【愛の◯◯】それぞれの成長曲線

 

「なつきせんぱ〜い、おはようございま〜〜す」

「おっ? オンちゃんもしかして、さっき眼が覚めたな?」

「ばれちゃったか」

「夏休みだからって、ネボスケさんは良くないゾ?」

「えへ♫」

 

× × ×

 

「なつき先輩。スポーツ新聞部の新入部員男子2人ですけど、無事に定着してくれましたねえ」

「そうだね。うれしいね。ノジマくんとタダカワくん。タダカワくんの方が背が高い身長凸凹(デコボコ)コンビ」

「身長凸凹コンビとか言っちゃダメですよー。わたし、ノジマくんは自分の背が低めなのを気にしてると思うんです。『まだ高校1年なんだから。男の子はこれから伸びていくかもしれないじゃん?』って、1学期の間に言ってあげれば良かったかなぁ」

ノジマくんにはこれ以上伸び代(しろ)は無いとわたしは思うな」

「つめたいですよー、せんぱーい」

「わたしの長年の観察眼がそう言わせるんだよ」

「それなら……『タダカワくんの中学時代の成長曲線』なんかも、分かったりするんじゃないですか? 成長曲線っていうのは、例えば、中学時代のどの時期に身長が一気に伸びたのかなー、とか」

「んー。夢が無いかもしれないけど、中学入った当初から既に、カラダ大きかったんじゃないかなぁ? たしかに、男子は中学時代にグーンと身長伸びがちだけど、タダカワくんは、早熟タイプ。最初からカラダが出来上がってたと思うんだ」

「そういう男子も居るんですかね」

「いるでしょ。成長の個人差。女の子と同じだよ」

「ムムムム……。」

「ど、どーかしたの、オンちゃん。電話の向こうで唸(うな)ってる顔が浮かんできそうだよ……?」

「……なつき先輩の、成長曲線。」

「え、え、わたし!?」

「同じ女子でも気になっちゃうんです。先輩が如何にして、現在の体型になって行ったのか。ほらっ、先輩は、女子の中でも抜きん出て長身ですし」

「ぬ、抜きん出ては、いないよ!?」

「いますよ。」

「ちょちょちょーっとソコは……デリケート、かなー、って」

「慌てすぎ。」

「……電話の向こうのオンちゃんのニヤつき顔がまざまざと浮かぶよ」

 

 

 

【愛の◯◯】チワワを堪能する平和は脆くも崩れ去る

 

長い髪がまだ乾き切っていなかった。ドライヤーを満遍(まんべん)無くあてたつもりだったけど不十分だった。わたしの部屋でわたしの湿り気を帯びた髪をつまむ。半分だけカーテンを開けた窓の外は曇り空だ。曇りといっても灰色がかった不穏な雲ではなく真っ白で穏やかな雲。そんな平穏な雲が敷き詰められた空を、ベッドを椅子代わりにして眺めている。

バスタオルを髪にくっつけるようにしてボーッと窓の外を眺めていたら、部屋に戻ってからいつの間にか30分以上経過していたのに気付いた。慌ててバスタオルで髪をゴシゴシする。なんだか、大学が長期休暇に入ってから、1日中ボーッと過ごしている日が連続しているかのようだ。弟のヒバリよりも怠惰の度合いが高くなっていそうで怖い。

長い髪なんだけども、これでも以前よりは短いのである。美容室で短くしてもらったばかりだ。わたしから自発的に美容室に行ったワケでは無かった。『亜弥? あなた良い加減にその髪切りなさいよ。女子大学生のだらし無さを象徴してるみたいでイヤだわ。お金は出してあげるから』。母にそう言われてしまったのである。ある種の悔しさを感じながらわたしは紙幣を受け取った。

現在の猪熊家は「静か」のひとことだ。母も父も弟もみんな出かけているのだから。『この静寂をあと何時間味わえるのだろう』と思う。静寂イコール平和である。ゴシゴシと髪をしごいていたバスタオルを勉強机手前の椅子に引っ掛け、両方の手のひらをベッドの敷き布団に密着させ、穏やかで和やかな曇り空を上目遣いに見る。

弟のヒバリのスケジュールはだいたい把握していた。ヒバリが帰宅する時刻から逆算して、わたし自身のスケジュールを漠然ながら構築していたのだ。ヒバリが帰宅した途端に平和なひと時は終わってしまう。そんな確信があった。したがって、わたしが好きなコトを好きなだけできるのはヒバリの帰宅までだった。『ボンヤリするのにも限度がある。曇り空を眺めているだけで夕暮れを迎えてしまうワケには行かない』と思い、腰を上げ、勉強机の上のスマートフォンを手に取る。

スマートフォンで何をするのか? 画像を見るのだ。何の画像を見るのか? 動物の画像を見るのだ。何の動物の画像を見るのか? 犬の画像を見るのだ。なぜ犬の画像を見るのか? ……決まってるでしょ。わたしが稀代の猫嫌いで稀代の犬好きだからよ。

