【愛の◯◯】「『おやすみ』って言いなよ」

 

麻井は案外素直に私についてきてくれた。

テスト終わりの午後、久方ぶりに麻井が甲斐田家の敷居をまたぐ。

「遠慮せずに上がってよ」

私が促すと、何も言わず、靴を脱いで丁寧にそろえた。

こういう所に、麻井の『育ちの良さ』が、にじみ出ている。

 

× × ×

 

私たちは2階の私の部屋に入った。

とりあえず私は机の前の椅子に座り、麻井はベッドを背もたれ代わりにして体育座りになった。

「お母さんが、じきに帰ってくるから」

――と言ってみたはいいものの、何して時間潰そうかとか、全然考えていなかった。

「そうだ、麦茶でも持ってこようか」

「…アタシあんま喉かわいてないから」

ボソリと麻井は言った。

「そっか…ごめんね」

私が謝ると、

「なんで……そんなに優しいの」

平常の強気な態度からは想像もできないような、ヘナヘナな声で麻井が呟いた。

「それはね、

 麻井が麻井でなくなっちゃってるからかな」

反論が、ない。

「KHKの会長らしい所を見せて欲しいよ、もっと。

 といっても、私はKHKを認めるつもりはないけどねっ」

「KHKか……」

眼をつぶって麻井が嘆く。

「そう、KHK。

 一旦独立騒ぎを起こしたからには、あんたに投げ出して欲しくはないんだよね。

 卒業まで私の好敵手(ライバル)でいてほしいよ」

「……張り合う気?」

「今のあんたとは張り合えないな。

 あんたがあんたを取り戻したら、

 張り合うって価値も出てくる、

 ――そういうものなんだろうけど」

 

「甲斐田……」

 

「どうしたの?」

 

 

「………ストレスのかかりっぱなしで………元気が出ない…………」

 

 

 

 

ようやく、

麻井が、弱音を吐いた。

 

× × ×

 

 

やがて、お母さんが帰ってきた。

「律(り)っちゃん!?

 律っちゃんじゃない!!

 久しぶりねえ~♫」

「どうも、こんにちは、お邪魔しています…」

「変わってないね♫」

「え」

 

 

× × ×

 

  

お菓子と冷たいレモンティーを運んで部屋に戻ってみると、麻井はクッションを抱いて横向きに寝転がっている。

私はテーブルにレモンティーのグラスとお菓子を置いて、麻井の斜め横に腰を下ろす。

「お菓子でも食べなよ。

 レモンティーもあるよ。

 甘いもの摂(と)ると、頭がスッキリするよ」

「あと5分だけ寝かせて」

「わかった、わかった」

しょうがない友人を持ったものだ。

 

「あのさあ」

「寝かせてよ…」

「寝ながら聞いてよ。

 この前、利比古くんのお姉さんに会ったんだよ」

「羽田の、姉?」

「名前ぐらいは知ってるでしょ、愛ちゃん。

 すごく可愛い娘(こ)だった。

 こんなに可愛い娘が現実にいるんだっていうぐらいに。

 才色兼備って、彼女のためにあるような言葉なんだなーって思った」

「名門校なんでしょ。受験も楽勝なんだろうね。東大でも受けるんでしょ、どうせ」

「――受験の話は、おいとこうよ」

「どうして?」

「あんたが苦しくなるでしょ」

 

起き上がった麻井が、レモンティーをグラスの半分くらいまで飲む。

 

「どこで羽田姉に出くわしたの?」

「本屋さん」

「へーーっ」

彼氏連れでね

いたずらっぽく、言ってみた。

「もしや、入学式の日に、羽田についてきた――」

「そう。アツマさん。」

 

考え込むように、黙ってしまった麻井。

 

クッキーをかじりながら、何やら思案していたかと思うと、テーブルに頬杖をついて、私の顔をまじまじと見てくる。

 

そして、

「甲斐田。」

「ん?」

「あんたもさ、

 顔のつくりはいいよね

 

!?

 

「美人さんじゃん。

 制服じゃなかったら、ハタチぐらいの女子大生だし。

 

 羽田の姉は、ロングだったんでしょ、髪?」

「どうして愛さんを見たこともないのにロングだってわかるのかなあ?

 

 ――そうだよ、腰まで届くぐらい、長かった」

「じゃあアタシはショートのアンタの髪のほうが好きだな~」

「『じゃあ』ってなに、『じゃあ』って」

「現物(げんぶつ)を見てみないとわかんないけど――甲斐田だって、羽田姉と遜色(そんしょく)ないんじゃないの」

 

何言ってんの。

「何言ってんの」

「アンタは、顔のつくりや身体(からだ)のつくりは完璧なんだよね」

しげしげと私を眺めやる麻井。

「ただ――」

「ただ?」

片眼を大きく見開いて、ニヤニヤとしながら、

 

――下着が子どもっぽいのが、玉にキズだけどさ

 

 

な、

な、

なにを言うかっ。

 

 

「――甲斐田、なにタンスに飛びついてんの?」

 

タンスを隠すようにして私は、

「み、見たなっ」

「は!?」

「見たんでしょっ、私がいない間に、私の下着!!」

「バカだねえ」

「あんたはバカじゃなくてヘンタイだからっ!!!」

「タンスなんか勝手に見るわけないじゃん」

「じゃ、じゃあ、どうして私の下着のこと知ってるのよ!?」

「そりゃ、女同士だからに決まってるでしょ。

 

 もう高校3年なのにねー、せっかく大人っぽくてスタイルいいのにねー、下着があんなんだとカッコつかないよね~~」

 

そのときノック音がして、混乱している私の代わりに「どうぞぉ」と麻井が応答した。

 

ガチャリとお母さんが入ってくる。

 

「どうしてしぐちゃん、そんなにのけぞってるの?」

 

「お、おかあさん、せんたくものとかもってきたんじゃないよね」

 

「?」

「――用件。」

「用件はねー、

 せっかくだから律っちゃん、お夕飯いっしょに食べていけば良いんじゃないかって思って~♫」

 

えっ

 

今度は麻井の方が飛び上がるようなリアクションを示した。

「都合悪かった? 律っちゃん」

「い、いえ、都合は悪くないです。

 でも…ウチでも晩ごはんは作ってくれているので…」

それを都合が悪いっていうんじゃないの?

煮え切らないなあ。

 

律っちゃん家(ち)の晩ごはん、美味しい?

 

 

えっ……

 

 

な、なんでお母さん、揺さぶりかけるようなこと言うのかな??

