【愛の◯◯】幼馴染を超えた幼馴染に

 

ギンの寝グセが目立っている。同じ黒髪でもあたしとは対照的だ。休みの日でも手入れを怠らないあたしの髪に寝グセなどあるワケない。児童文化センター職員として児童に模範を示すためにキチンとした髪の状態を維持するよう努力している。そんなあたしに対して、ギンの髪には何の努力の形跡も見られない。しかも、寝グセを放置したまま。

まさか、寝グセを目立たせたまま職場に行ってるんじゃないでしょーね……と思った途端に、ガマンならなくなり、ギンの部屋のギンのベッドからあたしは腰を上げる。

壁にもたれるようにして音楽雑誌を熟読している幼馴染男子にずんずんと接近していく。

某・音楽雑誌を強引に奪い、

「今の身だしなみのままのあんたには、この雑誌は読ませられない」

とピシャッと言う。

「あたしのハンドバッグの中にヘアブラシあるから、貸したげる。あたしが見守ってあげてるから、寝グセをなんとかしてちょーだい」

「ヘアブラシを携帯するなんて、おまえにしては用意がいいんだな」

間の抜けた声が聞こえてきて、左側頭部に軽い頭痛を覚えてしまう。

「あたしのコトなんだと思ってんのっ!」

早口で怒鳴りつけるのだが、

「アラサー幼馴染女子」

とか即答してきたので、アラサー幼馴染男子のメガネをすぐさま取り外す。

 

× × ×

 

アラサー幼馴染男子の寝グセがなかなか元通りにならないから疲れた。

「もういいよ、あたしの方が疲れてきちゃった」

そう言いつつ、右手を差し出し、

「ヘアブラシ、いったん返して」

素直にヘアブラシをあたしの右手のひらに置くギンが、

「ルミナ」

と呼んでくるから、

「なによ」

と応えると、

「Switch2で遊ぶか」

「えっ」

いきなりの誘いに驚くあたしはヘアブラシをぎゅっと握り締めてしまう。

「なんでそんなビックリしたみたいなリアクションになる」

メガネを再び装着しつつ言うギンは苦笑いだ。

「おまえは物心ついた時からの任天堂ハード大好きっ子なんだから、Switch2に没頭すれば疲れも癒やされるだろ」

任天堂ハードで遊ぶコトが癒やしになるというギンのロジックは理解できるけど、Switch2で『2人で』遊びたいソフトがパッと思い浮かんでこない。1人用ゲームなら、『ぽこ あ ポケモン』を絶賛やり込んでいる最中なんだけど。

「『ぽこ あ ポケモン』にハマり過ぎて、他のSwitch2のソフトが頭に浮かんでこないみたいだな」

キモチ悪いぐらい鋭いギン。

あたしは真向かいのギンの顔が上手に見られなくなる。

「……Wiiにしない? Wiiに」

ココロの微熱を否定できないから苦し紛れになって言い、

「Wiiテニスあるでしょ、Wiiテニス。あたし、高校時代ソフトテニスやってたじゃん!? ……テニスの腕には、実は自信あって」

テンパる姿を幼馴染男子に向けて見せてしまっていたら、テンパる姿を眺めていた幼馴染男子が腰を浮かせ、あたしの目前に徐々に近寄ってきた。

なんなの、ギン……。

なんでどーして、そんなに距離を詰めてくるの……?

「腕、ねぇ」

呟くように言ったあと、ギンはギンの右手をあたしの右腕に近付けてきた。

下の腕に、右手のひらの感触。

そんなスキンシップ許した憶えないんですけど!?

「――ソフトテニスしてた割には、柔(やわ)っこいな」

「せせせセクハラっっ」

怯えるあたしは震える声を出す。……腕をギンの魔の手から離せないままに。

「気持ち悪かったか」

そう言いながらギンはギンの魔の手を離す。

「ごめんな」

謝る声は真面目な反省の色を帯びていた。

「……おれ、最近、おまえとの距離感が、イマイチつかめなくなってきていて」

声に真面目さを籠め続けるギンは、

「なんか、『これまでと同じでいたくない』というか、なんというかで」

幼馴染男子のキモチの露出に直面したあたしは、ベッド座りの姿勢を正す。

大きく息を吸って、長めに息を吐いて、それから、

「現状維持に、飽きちゃったの?」

さほど間(ま)を作らずにギンは頷き、

「おおむね正しい」

あたしは再び、大きくて長い深呼吸をしてから、

「そういうキモチは分からないでもないけど、あたしの腕に触る時は、ヒトコト言ってからにして。幼馴染同士だけど、あたしは女子なんだからね?」

と告げる。

触れられたダメージもだいぶ鎮まっていた。

だから、

「現状維持がイヤなのは、あたしもだよ。幼馴染を超えた幼馴染になってみたい」

と、言ってみちゃったりもする。

「……なんだそりゃ」

やや下を向いて呟くギンの顔には確かに微笑みがある。

あたしは、

「ギンが今の10倍誠実になってくれたら、あたし、今の100倍、ギンを好きになれる」

と、熱いコトバを吐き出していく。

Switch2やWiiどころじゃないシチュエーションになってきちゃったけど……まあいいや。

 

 

 

【愛の◯◯】GRAPEVINEの「白日」をめぐる想い出

 

とあるサブスクリプションサービスのとあるプレイリストをシャッフル再生していたら、聴き憶えのある楽曲が流れてきた。

ベッドにゴロ寝(ね)状態だったあたしは、右耳の近くに置いたスマートフォンに思わず顔を向ける。

GRAPEVINE(グレイプバイン)の「白日(はくじつ)」という曲。

瞬く間に、11年前の記憶が蘇ってくる。

 

