのスケッチブックを取り出す大井町さん。
スケッチブックを開き、顔を半分だけ隠す大井町さん。
他の人間が入室してくる気配は無い。