 

 

「美味しくなくは……ないと思います」

 

煮え切らない態度を持続させて、麻井は答える。

何も言わないで、お母さんは微笑む。

 

 

× × ×

 

 

「甲斐田。」

「はい」

「アンタに勘違いして欲しくないことが、ひとつあって」

「はい。」

………アタシは、自分の家族のことが、嫌いなわけじゃないから

 

「…はい。」

 

 

× × ×

 

 

夕方6時を過ぎた。

「じゃ、アタシそろそろ帰るから…」と言うので、玄関まで見送ろうとする。

 

「お母さーん、麻井帰るって」

「呼ぶ必要ないのに」

「まーまー」

「……」

 

 

「また来てね。

 いつでも♫♫」

「お母さん……その……今日は、ありがとうございました」

平常の殺伐とした佇(たたず)まいからはイメージもできない礼儀正しさだ。

でも……礼儀、正しすぎるかも。

とか、思っていたら。

 

 

おやすみなさい、律っちゃん。

 

 

と――言うと同時に、

 

全身でお母さんは麻井を抱きしめていた。

 

完全に、うちの娘であるみたいに。

 

ギュッと麻井を放さない。

麻井、たぶん顔面、まっかっかだ。

 

 

 

 

 

 

なかなかお母さんは麻井の身体を放そうとはしなかった。

 

ポカーンと放心状態で、麻井は立ち尽くしてしまった。

 

こういうとき、どう言えばいいか見当つかないけれど、

とりあえず。

 

「麻井……、

『おやすみ』って言ってあげなよ、

 お母さんに。

 

『おやすみ』って言われたら、

『おやすみ』って返事するもんでしょ?

 

 ね、麻井」

 

 

微熱を出したみたいにドギマギしている麻井だったが、

やがて口を開いた。

 

 

――おやすみなさいっ

 

 

そう、上ずった声で、

お母さんの愛情に、

麻井はレスポンスしたのだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

【愛の◯◯】世界でいちばん可愛い美少女と、世界でいちばん仲が悪いけど放っておけない腐れ縁

 

初めて会ったときから、実は気になっていた。

誰にも――麻井や利比古くんにも――悟られないように、気持ちは伏せていたけれど。

月並みな言葉だけれど、その人は、私のタイプだった。

 

だから某大型書店でアツマさんに声をかけられたとき、すごくドギマギして、言葉を交わしていても気持ちはうわの空だった。

アツマさんの顔を見るのが恥ずかしくて、おでことか首元のあたりに視線を泳がせていた。

情けなかったな。

 

やがて、栗色の長い髪の女の子、今までに出会ったなかでいちばん可愛い女の子――愛さんが、アツマさんのもとにやってきたとき、「やっぱりな」という諦めが、綿菓子がふくらむみたいに、私の心のなかで盛り上がっていった。

 

少しだけ残念な気持ちで、愛さんとアツマさんのやり取りを眺めていた。

その、ほんのちょっとの悔しさ――愛さんは、たぶん気づいていたんだと思う。

 

× × ×

 

夜、愛さんからLINEが届いた。

 

『夜遅くごめんね、勉強してた?』

『いまはちょっと休憩中』

『アツマくんがだらしなかったから、謝ろうと思って』

『だらしなかった?』

『なんか不誠実だったからさ、しぐれちゃんに対して。

 デリカシーのかけらもなかったよね、喫茶店のときとか』

『そう?』

『もっとしぐれちゃんのこと、考えてほしかった。

 しぐれちゃんの気持ちを……。

 ねえ、少しだけでいいから、通話できない?』

『OKだよ。

 実はわたしも、もうちょっと愛さんと話したかったから』

 

× × ×

 

『……だからね、時たますっごく無神経になっちゃうのよね、彼。気くばりできないわけじゃないのに。むしろ気くばり上手なはずなんだけど、妙なところで鈍くって、』

「よく知ってるんだね、アツマさんのことを」

『もうすぐ4年だから…一緒に暮らしはじめて』

「ひとつ屋根の下、ってやつか。

 率直に言って、うらやましいな~」

『ほ、ほんとうにうらやましそうね、』

「あなたたちの関係、うらやましいけど――けど、素敵だね、って思う」

『しぐれちゃん』

「うん。」

『いつ、気づいた?』

「最初から。あなたをはじめて見たとき。」

『…あちゃー』

「わかっちゃうよ~~。だってアツマさんと話してて、あんなに自然に接してるんだもん」

『……』

「…アツマさんは、いいパートナーがそばにいて、幸せなんだなあって」

『わたしも……アツマくんがいてくれなかったら、どうしようもなくなってたかもしれない。

 ひとのこと言えないな。

 むしろアツマくんより、わたしのほうが面倒くさい』

「そうなの? そうは見えなかったけど、私には」

『あのね』

「うん」

『ときどき――『性格ブス』って言うんだよ、彼。わたしに向かって』

「そりゃひどい」

『ほんとにひどいよね』

「でも、アツマさんが愛さんのことをよくわかってる裏返しでもあるんじゃないの?」

『たしかに…』

「――どっちから告白したの?」

ど、ど、どうしてそんなこというのっ

 

× × ×

 

可愛いな、愛さん。

電話越しでも可愛いってわかる。

どうやったら、私も愛さんみたいに可愛くなれるのかな。

髪――伸ばしてみる?

 

× × ×

 

翌日。

中間テスト、絶賛開催中。

 

 

チャイムが鳴り、現代文のテストが終わったところで、親友の平原が私の席にやってきた。

「いつもより簡単じゃなかった? わたし思ったより解けちゃったんだけど」

「えっ、いつもより難しく感じたんだけど」

「……甲斐田がそう言うのって、珍しいね」

「解きにくいというか、答えを迷っちゃった問題が多かった」

平原が、なぜか私の顔をのぞきこんでくる。

「…平原? どしたの?」

「なーんか冴えないねえ、きょうの甲斐田は」

「どうしてそう思うの」

「顔に出てるよ」

 

失恋でもした?』とは、さすがの平原も言ってこなかったけど、次の科目のテストを解いているあいだ、平原のカンの鋭さが気になって、あまり集中できなかった。

 

× × ×

 

――失恋なんて大げさだし、もう過ぎたことだ。

 

いまではアツマさんよりも、麻井のことが気になっている。

麻井が、ちゃんと中間テストを受けられているかどうかが、気がかりだったのだ。

最近、麻井の様子が、ちょっとどころじゃなく、変だったから。

麻井とは仲が悪いんだけど、彼女の暴走を止める義務もあると自覚している。

心のどこかで――麻井がダメになるのを、放っておけないんだろう。

 