× × ×

 

高校2年になったばかりの時だった。

ゴールデンウィークに突入する直前だったと思う。

土曜日の補習授業を終えたあたしは、購買でパンと紅茶を買ってから、自分の組(クラス)の教室に行こうとしていた。

その道中で、丸太(まるた)を割ったベンチに寝そべっている山田(やまだ)ギンに出くわした。

ギンは、あたしの、産まれた時からの幼馴染。幼稚園も小学校も中学校も高校も全部いっしょ。

後(のち)には大学までもいっしょになるのだが、これは互いに高校の制服を着ていた時のお話である。

グリーンのブレザーを着てグリーンのスカートを穿(は)いていたあたしは、グリーンのブレザーをだらしなく着てグリーンのズボンをだらしなく穿いていた幼馴染男子の情けない寝転び姿に近付いていった。

『ルミナかよ』

あたしの存在に気付いて、ギンが右耳のヘッドホンを外した。

『補習が終わった途端に、そんなトコに寝転んで、音楽聴きながら自分の世界にドップリ浸かるだなんて。幼馴染女子として、情けなさ過ぎて泣けてくるよ』

『ふうん』

あたしの厳しいコトバをギンが聞き流したから、

『今聴いてる曲の曲名を教えてくれなかったら、あんたの上半身を踏み潰す』

『新学期早々、バイオレンスな』

ムカつく声音でそう言ってからギンは、

『GRAPEVINEってバンドの「白日」って曲だよ』

もちろん、KingGnuの「白日」が大ヒットする前のコトである。

『いつの楽曲なのよ。どーせまた、あたしたちがヨチヨチ歩きの頃の楽曲だったりするんじゃないの』

『よくわかったなルミナ。1998年リリースのシングルだ』

あたしとギンが産まれた年のリリースであるのが判明したので、

『うわっ、懐メロ』

と声を上げるあたしがいた。

『おまえ、10年以上前の楽曲だったら何でもかんでも『懐メロ』って言いそうだな。そういう癖(クセ)、良くないと思うぞ』

微笑みを表情に混ぜ込ませながらそう言ってきたギンが、眼を閉じた。

挑発的なコトバを言われたあたしは、このままでは終われなかったので、ギンの寝転ぶベンチにさらに歩み寄り、カラダを前に傾けてカラダを見下ろし始めた。

いきなり、ギンの閉じていた眼が開かれた。

あたしは一気に後(あと)ずさった。

少し身を起こしたギンが、

『なんだなんだそのリアクションは。間近でおまえの気配がしたと思ったから眼を開けたら、一気に遠ざかりやがって……』

カラダとココロのいろんな場所が発熱しまくっていたあたしは、

『タイミングってモノがあるでしょタイミングってモノが!! あたしが不都合なタイミングで眼を開けたりしないでよ!!』

と絶叫し、

『ギンの、むっつりスケベ!!!』

と絶叫でもって罵倒したのだった……。

 

× × ×

 

回想を終えてベッドから身を起こしたあたしは、グリーンのブレザーとグリーンのスカートが未だに保管されているクローゼットを眺めながら、

「今では、恥ずかしい想い出というよりも、いい想い出なんだけどね」

と呟く。

高校時代の制服は今年度中にどうにかしようと思う。

理由は、次回以降のお楽しみ。

 

音楽再生を終えたスマートフォンがぶるぶると震えだす。

やっぱりギンからの着信だった。

もしかしたら、

『土曜なんだから、いっしょに昼飯食わないか?』

とか言ってくるのかもしれない。

――胸の奥の中心部が暖まってくる。

 

 

 

【愛の◯◯】「情けない手付き、禁止。」

 

金曜の夜。俺のアパート。

作画作業をいったん止めて、ベッドに腰掛ける大井町侑(おおいまち ゆう)さん目がけて振り向いてみる。

俺には言いたいコトがあるのだが、勇気が湧き上がらず、出し渋ってしまう。ゆえに、気まずいレベルの静寂が漂ってきてしまう。

今日もジーンズスタイル・今日も黒髪ストレートの大井町侑さんは、俺の態度に不満を感じているのか感じていないのかハッキリとしない表情だ。

「――振り向いてきたってコトは、わたしに何か言いたいコトがあるんじゃないの?」

彼女が口を開いてきた。先制パンチを食らわされたような感覚が俺を襲う。

だが、先制パンチを食らわされたコトで、キモチがほぐれてきて、コトバを出しやすくなって、

「ある。きみに、言いたいコトが」

彼女の顔に微笑が浮かんで、

「それなら、言ってごらんなさいよ」

相変わらず、昭和の女性みたいな言い回しするんだな……とか思ってしまうのだが、首を軽く横に振って雑念を振り払い、それから、

「一昨日の夜は、すまんかった。俺の方が悪かった。ムシャクシャするぐらいイライラしてて、忙しい合間を縫(ぬ)って部屋(ここ)に来てくれたきみに、汚いコトバを連発してしまった」