× × ×

 

旧校舎の近くに、噴水がある。

噴水のへりに腰掛けて、麻井がアンパンを頬張っている。

 

「ご苦労さま、麻井」

「甲斐田、なにしに来たの」

「なんにもしないよ」

 

麻井を見下ろす。

アンパンを食べる速度、豆乳を飲む速度が、こころなしか、いつもよりせわしない。

 

「…テスト、ちゃんと受けてる?」

「なにそれ。とぼけたこと言うんじゃない、バカっ」

「受けてるなら『受けてる』、受けてないなら『受けてない』って答えなさいよ」

「受けてるに決まってるじゃん、受けない理由がないでしょ、受けないと卒業できないじゃん」

「そうだよね…、卒業する、っていうのは、大学受かるより、ずっと大事だよね」

 

麻井が豆乳をこぼした。

 

麻井から3メートルほど離れた位置に腰を下ろす。

麻井の横顔を見る。

血色が悪い。

冴えない、どころじゃない。

こんなことでは――。

 

「ね、こんど模試あるじゃん。

 模試受けるの――もしかして不安?」

「まだ…まだ先のことでしょっ、いまは中間。」

「これからいろいろ現実が襲いかかってくるよ」

「なにが言いたいの。意味深な口ぶりで」

「私は麻井のこと嫌いなんだけどさ~!」

「は?!」

「でも、嫌いすぎると、好きになることだってあるんだ。」

 

「――死ぬほど気色悪いこと言うなっ」

 

「………たまには、麻井のこと、見守ってあげたいよ」

 

アンパンの袋を握りしめて、くしゃくしゃにする麻井。

その場から動かずに、私の言葉をずっと受け止めているだけ、偉いと思う。

 

「見守ってあげたいし、応援してあげたい。

 

 ねえ、

 超久々になるけど――麻井、私んち、来てみない?

 私の両親も、きっと喜ぶよ。

 

 近い内がいいな~。

 だって、放っとくと、麻井ぶっ壊れちゃいそうだもん。

 

 今いるところの居心地が悪いんだったら、さ、

 甲斐田家に来て、気分リフレッシュしなよ。

 

 …腐れ縁でしょっ。」

 

 

うずくまって、

子猫のように丸くなって、

それでも私の言葉は受け止めている、

受け止めることのできる余裕くらいならあって、

それでも――麻井は辛そうだ、苦しそうだ。

 

麻井が麻井でなくなる前に、

私は麻井を取り戻したい、

腐れ縁だから、

 

そう――腐れ縁だから、

うずくまってダメダメな麻井に、近寄って、

たっぷり1時間、ほとんど言葉を交わすことなく、様子を見てあげていた、

見守ってあげていた。

 

母性本能というか――、

母譲りの、優しさだったのかもしれない。

 

 

 

【愛の◯◯】女の子の感情の行間の読み方をもうちょっとわきまえなさいよっ

 

都心の大型書店に来るなんて、久しぶりかも。

きょうは、参考書と、なにか一冊本を買おうと思って来た。

本を買ったあとで、大学終わりのアツマくんと落ち合うことになっているのだ。

 

 

ちくま学芸文庫あたりの棚を見る。

……背表紙の文字を眼で追っても、ビビッとくるものがない。

前よりひどくなってる。

知的好奇心が、落ちているんだろうか。

 

読書のちからが下がっているのを感じる。

年始めに、「読書にとっていい年でありますように!」と願ったのに。

なんだか――中等部時代の貯金で、どうにかなっている感じ。

年を追うごとに、読書量は急降下――。

 

なーんて。

自分に失望してても、しょうがないよね。

前を向かないと。

 

ちくま学芸文庫の白い背表紙に向かって、わざとらしく笑ってみた。

もうちょっと、読書でもがき苦しんでみたい。

本は手放したくないし。

読書愛が、消えてしまったわけではないから。

 

けっきょく、参考書に加え、一冊ではなく二冊文庫本を購入した。

5月のお小遣い、大ピンチ。

 

× × ×

 

10分遅れで待ち合わせ場所に来た。

アツマくんはそこにいた。

ただし、

見知らぬ高校生の女の子と、なにやら会話している。

たしかあの制服、利比古が通っている桐原高校の制服。

とすると。

 

「来たわよ」

「おー、待った待った」

「ごめんね、待たせて」

「やけに素直だな……」

 

さっきまでアツマくんと話していた女の子が、わたしたちの顔を交互に見た。

 

「もしかして、放送部部長の甲斐田さんじゃない?」

わたしは彼女に問いかけた。

当然のごとく、彼女は『どうして知ってるの!?』と言いたげに驚く。

「わたし、羽田利比古の姉の愛です。弟がいつもお世話になっております」

 

× × ×

 

つまり、こういうことらしい。

中間テストで学校が早く終わり、参考書を買い求めに甲斐田さんもこの書店に来た。

すると、入り口付近でアツマくんとばったり会った。

甲斐田さんとアツマくんは、利比古の入学式のときに面識があった。

アツマくんのほうから、甲斐田さんに声をかけて、それでわたしがやって来るまで立ち話をしていた。

 

立ち話もなんだから…と、3人でカフェに入ることにした。

もちろん代金はアツマくんの全持ちだ。

甲斐田さんと真向かいに座っている。

わたしより背がだいぶ高い。

167、8センチってところかしら。

うらやましい。

わたしより大人びたルックス。

桐原の制服を着ていなかったら、高校生とは思えなかっただろう。

うらやましい。

でも…、

「そんなに恐縮そうにしなくてもいいんだよ、甲斐田さん」

「あ、はい」

「甲斐田さんの下の名前ってなんなの」

「しぐれ…です」

「同学年なんだから敬語使う必要ないよ」

「いつになく積極的に絡んでるなおまえ」

「いいでしょーが。友達になりたいんだもん」

また、彼女が、隣同士のわたしたちふたりを交互に見た。

「よろしくね、甲斐田さん。

 あ、わたしのこと『愛』って呼んで?

 利比古のことも『利比古』って呼んでいいから」

「おいおい、いきなり強引だな」

「その代わりわたしも『しぐれちゃん』って呼ぶから」

「…どうしよーもねーな、おまえ」

うるさいアツマ。

 

「……『愛』って、いい名前だね」

え、ほんとう!? ありがとうしぐれちゃん!!

「どういたしまして、愛さん」

しぐれちゃんの緊張がほぐれる。

うまくやってるんじゃない? わたし。

 

しばらくお互いの学校のことを情報交換して、

「ね、しぐれちゃん、そっちの席来ていい?」

「隣に? 連絡先でも交換したいの?」

「ダメ??」

「全然いいよ。

 でも、そのまえに、愛さんにひとつ訊きたいことがあるんだけど」

「ん???」

「愛さんに、というより、おふたりに――かな」

 

も、

し、

や、

 

「――愛さんとアツマさんって、どんな関係なの?」

 

言、

わ、

れ、

て、

し、

ま、

っ、

た、

 

 

 

 

「……さっきまでのテンションはなんだったんだ、このお調子者。」

弱々しく、「だって…」とつぶやくのが精一杯だった。

アツマくんは続ける。

「一緒に住んでる」

「ふたりで……ですか」

「んなわけない。おれの邸(いえ)に姉弟で居候してる」

「居候…」

「いま6人暮らしだから、にぎやかだぞ。

 遊びに来るか?

 おれんち、広いし」

微笑みながら、「行きたいかも」と率直に気持ちを表明するしぐれちゃん。

「いつでもいいぞ」

「い、いつ来てもいいからさ、とりあえずわたしと連絡先交換しようよ」

「なにテンパってんだ」

「うるさいっ」と椅子から立ち上がって、とりあえずアツマくんの頭を軽く小突いた。

そしてしぐれちゃんの隣に席を移し、スマホを出し合った。

「ごめんね、めんどくさくって、彼」

「おまえもな」

「ほっとこほっとこ♫」

わたしたちふたりのやり取りが、可笑(おか)しかったのか、微笑ましかったのか、クスッと笑うしぐれちゃん。

ただ、

微笑みのなかに、寂寥感(せきりょうかん)のようなものが混じっているのを、わたしは見逃さなかった。

顔で笑って、心で泣いているようでもあった。

 

 

× × ×

 

しぐれちゃんとは別の、帰りの電車。

並んで吊り革につかまる。

 

「あんまりひとりで突っ走るなよ。…ったく」

「アツマくん、」

「あぁん?」

「あぁん? じゃないわよ。

 アツマくん、しぐれちゃんには、優しく接してあげなきゃダメよ

黙って、キョトンとするだけ。

なんにもわかってなさそう。

行間を読めっ、アツマ。

わたしは読書量が激減していても行間を読むことは得意なんだからねっ。

 

 

【愛の◯◯】メランコリックにこんがらがって

 

文芸部の木幡(こわた)たまきさんが、本を読んでいる。

なにを読んでいるかというと…。

 

「…パンの作り方の本ですか。」

「そうだよ羽田さん」

「…相変わらず、文芸書以外の本を読んでるのね」

「でも、文学にもパンって出てくるでしょ?」

「そりゃ、パンはいろんな要素で出てくると思うけど」

「文学作品で有名なパンの描写ってないの?」

「ええと……新約聖書。ほら、最後の晩餐」

たまきさんから答えにくい質問がマシンガン打線のように飛んでくる。

「『おまえは今までに何枚のパンを食べてきたんだ?』ってやつ?」

「え、イエスはそんなこと言ってないって」

「うん。

 わざとまちがえた」

絡みづらい……。

悩ましい。

 

「今週はパンの作り方だけどさ、羽田さん、わたしが今月読んでた本、ぜんぶ思い出せるでしょ?」

 

「……えっ」

 

あわて気味にたまきさんが、「ほっほら、2月だっけ、憶えてたじゃん羽田さん、わたしが読んでた本をみんな――」

 

「……思い出せない」

思い出せない。

たまきさんが、最近読んでた本。

「ご、ごめんね、前は憶えられたんだけどなー。

 たぶん、ほかのことで頭がいっぱいだったんだ」

「どんなこと?」

ドキン。

「――な~んてね。

 訊かないよ、わたし。

 そっとしとく。

 羽田さんにも、いろいろあるんだよね」

「た、たまきさんは、悩んだりあんまりしないんだね」

「そう見える?」

「マイペースだなーって」

「たしかにね」と楽天的に笑うたまきさん。

パンのレシピ本を閉じて、

「パンでも食べて元気出しなよ、羽田さん」

なぐさめられたんだろうか…。

 

たまきさんが読んでた本を思い出せなかったってことは、そんなことを気にする余裕もなかったってことで。

なにか別のことで、あたまが埋まっているのだ。

 

……たまきさんは進路のことでナーバスになってる様子が微塵(みじん)もなく、うらやましいと思ったりする。

他人と比較することで、焦る。

 

GWに流さんに進路のことで痛いところを突かれた。

流さんとは「より」を戻せたけれど、わたしの進路選択問題は宙ぶらりんになったままだった。

模擬試験で、志望校と学部を書かなければならない。

わたしの模擬試験の志望欄は、二転三転していた。

固まらない。

また、模試が来る。

やばい。

 

 

× × ×

 

 

夕食後。

自分の部屋で、机に向かって、『学部・学科ガイド』的な分厚い本を読んでいる。

 

理系に転じる予定はまったくない。

ということは、文系。

「文学が好きなら、文学部の文学系専攻~」とは、素朴に考えられない。

文学部の外から文学を見てみたい気持ちもある(これは、流さんにも話した)。

 

「法学部…政治経済学部商学部…社会科学部…教育学部…」

たわむれに某早稲田大学の学部名をつぶやいてみる。

 

進路は、ルーレットで決められるようなものでは、断じてない。

わたしは自分の専攻をできるだけ絞り込みたいと思っている。

「どの大学に入りたいか」ではなく、「大学でどう学びたいか」が大事なのだ。

 

意識……高すぎ??