と、頭を下げながら謝る。

「律儀なのね」

そんな彼女の声によって、俺は顔を上げる。

「進歩なんじゃないの? 大学時代と比べたら。大学時代のままのあなただったら、『すまんかった』ってヒトコト言う勇気すらも出せなかったでしょうし」

ホメてくれているんだろうか。珍しいコトもあるもんだ。

「『あなたのコトを見直した』って言ってあげたいトコロだけども」

彼女はそう言ったかと思うと、

「見直してあげるのには、1つ、『条件』があって」

「『条件』?」

「そうよ、『条件』よ」

ベッド上でなぜか姿勢を正す彼女は、

「『スキンシップ』ってコトバの意味は分かるわよね?」

うろたえが芽生えながらも俺は、

「分かる……けども」

「わたし、あなたに、ナデナデしてほしいの」

うろたえの芽が一気に伸びまくっていく俺は、

「ど、ど、どゆこと……」

俺に少しも構わず、

「あなたがナデナデしてきてくれたコト、記憶の中に存在しないのよ」

と言ってから、

「交際期間が1年を超えてるのに、何をやってきたのかって感じよね」

と、苦笑を浮かべながら言う……。

窮地に陥りながらも、

「ナデナデするったって、いったい、どこを」

と問うたら、

「わたしの頭頂部」

と、彼女は、すぐさま。

 

× × ×

 

ベッドに座り通しの大井町さんの間近に立って、

「頭髪を撫でるって、純粋なスキンシップとは、違うのかも……」

と言うも、

「なにおかしなコト言ってるのよ。スキンシップは、スキンシップでしょ」

と、彼女の強引な言い回しにねじ伏せられてしまう。

「わたしの頭の真ん中に早く右手を置いて」

そう促してきてから、

「先週末にヘッドスパに行ったから、頭皮の状態には自信があるの。感謝してよね」

何をどう感謝すればいいのやら。

仕事疲れが抜けないから、発言にヘンなロジックが混じってんじゃないのか……? と疑念を抱き、懸念も抱くが、

「早くっ。あなたにグズグズする権利なんて与えた憶え、ない」

と尖(とが)り始めた声で急かしてくるので、疑念や懸念ドコロの話ではなくなってしまう。

大人しく右手を掲(かか)げ、ゆるりと右手を頭部へと伸ばしていく。

「情けない手付き、禁止。」

大井町侑さんらしさがあまり感じられない声音の不満が突き刺さってくる。

機嫌を損ねたギャル系の女子高校生というかなんというか……そんな声音だった。

イレギュラーな声音にいったんたじろぐが、これ以上焦(じ)らすと大変なコトになってくるのぐらいは理解しているので、気を引き締めて、右手のひらを頭頂部のド真ん中にポンッ、と置いてあげる。

「――うれしい♫」

彼女の弾みに弾む声によって、頭頂部のド真ん中に置く右手の安定性が揺らぎ始める。

しかし、

『このまま彼女を喜ばせ続けないとダメなんだ。それが今の俺の使命なんだ』

と思い直して、キモチを籠め直した右手で、頭髪をナデナデし始めていく。

 

 

 

【愛の◯◯】彼女のヘルメットに◯◯

 

某所某駅入り口付近。仕事終わりのおれは同じく仕事終わりの侑(ゆう)ちゃんと向き合っている。

侑ちゃんはジーンズ穿(ば)き。服装に関してあれこれ言われたりしない職場なのだろうか。他の業界のコトだから良くわからん。

全体的に動きやすそうな格好の侑ちゃんに、

「じゃ、バッティングセンターまで歩くとするか」

と告げる。

侑ちゃんからお返事がやって来ない。

どうした。

大丈夫か。

「……グズグズしてると、ケージが埋まっちゃうかもしれないぜ?」

戸惑いながらも言ってみたら、

「……そうですよね」

と、斜め下を向きっぱなしの彼女から小さな声のお返事がやって来た。

 

× × ×

 

好きなだけ打たせてあげるコトにする。好きなだけ打ちたい気分なんではないかと思ったから。

仕事で上手くいかないコトでもあったんだろうか。

それとも、プライベートな人間関係において『すれ違い』のようなコトが起こったりしたんだろうか。

『すれ違い』というのは……例えば、身近な男子と、すれ違ったりとか。

侑ちゃんの身近な男子といえば……『彼』なワケだが。

 

右打席に立ち続けて打ち続ける侑ちゃん、だったのだが、空振りの多さも目立ってしまっている。ミート力(りょく)は本来高いはずなのに。いつもの侑ちゃんと違ってスイングが大振りになるコトが多い。ブ◯イアントやエ◯ドレッドの如き『三振か、それともホームランか』的スタイルにまでは達していないが、それにしても彼女らしくないバットの振り方だ。

侑ちゃんの迷走ぶりを少し離れた位置からベンチに座って見つめている。

好きなだけ打たせてあげたいキモチに偽りはない。おれがバッティングのお手本を見せてやるのはまた今度でもいい。たくさん『溜め込んでいる』のはもう明白だから。ほとんどストレスフリーなおれと違って、発散したいモノが数多(あまた)あるに違いないから。

だが、凡打や空振りを積み重ねてしまうと、発散するどころか、『溜め込む』モノがさらに増えていってしまう。

――またもや、彼女が内野ゴロを打った。3打数連続である。

おれの懸念の度合いが増していく。

彼女はバットを強く握り直すが、余計なチカラが入ってしまっているとしか思えない。

ボールが再び射出される。

それなりの球速のボールに彼女は全く対処できない。本日いちばんのド派手な空振りがおれの眼に映り込む。

すっ転ぶ寸前まで彼女の体勢が崩れたので、おれはベンチから腰を上げる。

彼女の迷走の理由が解(わか)りかけてきている。溜め込んでいるモノの正体が解りかけてきている。

職務上のストレスではないという確信が生まれている。

やはり、『彼』との関わりに由来するモノなのだ。

おれが黙ってバッターボックスに近付いていくから彼女が少し後ずさる。

バットを握ったままの彼女の表情に若干の怯えの色がある。

ごめんな。ビビっちまうよな。

許してくれ。放(ほ)っとけなかったんだ。

このままの状態できみを帰すワケにはいかないから。

「あのっ、あのっ、アツマさん……。わたし、あまりにも……」

「『お見苦しい姿を見せ過ぎだったでしょうか』って言いたいんか?」

弱々しき声を遮るように言う。できる限り優しき声音で。

「……どうしてわかるんですか」

今の表情を見られたくないのか、ホームベースに向かって俯(うつむ)く。

「そりゃあわかるさ。『師匠』をナメてもらったら困る。きみが言いたいコトバだって先取りできる」

おれの『弟子』を自認している彼女におれはキッパリと言う。

「今日のきみの打率は2割を切っている。バッセンできみが打率1割台なんて、いまだかつて見たコトがない」

と言ってから、いったんコトバを切る。

俯き通しの彼女には酷(こく)なコトバが続くかもしれないが、

「これほどの不調には、メンタル的な事情が影響してるとしか思えない」

と告げないワケにはいかなかった。

「把握できちまうのさ、きみの事情が。『師匠』ゆえに、な」

と言い、

「『彼』の名前を出すのは、きみにとって不都合過ぎるんだろうが……許してほしい」

と言う。

かなり上昇する彼女の目線。ピクリ、という擬音が聞こえてきそうな反応。

「新田(にった)くんとギクシャクしてるんだろ」

彼女の両眼が一気に大きくなった。

さらに目線を上げて、おれを見上げようとするが、いつもの凛とした表情のカケラも残っておらず、弱々しさしか伝わってこない。

「どういうキッカケでギクシャクし始めたのかどうかまでは、訊かない」

そう言いながら、右のバッターボックスの白線まで歩を進める。

彼女に触れようと思えば触れられる距離の近さ。

「おれが言っておきたいのは、『歩み寄らないままだと、余計面倒くさくなるぞ?』ってコトだ」

再び目線を下降させる彼女。おれが告げたコトバを咀嚼(そしゃく)しようとしているのが伝わってくる。

どうにか咀嚼できたらしく、目線をゆっくりと再上昇させる。

「わかってます、歩み寄らなきゃ、ってコトぐらい。……でもっ」

声音はひたすら弱々しく、表情もひたすら弱々しい。

敢えて、

「『でもっ』って、なんだよ。歩み寄るのに、そんなに躊躇(ためら)いがあるってか」

と、突き放す。

絶句する彼女の眼の弱々しさが極限に近付く。

とっとと慰(なぐさ)めてやらんと、マズいよな。周りの目もあるコトだし。

――おれはおれの右手を伸ばし始める。

伸ばす先には、彼女がかぶっているヘルメット。

そのヘルメットに右手のひらを置くコトに躊躇(ちゅうちょ)など一切するはずもなかった。

ヘルメットに約10秒間右手のひらをくっつけたあとで、撫でていく。もちろんのコト、彼女の頭部が痛まない程度の強さで。

一気に目線を下降させる彼女は顔の発熱を少しも隠せない。

おれのキモチが浸透している証拠だ。

キモチが浸透しているがゆえに、くすぐったくなっているんだろう。

『師匠』が直(ジカ)に慰めているんだから、くすぐったくってもガマンしてほしいトコロだ。

 

 

 

【愛の◯◯】残酷な新1年生の◯◯

 

藤ノ森明菜(ふじのもり あきな)というのが、【第2放送室】を訪ねてきた新1年女子の名前だった。なんだか、80年代アイドルみたいな名前だな。

タカムラかなえ(160センチ)よりやや低い背丈。タカムラ(黒髪ストレート)と違ってベリーショート。

少年と少女が混ざり合ったようなイメージを醸し出しているようにおれは感じる。

「明菜ちゃんは、どうしてわたしたちのクラブ活動に興味を持ったの?」

おれが座るパイプ椅子の右隣のパイプ椅子に座るタカムラが大きな声を出す。というか、もう『明菜ちゃん』呼びかよ。

「もともと、去年の春の時点で、この高校が第1志望だったんですけど」

おれ&タカムラの真向かいから、やはりパイプ椅子座りの藤ノ森さんが応答してくる。なんというか、意表を突くソプラノボイスである。

「去年の秋に、『桐原(きりはら)高校では、昼休みに毎日、ラジオ番組を生放送している』って情報が流れてきて。『楽しそうだな~~、あたしも、昼休みにしゃべってみたいな~~』って思って」

『ランチタイムメガミックス』のコトだ。

『楽しそうだな~~』というキモチを持ってくれて、素直に嬉しい。……そうか、藤ノ森さん、自分も『ランチタイムメガミックス』のパーソナリティを務めてみたいんか。しゃべるのが得意で好きなんかな。

「それと」

一層ニッコリとした表情になると共に、藤ノ森さんが、

「去年の2学期の終業式が終わったあとに、『KHK紅白歌合戦』を開催したんですよね? 『KHK紅白歌合戦』の情報も、冬休みの内に伝わってきていて。『ああ、そんな一大(いちだい)イベントを開催するだなんて、企画したヒトは、すっごいエネルギーの持ち主なんだろうなあ……!!』って、あたし、とっても感激したんですよ!!」