 

「大学受験はゲームではない」という前提が、

わたしをがんじがらめに締め付けている。

 

真剣に悩むごとに、結論から遠ざかっていってる――。

 

 

× × ×

 

アツマくんの部屋をノックした。

 

 

「なんだ、深刻そうな顔して」

「やっぱりわかるの…?」

「わかるさ」

 

ぽふ、とアツマくんの胸に身を投げ出す。

 

いつの間にか部屋に入っていた。

アツマくんの上半身に身を任せたまま、立ち尽くす。

 

「――こんがらがっちゃった、わたし」

「どういうふうに?」

「わたしの未来のビジョンがこんがらがっちゃった。1年後のわたしの姿が、なんにもイメージできない」

「進路か…」

「もうすぐ模試があるの。こんなんじゃ不安で模試なんか受けられない」

「弱ってんな」

「だから、弱音を吐く相手がほしかった」

 

 

弱々しくアツマくんのベッドに座った。

足を浮かして、壁にもたれかかった。

大きな溜め息をついた。

 

「模試は、受けたほうがいいと思うぞ」

「わたしもそう思う」

「受けたくないんじゃなかったんか」

しょうがねーなぁ、と言いたそうに。

「でも――抱えこんでて、いろいろ」

「だな。」

「抱えこんでる荷物を、できるだけ下ろして、少しでも楽になりたい。

 そうなったら、模試も受けられる、前に進んでいける」

 

ベッドから立ち上がって、床に正座。

椅子に座っているアツマくんの顔を見上げる。

 

「人生相談がしたい」

「人生相談か……思ってもみないこと言うかもしれんぞおれ。それでおまえがますます弱ったら、大困りになっちまうが」

「話をあなたに聞いてもらうだけでも、荷物が下りるから」

「荷物、って、抱えこんでるもの…か」

「そう、だから、これ以上弱ることなんてないから。

 人生相談が大げさだったら、わたしの話だけでも聞いてよ」

「お安い御用だ。」と椅子から降りて、わたしの正面に向かい、彼は正座する。

「――正座する必要あったの」と、少し笑う。

少しだけでも、笑える余裕、できた。

「『抱えこんでるものがあったら、できるだけおれを頼ってくれ』って、アツマくんが言ってたから」

「ああ、言った気がする。

『頼ってくれ』とまでは、言わなかった気もするけど」

「でも今は頼らせてもらうから」

「どうぞお頼りください」

「じゃあ頼らせてください。

 よろしくおねがいします、アツマくん。」

「こちらこそ、よろしく。

 でもその前に、足を崩してみませんか。

 お互い正座は堅苦しいと思うのですが」

「わたしもちょっと前からそう思っていました」

 

そういって、正座をやめて、

ふたりで笑いあった。

 

ほんと、どうしようもないや、わたし。

どうしようもないぐらい――アツマくんが好きなんだ。

 

 

 

【愛の◯◯】予習不足で年下の男の子と接するべからず

 

スーパーマーケットに愛と来ている。

「こんな庶民的なスーパー来るんだね、愛も」

「え、さやか、どこで買い物してると思ってたのふだん」と笑う愛。

愚問だったか。

 

野菜コーナーで、愛がタマネギを取ろうとしたら、小さな男の子とほとんど同時になった。

その男の子を気づかって、愛がタマネギを譲ってあげる。

恐縮そうに、お母さんが、「どうもすみません」と愛に言う。

「とんでもない~~」と愛。

「ほら、ありがとうって言いなさい」とお母さんに促される男の子だったが、愛の顔を見上げて、しばらく照れくさそうにしていた。

 

 

食材を袋に詰めるのを手伝っているとき、

「おませさんだったね」とさりげなく呟いてみた。

「さっきの男の子が?」

「そう。あんたの眼の前で、恥ずかしそうだったじゃない」

「どうかなあ?」

とぼけてるのか、天然なのか。

わたしだったら、ああいうとき、もっとあたふたしてたかもしれないから、小さい子供のあつかいが上手い愛がうらやましかったりもするのだ。

 

まあ、わたしもこれから、年下の男の子と会うわけだが……。

 

 

× × ×

 

というわけでお邸(やしき)に来た。

「ヤッホー利比古(としひこ)。たっだいま~」

愛の弟の利比古くんが、すでに帰ってきている。

この春から高校に通い始めたという。

2つ下か――。

弟、いないからな、わたし。

愛はいつも、どう接してるんだろう。

「おかえり、お姉ちゃん。寒いのに、テンション高いね」

『お姉ちゃん』って呼ぶんだ。

「利比古はテンション低いの?」

「低くはないけど」

「ほら、さやか来てくれたんだよ。もっと喜びなさい」

いきなり無茶振りかっ。

 

「こらこら愛。無茶振りしない。弟さん戸惑ってるじゃん」

「無茶振りじゃないもん…」

「素直じゃないなあ」

と、利比古に対してはいっつも素直だよ!? わたし

 

「こんにちは、利比古くん。

 はじめまして。

 青島さやかです。

 愛とは同じクラスにはなれなかったけど…いつもよくしてもらってる。

 よろしくね」

「こちらこそはじめまして。

 さやかさん、きょうはよろしくおねがいします」

「こんなに早く帰ってるってことは、もしかしてテスト前の部活停止?」

「そうなんです、中間が近いんで。

 部活停止のおかげで、助かってるところもあるんですけど…」

「ん、そんな厳しい部活に入ってるの、体育会系とか?」

「いえ、バリバリの文化系なんですけど、3年の先輩が怖くって」

「あらま」

 

「人当たりが強いんだって。女の子で、ちょうど高1までのさやかみたいに」

「ひ、ひとこと余計なんだから愛は」

「どこが余計だった?」

「キョトンとするなっ!!」

 

 

「じゃあわたし夕ご飯の下ごしらえするから。

 ごゆっくり~」

 

 

――なにが『ごゆっくり』だっ!

 

 

× × ×

 

「――あんな感じで疲れない? いつも接してて」

「そこは慣れてるんで」と苦笑。

姉弟なんだなー。

 

「……わたしもひとのこと言えないや。

 愛が言ったとおりなんだ。

 むかしは、人当たりが強くって。

 ちょっとどころじゃなく面倒くさいヤツだったんだ、わたし。

 愛と……出会うまでは、ね」

 

あれ???

 

なんでこんなこと、初対面の利比古くんの前で、ベラベラしゃべってんだろ、わたし。

 

「い、いけない、いけないね、勉強を教えてあげないと、」

 

「姉といろいろあったんですね」

 

どうしてわかるの……

 

「わかります。」

 

 

「…英語は大丈夫だって聞いてるから、数学やろっか数学。とにかく数Ⅰの今の段階だったら、問題をたくさん解けばなんとかなるから…」

なにゆえテンパってんのか、わたし?

年下の男の子との接し方を、もっと予習すべきだったー??

あらかじめ持ってきた数Ⅰの問題集を出そうと思ってカバンをまさぐったが、不都合にもなかなか問題集が出てこない…!

 

「さやかさん、落ち着いてください」

カバンの中にある手を思わず止める。

「勉強すべきなんでしょうけど、その前に、

 ぼくは学校での姉の様子とかも、教えてもらえたら嬉しいかなー、って」

わたしは深呼吸した。

「愛――しばらく、こっちこないよね」

「たぶん」

「わかった。

 愛の前だと話せないようなこと、教えてあげよっか」

「えっ、ぼくとても気になります」

……意外と、欲望に忠実なのかな?