タカムラかなえの笑顔のレベルが途端に3段階上昇した。

「あのね!! 『KHK紅白』のプログラムとかは、ぜーんぶわたしが考えたんだよ!! 司会者とか出演者とかも、ぜーんぶわたしが交渉して決めたの!!」

3段階以上上昇したテンションで叫ぶタカムラは、藤ノ森さんに向かって前のめりだ。

見かねて、

「『KHK紅白』を立ち上げたのは、コイツじゃなくて、OBのヒトなんだけどな」

という事実を、右隣の腐れ縁3年女子を右親指で指差しながら、藤ノ森さんに伝える。

「タカムラが、『『KHK紅白』の生みの親は、わたし!!』とか虚偽の情報を伝えちまう勢いだから、正しい情報をおれの方から言っておこうと思う」

「なんなのトヨサキくん、その口ぶりは!! わたしのコト、何回バカにしたら気が済むの!?」

怒りを籠めてタカムラが声を飛ばしてきた。

部屋の奥の方のパイプ椅子に腰掛ける藤ノ森さんが笑い声を発してくれた。

 

× × ×

 

パイプ椅子を蹴倒(けたお)すような勢いでタカムラかなえが立ち上がり、スタジオの出入り口ドアへとズンズンズカズカ進んでいく。

出入り口ドアを凝視しながら、

「明菜ちゃん。明菜ちゃんに、これから、KHKが昨年度制作したテレビ番組を見せてあげるよ」

「うわぁ、うれしいです~~」

楽しそうな微笑みフェイスの藤ノ森さんがタカムラの背中に向けて声を寄せる。

おれは、パイプ椅子に座ったまま、

「どの番組を見せるつもりなんだ?」

と問う。

するとタカムラは、

「『文系が理系教科について本気出して考えてみた』」

と回答。

オイオイマジかよ。

由々(ゆゆ)しいぞ。

由々しいというのは、

「おれが納得できない部分がいろいろとあったし……『文系が理系教科』は、できれば、見せたくないな」

言った瞬間に大きな音を立ててタカムラがスタジオへのドアをオープンした。

「『文系が理系教科』、わたしは番組の出来(デキ)にすっごく納得してるんですけどっ!!」

大ボリュームで叫ぶタカムラ。藤ノ森さんがビビり出しちまうような絶叫はやめろよっ。

「決めた決めた決めた!! トヨサキくんが『見せたくない』って言うから、『文系が理系教科』、見せる!!」

ムチャクチャなっ。

タカムラがムチャクチャを言うので、パイプ椅子から腰を上げ、スタジオ出入り口へと足を進めていく。

入室し、番組再生のための作業を既に始めているタカムラの後ろ姿の前で立ち止まる。

「他にもいろいろあるだろーが、いろいろ制作しただろーがっ。おまえが一方的に決めるんじゃなくて、藤ノ森さんに見てみたい番組を選ばせるとか、そういう方法も……」

「もんどーむようッッ!!」

またタカムラが絶叫した。おれの胸をゾクッとさせてくるような絶叫ぶり。

たじろぎは拭えないが、

「もう少し落ち着いてもいいだろ? 外の廊下まで漏れちまうような大絶叫は、おまえの喉にも良くないし、藤ノ森さんをビビらせまくっちまう危険性もある」

一気に振り向いてくるタカムラ。

怒りを表しているのは顔だけではなかった。

無言の怒りでおれの前に立ちはだかってくるタカムラ。

新学期早々、厄介な事態の到来かよ……と困り始めていたら、

「あのぉー」

と、背後からソプラノボイスが聞こえてきた。

藤ノ森さんまでもスタジオに足を踏み入れてきていたのだ。

恐る恐る振り返るおれの眼に、藤ノ森さんの姿が映る。

両手を後ろ手に組んで、ニコニコニッコリしながら立っている。

そのニコニコニッコリを眼にしたおれの胸の奥に、不穏さ混じりの違和感が芽生える。

「1つ、訊いてもよろしいでしょーか?」

彼女は、藤ノ森さんは、何を訊くつもりなんだ。何が知りたいっていうんだ。

暑くも寒くもないのに、背中がジュワリ、と良くない汗で湿り始める。

「……番組のコト?」

追い詰められながらも訊くおれ。

「いいえ違います」

首を横に振りながら答える藤ノ森さん。

じゃ……じゃあ、なに!?

「――『おふたり』のコト、なんですけども」

そう言ってきた藤ノ森さんの視線が、おれとタカムラの両方を串刺しにしてくる。

より一層青ざめるしかなくなってくる。

「それだけ、ケンカできるってことは――」

残酷な藤ノ森さんは、残酷にニコニコニッコリしながら……!!

 

 

 

【愛の◯◯】高校3年生よりもコドモっぽい彼氏の笑い顔

 

髪を右手でサラサラと撫でてみる。寝グセが無いのを確認して安堵する。

左手は添えるだけ。左サイドの髪はとりわけ入念に手入れしたから添えるだけで大丈夫。

髪のどこにも寝グセが発生していないのを確信してから再び歩き始める。

超・ロングだった髪をかなり切った甲斐があった。寝グセが生まれにくくするためだけに切ったワケじゃないんだけどね。

 

階段をのぼり終えて2階廊下を歩く。陽(ひ)の光が左側の窓からキラキラとこぼれてくる。『風光る』という季語が本当に相応しい午後だ。

 

× × ×

 

選択授業ゆえの少人数クラスである。男女合わせて11名。男女比は5:6。

教壇から見回してみると男子の学ランが眼につく。女子校出身者であるがゆえに男子高校生の学ラン姿は本当に新鮮だ。女子は冬用の黒いセーラー服。高等女学校が前身の由緒正しき地方公立高校の如きセーラー服でこれまた新鮮である。