 

 

× × ×

 

 

「――というわけで、意外と愛はおっちょこちょいだったり、甘えんぼうさんだったりするのでありました」

「なるほど。

 ぼくは、姉のことを、一生超えられない存在だと思っているのですが……、

 人間、誰しも完璧ではないですよね」

「愛ってさ。

 料理で失敗することってあるの?

 フライパンを焦がしちゃったりとか」

「焦がしたことはないと思いますね~」

あるわけないじゃん

おおおおおお姉ちゃんいつの間に

「あちゃー」

「あちゃーじゃないでしょさやか。ホントに勉強してたの? してないんじゃないの!?」

「いいじゃん有意義だったし」

……勉強しないとふたりとも夕飯抜きにするよ

お姉ちゃん怒らないでよっ、夕飯抜きならぼくだけでいいよ

「えっ。

 利比古だけ夕飯抜きなんて、そんな取り返しつかないことできるわけない……

 

 

あのねえ……。

あきれる、けど、

理不尽なくらい、弟さんのこと好きなんだなーってことは良くわかった。

わたしも同じだ。

理不尽なくらい、兄さん好きだから。

……兄さん以外にも、

年上の男性(ひと)のことになると、感情が理不尽に暴れ出して。

 

荒木先生のことは、さすがに利比古くんにはバラせないや。

バラす必要、最初からないんだけど。

 

 

 

【愛の◯◯】ピアノはじめました

 

大学の、最終年度が始まった。

どっかのギンと違って、単位をきちんと取っていたから、あまり講義に出る必要がない。

講義に出る代わりに、公務員試験の勉強に時間を割いている。

それでも、時間というものは余ってしまうもので。

あたしは余った時間を使って、新しいことにチャレンジすることにした。

それは――。

 

× × ×

 

きょうは肌寒い。

もう少し重ね着してくればよかった。

失敗だった。

寒暖の差が激しい昨今。

――どうりで、葉山ちゃんも調子崩しちゃうわけだわ。

 

もう少しで陽も沈みそうだ。

あたしはとあるお邸(やしき)のインターホンを押した。

豪邸というに相応(ふさわ)しいお邸である。

 

出てきたのは、大学の後輩の戸部くん。

そうあたし、戸部くんの邸(いえ)にお邪魔しようとしているのでした。

 

「どうもこんにちはルミナさん」

「こんばんわ」

「あー、もうそんな時間ですか」

「5限なかったんだね、戸部くん」

「ハイ。速攻で帰ってきて」

「学生会館、寄らずに?」

「ハイ。行ってもよかったんですが」

「でも行かなかった」

「ハイ」

「よしよしいい心がけだ」

「タハハ……」

 

× × ×

 

とりあえず、大きな大きな広間に通される。

「愛はもうすぐ帰ってくると思いますよ」

「わかった。愛ちゃんが帰ってくるまで、ここで待ってる」

 

すると愛ちゃんより先に、戸部くんの妹であるあすかちゃんがドタバタと帰ってきた。

「バカ兄貴。当番の自覚があるなら食材買い忘れるなっ。重かったんだから、持って帰ってくるの……」

「悪かったよ、妹をパシリにして」

「あっルミナさんだ。うちの愚兄がいつもお世話になっております」

あすかちゃんは買い物袋を戸部くんに押し付けるなり、そうやってあたしに挨拶してペコリとお辞儀した。

「こんばんわ、あすかちゃん。久しぶりじゃない?」

「そうですね。ルミナさんがここ来るの、珍しいですもんね」

「当番って、食事当番のこと?」

「ハイ! 夕食当番が愚兄だったんです」

「戸部くん料理できるんだ」

「できませんよ」

「できなかったら当番やってねぇよ……」と軽くボヤいて、戸部くんがキッチン方面に消えていく。

「食べてみたいなあ」

あすかちゃん、あたしの「食べてみたいなあ」が意外だったみたいで、「や、やめたほうがいいですよ」とテンパり気味に言った。

「どうして~」とおちょくるように言うあたし。

「そっ、そもそもきょうは何故にうちの邸(いえ)に…?」

すると玄関が開く音が耳に届いて、やがてお待ちかねの愛ちゃんが広間に入ってきた。

「待ってたよぉ~~、愛ちゃん」

「待たせてすみませんルミナさん」

「あやまることないよ」

 

「おかえりなさい、おねーさん」

「ただいま、あすかちゃん」

「おねーさん、兄貴のせいで夕飯が遅れそうです」

「まぁまぁ、そんなカリカリするもんじゃないの」

「でも買い出しに行かされたんですよ。こんなこと前にもあったし。おねーさんからガツンと言ってやってくださいよ」

「わかったわかった。

 でもその前に――ルミナさんをグランドピアノに案内しないと」

「? リサイタルでもやるんですかおねーさん」

「まさか、まさか」

 

「違うの、あすかちゃん。

 愛ちゃんに、弾いてもらうんじゃなくって、

 あたしが、ピアノ使わせてもらいたかったの

「あ、ルミナさん、ピアノ弾けたんですね!!」

「違うんだな、あすかちゃん」

「え……」

「始めたばっかりなの。

 4月から新しいことしたいな~ってやつ。

 大学の単位もほとんど取ったし、時間余っちゃうしね。

 だけど、軽はずみな動機じゃなくって、ゆくゆくは児童文化センターのエレクトーンで、子どもたちに演奏してあげるくらいにはなりたいなーって。

 あたしが、卒業して就職しちゃう前にね。それまでには披露してあげたい、わたしの演奏を。」

感激したのか、「夢があっていいですね!!」とあすかちゃんは言ってくれた。

 

× × ×

 

立派なグランドピアノがあるものだ。

「しょうじき、葉山ちゃんちのピアノとは、スケール違うね…」

「ルミナさん。わたしも葉山先輩にさっき連絡してみました。ルミナさんにずいぶん元気づけられたって」

 

じつは普段は葉山ちゃんの家で練習させてもらっているのだ。

葉山ちゃんのレッスンを受けるんじゃなくて、全部自分で教則本片手に練習してるんだけど。

葉山ちゃんに負荷をかけたくないし、迷惑もかけたくない。

彼女の体調の様子をみて――彼女が元気な日に、お邪魔して、ピアノの部屋を使わせてもらっている。

『ピアノを借りる代わりに、なにかしてほしいことあるー?』って訊(き)いたら、少しためらったあとで、『部屋がグチャグチャで、自分だけじゃ整頓できなくて……』と弱り気味に言ってきたから、『わかった、部屋を掃除してもらいたいんだね』と引き受けた。

ギンと違って、整理整頓は得意なのだ。

葉山ちゃんは、整理整頓が苦手な代わりに、お料理が得意なことがわかってよかった。

葉山ちゃんが元気なときに、また彼女の手料理を食べてみたい!