教卓の中央に教科書その他を積み上げる。それから、教卓の左右に両手を置く。

「みなさんはじめまして! この授業を担当する羽田愛(はねだ あい)です! よろしくね」

わたしから見て右側の席でふざけ合っていた男の子たちが、自己紹介をした途端に、こちらを向いてきてくれた。

わたしから見て左側の席に陣取る女の子たちが、わたしに向けて熱い視線を伸ばす男の子たちに冷たい視線を送っている。

新学期早々、微笑ましいじゃないの……。

 

× × ×

 

私立文系志望の子は、2年の時は1つしか無かった世界史の授業が2つになる。

自分の組(クラス)で国立文系志望の子と一緒に受ける世界史の授業は、蓑田(みのだ)先生という男性の先生が2年時に引き続き受け持つ。こっちの方の世界史を便宜的に『蓑田世界史』としておく。

わたしが受け持つ選択授業の世界史は『蓑田世界史』の補完という形になる。早慶のような私立上位校を第1志望にしている子も結構いる。そういった子たちにとっては、わたしの授業によって教科書に載っていないような事項もインプットするのが必要不可欠になる。早慶の世界史、近年特に難化(なんか)してるみたいだもんね。

『蓑田世界史』に対して『私文(しぶん)世界史』としておくコトにする。私立文系志望者向けの世界史授業は昔からあったみたい。『世界史授業がそんな風に分かれるのって、学◯指導◯領に則ってるの!?』みたいなツッコミの声がどこからか聞こえてきそうですが大目に見てください!!

 

この学校は進度が早いので、本日の授業はナポレオン戦争の補完といった位置づけである。

書き込み形式のプリントは配らない。個人的に好みじゃないし、生徒たちがプリントの管理に手間取るのも良くないから。

わたしが配ったプリントはA4の1枚、トルストイの『戦争と平和』と吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の引用だけを載せておいた。『戦争と平和』は言うまでもなくナポレオン戦争が題材だし、『君たちはどう生きるか』にもナポレオンに関する記述が出てくる。

白板(はくばん)の板書をノートにとってもらう形式で授業は進める。歴史教科に定評のある某・出版社の世界史用語集に収録されている用語が出てきた時は、何ページに記載されているのかをその都度口頭でも伝えてノートに書き留めてもらう。

わたしが一方的に喋っているだけではわたしも生徒も面白くないので、こちらから出す質問に答えてもらったり、逆にこちらから質問を募ったりしていくコトにする。少人数クラスであるがゆえの双方向授業である。

 

× × ×

 

「高校3年生ってホントに可愛いのよ」

夕食後のホットコーヒーをダイニングテーブルで味わいながら、真向かいのアツマくんに向けて言い放つ。

「どこらへんが?」

アツマくんが訊いてきたので、わたしが『可愛い』と思った点を3つピックアップしてみる。

「……ふうむ。アレだな、おまえ、『可愛い』と思ってるだけでなく『可愛げがある』と思ってもいそうだな」

可愛くないし可愛げもないアツマくんから不用意な発言が飛んできたので、チカラを籠めて彼の顔面を睨みつけていく。

「わたしは聖職者なのよ。講師とはいえ、聖職者なの。子どもたちを導く役目のある人間が不真面目なコトを思うのは許されないの」

「おまえが真面目になり切れるとは思えないんだが」

ヘラヘラと言う彼氏がいたから、両手で握り拳を作って卓上をゴンッ! と叩く。

「おこった~~」

彼氏の態度に我慢ならぬわたしは彼氏の着ているシャツに眼をつけて、

「あなたのシャツ、だらしなさ過ぎじゃないの!? だから、態度も呆れるほどだらしなくなるんじゃないの!?」

「エーーッ」

間の抜けまくった声を返してきたかと思えば、

「おれのシャツ、そんなにダメなんか」

「ダメなのよ。ダメダメよ。自覚が少しもないのね」

「ダメな理由、説明してくださらないか」

愚かなる彼氏に向けて、両方の拳で卓上をぐぐぐぐぐっと押さえつけながら、

「シワになってる部分が目立つのよっ。白地だから、特に目立つのっ」

シャツの左肩付近のシワが出来ている部分を彼氏は右手指で雑につまみ上げて、

「なるほどぉー。おまえ、よく見てるんだなぁー」

と言ったあとで、

「着替えるべきだと思うかー?」

と訊いてくる。

「お好きにどーぞ」

わたしはそう言ってから、

「もし、着替えてくれたなら、『ごほうび』をあげるけどっ!」

と付け加える。

「『ごほうび』??」

今日世界史を教えた高校3年生よりもコドモっぽい笑い顔で見つめてくるアツマくんに、

「あなたなら思い浮かべられるでしょ……。『ごほうび』の中身が、ある程度は」

と言いつつ、右サイドに視線を逸らし、コーヒーカップを口まで持って行く。

体温の少し上がったカラダがホットコーヒーでさらに温まるのが、ちょっとだけ不都合ではある。

 

 

 

【愛の◯◯】『報告』は真っ先に彼女に

 

あすかさんがソファの上をゴロゴロゴロ~ン、と転がっている。

「すごいくつろぎぶりですね、月曜の昼間から」

そう言いながらぼくは『リビングD』のソファに座る。転がるあすかさんは、ぼくから見て左斜め前。

ぼくの発言に呼応するようにあすかさんの動きが停まった。

いったん身を起こし、クッションを両手で抱き締める。それから、うつ伏せになってぼくを見てくる。

「これからは、わたしの休日は月曜と火曜なんだもん」

あすかさんは土曜も日曜も勤務していたのである。仕事場所は、千葉県船橋市に所在するJRA中山競馬場。中央競馬は原則として土日に開催されるので、中央競馬担当の記者は原則として土日に休むコトができない。

月曜の昼間からゴロゴロして疲れを癒やしたくなるキモチは理解できる。ゴロゴロし過ぎたり脱力し過ぎたりするのは如何(いかが)なモノかと思うが。

「昨日は、阪神競馬場で、G1(ジーワン)の大阪杯(おおさかはい)があったんでしたっけ」

詳細は省くがとにかくラフな格好のうつ伏せあすかさんに向けて言ってみる。

「あったんだよ」

彼女はすぐに答え、

「ブログの制作スケジュールの都合で、勝ち馬とかはまだ言えないんだけど」

と余計なコトバを付け加える。

「それはブログの読者さんに向けての配慮ですよね? 文字にならなければ、勝ち馬を知る権利がぼくにもあると思うんですけど」

「利比古(としひこ)くんうるさい。勝ち馬なんて、Webで調べれば秒速で出てくるでしょ」

ぐぬっ……。

 

× × ×

 

スマートフォンによって勝ち馬を秒速で知ったあとで、タブレット端末を両手で持ち、Wikipediaで大阪府のラジオ局についてリサーチし始める。

あすかさんは依然としてぼくの方を向いてうつ伏せ。音楽雑誌をペラペラとめくっている。

『FM802(エフエムはちまるに)』の記事を閲覧しつつ、彼女の動きにも時折眼を配る。

 

大阪府のラジオ局リサーチは実は『時間稼ぎ』だった。

Wikipediaを閲覧するコトで時間を稼ぐと共に、とても大事な報告をするタイミングを模索しているのだ。

今日の昼間の内に『報告』をするかどうか、迷った。

でも、鉄は早い内に打った方がいいと思い、迷いを断ち切った。

あすかさんが、ぼくの『報告』を受け止める最初の人物になる。

『真っ先に、あすかさんに言うべきだ』という想いがあった。

ほとんど直感のようなモノだったが、【そのコト】を最初に伝えるべき人間はあすかさんの他にはいないと思った。

 

『FM802』の記事に最後まで眼を通したところで、タブレット端末を右横に置き、眼を閉じて深呼吸を2回繰り返す。

眼を開けたら、うつ伏せのあすかさんがまっすぐに見てきていた。

あすかさんの視線によって、背すじが伸びる。

【そのコト】を報告するタイミングが出来上がる。

「……深呼吸を2回繰り返したのには、ワケがありまして」

「……どんなワケがあるっていうの?」

彼女の眼つきに疑わしきキモチが露出している。

無理も無い。

「あすかさん。これから言うコトを、よく聴いてくださいね」

告げるぼく。

眼が丸く大きくなるあすかさん。

「昨日のぼくは、猪熊亜弥(いのくま あや)さんと、横浜で過ごしていたんですが」

「……知ってるけど、それは」

あすかさんは、目線が下がり気味になりながらそう応えてから、

「『事件』とか、発生したの。亜弥ちゃんに往復ビンタされたりとか」

と、問いのコトバをボショッ、とこぼす。

「ビンタは、されてません」

キッパリと否定してから、

「掴みかかられは、しましたが」

と、事実を伝える。

あすかさんの目線が跳ね上がるように上昇する。

「修羅場、に、なったとか……?」

訊いてくる彼女に、

「修羅場と言えば、修羅場なんでしょうね」

と答える。

ぼくは落ち着きを保てている。

対する彼女には落ち着きが希薄で、

「は、はぐらかさないでよっ。いったい、横浜で何があったってゆーのっ。具体的に教えてくれなきゃ、わたし……」

就職試験の面接に臨む時のように、姿勢を正す。落ち着きが消え失せていくうつ伏せの年上女子に向けて、まっすぐに、正しく、視線を伸ばしていく。

「猪熊亜弥さんに、フラれてしまいました」

ついにぼくは報告する。【そのコト】の打ち明けを成し遂げる。

あすかさんの口が、中途半端に、弱々しく、開かれる。

彼女のココロを真っ青にしてしまったかもしれない。

真っ青にしてしまったならば……『説明責任』を、一人前のオトコとして、十二分に果たさなければならない。

 

 

【愛の◯◯】伝えられずに終わる前に

 

『放送ライブラリー』という施設に来たのは初めてだった。高校の放送部部長まで務めた人間であるがゆえに、以前から興味は抱いていた。でも、横浜は遠かった。遠い存在の施設だった。

羽田利比古(はねだ としひこ)くんは違った。某・プロ野球チーム応援のために幼少期から関内駅周辺エリアに通い詰めていた羽田くんは、幼少期から『放送ライブラリー』を知っていた。知っていただけじゃない。馴染んでいた。ご両親のお仕事の都合でヨーロッパに移り住んだのが小学校6年の時……『その時まで、何回利用したんだろうか。わからないってコトは、『数え切れない』ほど……ってコトだよね』と、『ライブラリー』の8階総合受付付近ではにかみながら羽田くんは言っていた。

高校入学と同時に帰国してからの羽田くんは、関内駅周辺エリアと『放送ライブラリー』にさらに馴染んでいった。

『ライブラリー』の館内では、どうしてそんなに手慣れてるの……と言いたくなる案内ぶりだった。総合受付のおねえさんと顔馴染みなのではないかという疑惑を植え付けてくるほどに手慣れていた。

2人用ブースでわたしの左隣に座った彼は、異様なほど慣れた手付きでタッチパネルを操作しつつ、『猪熊(いのくま)さん、なんでもいいから、興味があるジャンルを言ってごらんよ。その中から候補を5つ抽出するから』と促してきてわたしに寒気を催させた。