 

「……でも、戸部くんの手料理にも興味あるかな」

「食べてみますか?」

「いい?」

「いいですけどあんまり期待しないでくださいね」

「ヤッター」

「アツマくんに伝えてきます」

彼女の背中に、

「――愛ちゃんからみて、戸部くんの料理、どう思う?」

ぴた、と彼女は立ち止まって、

「……味付けが大ざっぱなんですよ。

 繊細さが足りない。

 盛り付けもヘタ。

 

 でも……彼の料理には、ぬくもりがあるから……。

 こんなふうに寒い日だと…彼の料理…なんでか知らないけど……不思議とこころがあったまるんです

 

 

× × ×

 

そう言って彼女はキッチンに行った。

あたしはニヤニヤとしてしまって、教則本の楽譜がしばらく頭に入ってこなかった。

愛ちゃん、かわいい。

愛ちゃんと戸部くんの関係も、とってもかわいい。

 

 

 

 

【愛の◯◯】天の声と愛情家族

 

甲斐田しぐれ、桐原高校3年女子、放送部部長。

好きな少年漫画は、『スラムダンク』。

スラムダンク』で好きなキャラは、三井寿…。

 

…えっ?

「産まれる前の漫画だよね」って、誰か言いましたか??

…それがどうかしましたか。

 

× × ×

 

例によって放課後。

部活に行こうかな~と思い、放送室のある方角に廊下を歩いていく。

そしたら、麻井律が、階段に腰掛けて、なにか読んでいる。

私は麻井をスルーした。

声をかける用事もなかったし、そもそも私、麻井と仲良しの反対状態だから。

それに、

なんだか、ただならぬ雰囲気だった――麻井。

地球上の誰が何度声をかけても、反応してくれないだろう――そんなぐらい、さっきの麻井は殺伐として、本と睨(にら)めっこしていた。

 

麻井が、なんの本を読んでいたか?

 

たぶん、単語集だ。

難関大学受験生がよく使うような単語集だ。

 

単語集と一心不乱に睨(にら)めっこして。

険しい眼つきで。

――やっぱり余裕がないんだ、麻井。

 

× × ×

 

麻井のことは麻井で自己解決するのがいいと思って、基本放っておくんだけど、

 

無理してないよね……麻井?

無理してるんじゃないの?

ひょっとすると、ひょっとしなくても。

 

余裕がないどころじゃなくなってる気がするよ。

階段でスルーしないほうが正解だったかもしれない。

でもたぶん、麻井はあのあと旧校舎のKHKに向かっていったんだろう。

そのはず。

麻井がKHKをほっぽりだすわけないもん。

 

でも……ひょっとすると、きょうはKHKに行かずに、帰宅部みたいに、自宅に直行したのかもしれない……。

いや、麻井に限って!

 

しかも、

麻井にとって、自分の家は……必ずしも居心地がいい場所じゃない……。

 

 

麻井に言えない言葉、言ってはいけない言葉がある。

 

 

お兄さんは現在(いま)、どうしてるの?

 

 

 

× × ×

 

こんがらかった思いを抱えたまま帰宅した。

 

しぐちゃ~~ん、おかえり~~

お母さんが優しく出迎えてくれる。

私のお母さんは、いつも優しいのだ。

もう子どもじゃないのに、私。

――でも、去年私が夏風邪をひいたときとか、つきっきりで看病してくれたな。

もう子どもじゃないんだけどな。

だけど、本心では、うれしかった。

「はい、ただいま。」

靴を脱ぎながら、全身で娘への愛情を表現してるみたいなお母さんに「ただいま」を言う。

「おフロわいてるよ♫」

「わかった、じゃあ入る」

 

× × ×

 

で、湯船につかる。

こんがらかった麻井への個人的感情が、少しだけほぐれるような気がする。

少しだけ、ね。

なんだか、根本的なことを先送りにしている気がしてならない。

お湯でからだの汗は流せても、こころの汗までは流せない。

気が紛れるかと思って、好きな歌のメロディーをハミングしていると、

 

素敵な歌声ですね

 

え……誰の声!?

 

天の声です。天井から聞こえてくるでしょう?

 

「どちらさま………ですか!?」

ですから天の声です

「こたえになってない」

テレビ番組のナレーションみたいなものです。貴女放送部部長だからナレーションには詳しいでしょう?

「詳しい詳しくないの問題じゃないです。というか、どうして私のことそんなに知ってるの…」

天の声だからです

 

気が動転する私を置き去りにして、

 

お知らせがしたかったのです。

 本シリーズも、どうやら今回で通算500回を迎えたみたいなのですよ。

 読者の皆様、いつもご愛顧いただいてありがとうございます。

 やっと折り返し地点ですか。

 500回。

 これがまだ折り返しではないのかもしれませんが――、

 キリ番なので、どうしてもこの場を借りて報告したかったのです。

 

私はムカついて、

「この場を借りて、って、わざわざ女子高生の入浴シーンにしゃしゃり出てこなくてもいいじゃないですか!!」

ちなみに本シリーズ・【愛の◯◯】の過去ログはブログタイトル下のリンクから辿(たど)ることができます

「……聞いてますか!?」

 

 

× × ×

 

あーーーーーーーーーーーっ。

ひどい目に遭った……。

悪い夢を見てたみたい。

おかげで、麻井関連のモヤモヤがどっかに吹っ飛んでしまった。

 

× × ×

 

で、夕食後。

「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様♫」

「お母さん、私部屋で勉強するから」

そう言って、食器を自分で洗おうとしたが、

置いておくだけでいいのに~~♪

「そ、そう」

 

「じゃあ2階あがるね」

「しぐちゃん、根を詰めすぎないのよ♬」

「わかってるって。しょうがないなー」

 

しかしお父さんが、

「たまには父さんとテレビでも観ないか? しぐれ」

「ありがとうお父さん、でも中間テストあるし、模試も近いから」

そう言って私は階段に行こうとしたけれど、

お父さんはお父さんで、穏やかな口調で、

 

――結果がすべてじゃないぞ、しぐれ

 