……でも、いざモニターで番組が再生され始めると、寒気は薄らいでいき、映し出される貴重な番組映像に次第に吸い寄せられていった。

 

もちろん、羽田くんと隣同士でこんなコトをするなんて、生まれて初めてだった。

二度と無いかもしれない確率の方が高かった。

 

× × ×

 

「お姉さんと……愛(あい)さんと『ライブラリー』を利用したりは、しないの?」

ジェラシー寸前の感情を抱いてしまうぐらい容姿端麗・文武両道の羽田愛さんの姿を思い浮かべながら、関内駅に続く帰り道で訊いてみた。

わたしから見て左斜め前の羽田くんが、

「姉はさほど、ああいう施設に関心を示さなかったから」

彼の答えを受けて、ひと呼吸置いてから、

「じゃあ、一緒に行ったりは、してないのね。それなら……それなら、女子と2人用ブースに入ったのは、今日が、初めてで」

彼の後ろ姿がピタリ、と立ち止まった。

やっぱり、マズいコトバを吐き出してしまったかもしれない。

そう悔やみ、真下の舗道(ほどう)を向く。

……だけどやがて、

「そーなるねえ」

という彼の軽快な声が聞こえてきたから、舗道から目線が上がっていく。

振り向いて微笑んでいる羽田利比古くんがいた。

ドッキン、と心臓が動く。

胸の奥の奥から熱を帯びたモノが湧き上がり、わたしの平静さを削っていく。

取り繕って、

「こんなトコで立ち止まってないで、足、動かしましょーよっ」

と言った直後、歩き始める。

常ならぬ歩幅。わたしがわたしでないような歩幅。

彼よりも前に出てしまった。

わたしの身長ぐらいの距離感で背後を歩いている彼の足音が、小刻みに耳に響いてくる。

耳たぶも冷やしたかった。ココロとカラダの全部から熱を遠のけたかった。

「野球、観に来たりしないの、お姉さんと? 2人用ブースで一緒に映像観たりはしないけど、横浜スタジアムの隣同士の席で試合を観たりはするんでしょ?」

話題を微妙にズラしてみる。話題をズラすのがクールダウンに繋がると思って。

「そりゃーするけど」

口調を軽く弾ませて答えてきて、

「姉は常勤講師になるから休めるのは基本土日祝日のみだし。ぼくも就職活動が本格化してくるから忙しくなるし。入社試験の真っ最中に公式戦がやってる、なんてケースも少なからず出てくるだろうしねぇ」

……そうだった。

わたしたち、就職活動中だったんだわ。

彼の発言のおかげでその事実を思い出せたわたしは、

「あなたは、放送文化に直結するような職場がいいのよねえ、きっと?」

と、話題をさりげなくスライドしていく。

約5秒後、

「きみは? 猪熊さん、きみは、どうなの?」

と問い返してくる彼がいた。

「どっどーして、どーして、わたしの問いに答えるんじゃなくて、問い返してくるのっ」

免れがたく、わたしは振り向く。

彼の絢爛たる顔、ではなく、彼の首元辺りを見ながら、

「そんなコトばかりしてると、面接官から『お帰りください』って言われちゃうわよ!?」

クールダウンから遠ざかっていくわたしとは対照的に、

「たしかに。きみの言う通りなんだろうね」

と、爽やかで涼やかな声を発してくる彼。

『きみの言う通りなんだろうね』

このコトバが、胸の奥にゴツン、とぶつかる。

『あいも変わらず、無神経な面があるんだから……』

そういう思いが燻(くすぶ)る、燻ってしまう。

心身の熱に憤りのようなモノが混ざり始める。

憤りがやって来たあとに、強い焦りが到来してくる。

強い焦り。

それは、

【いちばん伝えたいコトを、伝えられずに終わってしまう】

という事態を、避けたいがゆえの。

今朝、猪熊家(いのくまけ)から出る前、身支度をしていた時から、ずっと温め続けていた【伝えたいコト】がある。

1時間近く髪を梳かしながら温めていた。2時間近く着ていく服に悩みながら温めていた。

強制的に打ち切られたテレビ番組みたいな終わり方はしたくない。

ならば、目前の羽田利比古くんに向かって、もっともっと能動的にアクションを起こさなければいけない。

それが、どれほど攻撃的になったとしても。

ここで、蹴りをつけるのだ。

 

「……立ち止まらないんじゃなかったの、猪熊さん? 足を動かすんじゃなかったの?」

羽田くんの声が、わたしの目線を上げる。

卑怯なまでの苦笑いに直面して、たじろぐ。

でも、引き下がりたくないから、一気に押していきたいから、

「あのね羽田くんっ!!」

と、叫び声同然の声を上げて、

「落ち着いて、聴いてくれないかしら」

「……えっ」

苦笑いに対して戸惑いが優勢になっていく彼の表情。

「落ち着いて、聴いてほしい……?? それって、きみに由々しき事態が生じてるとか?? 例えば、卒業までに40単位近く取らないといけない、だとか」

抗えずに前のめりになるわたしの口から、

「そんなワケないでしょ!? 20単位も残ってないのよ!?」

と、ヒステリックな声がマシンガンの如く射出(しゃしゅつ)される。

「あなたわたしのコト根本的に誤解してるんじゃないのっ」

止まらないわたしは、止まらないコトで、眼の前の彼から発言権を根こそぎ奪う。

とうとう右腕を伸ばしていく。彼の左肩目がけて伸ばしていく。

左肩を掴みながら【そのコト】を言うコトにどれほどの罪深さがあるのか。

それを考えるのは、後回しだ。

後回しにする以外、あり得ない。

あり得るワケも無い。