「もー、お父さん、いつもそれ。」

苦笑いしながらも私は、

「でも、ありがとう。心に留(と)めておくよ、お父さん」

 

喜ぶお父さんに、振り向いて、こう約束する。

「――9時まで待ってて。

 9時になったら、階下(した)に来るから」

 

 

 

 

 

 

【愛の◯◯】こわれたスイマーの願い

 

瀬戸宏(せと こう)。

高校3年男子。

スポーツ新聞部、副部長。

 

中学までやっていたスポーツは、競泳――。

 

× × ×

 

桜子の部長権限により、自己紹介文を書かされることになった新入生の加賀真裕(かが まさひろ)、約束通りきょう月曜の放課後、自己紹介文を書いてきて持ってきたのだが、とてもそのままで掲載できるような代物(しろもの)の文章ではなく、顧問の椛島先生含め上級生総出で加賀の文章を直すはめになった。

 

疲れた……。

 

「大丈夫っすか?」と加賀に声をかけられた。

おまえのせいだよ。

 

× × ×

 

岡崎とあすかさんが、野球の話をしている。

岡崎さすが、おれより消耗してない。

岡崎の鍛えかたが違うのか、おれのブランクが長すぎるからか。

 

あすかさんにしても、加賀の文章を直す過程でテンションが上がっていったみたいに、声が弾(はず)んでいる。

消耗を感じさせない。

元気だ。

 

あすかさんは、おれや岡崎と違って、運動部経験がないと言っていた。

それなのに、凄いバイタリティだ。

 

「…あすかさんは、疲れてないの?」

彼女に訊(き)いてみる。

「どうしたんですか瀬戸さん、そんなグロッキー状態になって」

「げ、元気だね……、体力、意外にあるんだね」

「?」

「??」

「そんなに体力使うこと、きょうやってない気がしますけど」

「いや…、加賀の文章直すの、大変だったじゃん?」

たのしかったじゃないですか

 

強い、あすかさん強いよ。

そして、容赦がないというか、なんというか。

 

あすかさんと岡崎さんはなおも野球談義を続ける。

フランチャイズ・プレイヤー」という概念について。

要するにそのチームひと筋! という選手のことで、MLBヤンキースならば、ジーターとかリベラとかポサダとかのことをいうらしい。

MLBの世界でジーターみたいに20年一貫してヤンキースでプレー、というのは、たしかに難しいことだろう。

勉強になった。

 

 

× × ×

 

 

勉強にはなったが、気分転換も兼ねて、活動教室からいったん退散させてもらって、校内プールに足を運ぶ。

 

岡崎とあすかさんの会話は、よく弾む。

相性がいいのか。

呼吸も合うのか。

 

今年の1月の終わり――だったっけな、センバツの出場校紹介記事をめぐって、岡崎とあすかさんがケンカしてたことがあった。

仲直りの過程は――「雨降って地固まる」ということわざのようで。

「どうやってあすかさんと和解したんだ?」と岡崎に訊いてみると、

コービー・ブライアントのおかげだよ」という、妙な返事が返ってきた。

 

 

たとえば、

岡崎とあすかさんと。

もしくは、

岡崎と桜子と。

 

――どちらが、よりお似合いかなぁ? という、変なことを、考えてしまうときがあって。

 

もちろん、ほかのスポーツ新聞部の人間には、口が裂けても、言えない。

 

 

岡崎とあすかさん。

呼吸が合っていて、おれには良いコンビに見える。

岡崎と桜子。

こちらは呼吸がまったく合ってない、凸凹(でこぼこ)コンビだ、でもおれにはその凸凹(でこぼこ)が味わい深い。

 

どちらの関係も、捨てがたい。

ただ、こういう妄想は…他人の色恋沙汰(いろこいざた)を値踏(ねぶ)みしているみたいで、妄想している自分が嫌になってくるから、ホドホドにしておくことにしているんだけれども。

 

 

――いけない、いけない。

色恋沙汰とか、大げさだ。

スポーツ新聞部を、ラブコメ漫画の舞台に見立ててるみたいじゃねーか、

ダメだぞ、瀬戸宏よ。

副部長という、責任ある立場なのだ。

他人の関係を、必要以上に吟味(ぎんみ)するのはやめるんだ、おれ!

 

 

 

× × ×

 

プールには、神岡恵那(かみおか えな)。

おれの姿を見た途端、ムスッとした顔になる。

ここに来るあいだ変な妄想にふけっていたから、気持ち悪く見えてしまったのかもしれない。

 

「やってるなあ、恵那」

「きょうは一段とマスゴミだね」

 

え………。

 

「ひ、ひどいよ恵那。そんなに気色悪かったか? おれの雰囲気が――」

「キショくはないよ。

 ただ、マスゴミだなぁって、感じただけ。」

「――じゃあ、名前の代わりに『マスゴミ』呼ばわりはやめてくれ」

「――あんたの下の名前、なんだっけ」

ひ、ひでえ。

こんな腐れ縁なのに、わざと下の名前を知らないふりして。

「宏(こう)だよ。

 ……親は、『有名な水泳選手から、1文字もらった』って言ってたっけ」

「ふ~~~~~~ん」

その恵那の表情は、興味がないようにも見えたし、「なるほど」と納得しているみたいにも見えた。

「素(す)で忘れたとか?」

なにも言わないで、彼女はスタート台に立つ。

スタートの体勢になって、水面に向かって飛び、水に潜り込んでいく。

しなやかにプールに飛び込んでいく、恵那の身体。

流線形(りゅうせんけい)を描(えが)いているみたいに、恵那は跳ぶ。

 

ここまでどれだけ努力を重ねたのだろうか。

 

故障したおれの身体が、すこし恨(うら)めしくなるけれど、恵那ががんばっているのが実感できると、さっきまでの疲れが、少しづつ、抜けていっているのがわかるのだ。

 

 

 

おまえはスイマーだよ、恵那

 

あっという間に50メートルプールを往復して戻ってきた恵那に、おれの決めゼリフみたいなカッコつかない言葉は、聞こえていない、届いていない。

金網サイドで佇(たたず)むおれの顔を、プールから恵那が見上げている。

眼が合う。

 

「――大学生みたいで嫌い、きょうのあんた」

 

――とうとうおれの苗字も名前も口にせず、プイッと顔をそらして、やがて恵那は自主練習に戻っていく。

 

 

加賀のほうが、よっぽど素直だ。

 

 

 

 

 

 

恵那……。

無事に行ってくれ。