スマートフォンに蓄積された可愛い犬画像を次々に味わっていく。とりわけ気に入っているワンちゃんの写真に差し掛かったら、そのワンちゃんの顔を数分間凝視し続ける。そうするコトで、カラダもココロもほぐれていき、家の中の静寂も相まって、自分自身が整っていくのを実感する。たぶん、わたしの目前に宙に浮いた鏡があったとしたら、これ以上無いほどリラックスした笑顔を映すコトだろう。

調子が出てきたので、スマホをいったん置き、再度腰を上げ、勉強机のそばにある低い本棚から、可愛らしい子犬ちゃんたちが沢山撮影された写真集を抜き出す。この写真集はシリーズ物で、わたしが抜き出したのは第3巻で、この巻に収録されたとあるチワワの子の写真を見ていると、まるで自分が世界を統べる女王になったかのような、愉しくて悦ばしい気分が満ち溢れてくるのである。

同世代の知り合いで『猫派』の女子が2人居る。猫好きなキモチを否定するつもりは全く無い、というのは建前で、『犬の方が断然良いじゃないの!! あなたたちが猫に靡(なび)くのだけは理解できないわ。わたし、あなたたちが猫グッズなんかを見せびらかしてきたら、常に携帯している犬グッズを即座に出して応戦するんだから』という風な想いを、面と向かってはコトバにしないものの、胸の中に所有しているのだ。

世界でオンリーワンかつナンバーワンのチワワに見入る。もう少しで写真の中の世界に吸い込まれそうだ。

時間を完全に忘却する。

ヒバリの帰宅予定時刻がどうでも良くなる。

ただ、『どうでも良くなった』のが、マズかった。

階段が踏み鳴らされる音が突然響いてきたのだ。

現実に引き戻されるのと全く同時に嫌(イヤ)すぎる汗がどんどん出てきた。ヒバリが帰ってきたのだ。そして、チワワに夢中になり過ぎて、わたしはヒバリの帰宅に全然気付けなかったのだ。

恐る恐る、部屋の入り口ドア方面に視線を映す。ヒバリがドアをノックしてくる可能性は何パーセント? 咄嗟(とっさ)の計算が、上手くできない。ノックの可能性は、高いか低いかで言ったら、高そうだ。『わたしが家庭教師になって高校受験の勉強を教えてあげる』、ヒバリにそう告げたばかりだった。わたしはこんな風に想定する。ヒバリはまずヒバリの部屋に入る。それから持てるだけ勉強道具を持ち、部屋を出る。それから、勉強道具を抱え込みながら、わたしの部屋のドアを乱雑に叩いてくる……。

自然に立ち上がっていた。チワワほか可愛過ぎるワンちゃんたちへの依存から脱却し、着実にドア前へと進んでいく。ドア間近で立ち止まり、ガサツな弟たるヒバリの進撃に備える。

ゴンゴンゴンゴンと、4回連続でドアが叩かれる音がした。

『バカじゃないの!? ドアをそんなに乱暴に叩くなんて、ドアが可哀想よ』。そういうキモチが胸の中で盛り上がると共に、ドアノブを握って回す。

ヒバリが現れる。実際には不機嫌では無いんだろうけど不機嫌そうな眼つきをしている。やっぱり勉強道具を右腕で抱え込んでいた。読みは当たった。

部屋に通す前に、胸の前で腕を組んで弟に立ちはだかり、

「感心しないわね」

と怒る。

「なにが?」

「あなたの階段の上がり方と、ドアのノックのやり方よ」

「それ、前も言ってなかったか!?」

「言ったわよ。でも、3回以上同じコト言わないと、あなた学習しないでしょ」

「めんどくせ」

「ヒバリ!!」

「大声はやめれ、姉ちゃん」

「あなたに命令形でモノを言われる筋合いなんか無いわ」

ヒバリが舌打ち。小さくてささやかな舌打ちだけど、わたしの苛立ちを増幅させてくる。だから両腕を組み続け、舌打ちの弟を睨みつけ、次なるお説教のコトバを絞り出そうとする。

だが、しかし。

ようやくお説教コトバを絞り出せたと思った途端に、

「あのさぁー」

と、悪い弟が、姉であるわたしをたしなめる意図のあるような声で、

「今の姉ちゃんの服、もうちょい何とかならんの? 大学に行く必要が無いからって、ユルユルし過ぎなんじゃねーの? そんなパジャマみたいな格好(カッコ)に腕組みは似合わねーよ。しかも、上も下も犬柄(いぬがら)だし。いくら、テレビ番組で犬が映った途端に大興奮するからって……」

 

 

 

【愛の◯◯】家庭教師と2人の北里博士

 

 

バロック時代の音楽ばかり最近聴いている。ベッドに寝ているわたしの後ろのCDラジカセからバッハの旋律が流れ続けている。穏やかで優しい旋律に微睡(まどろ)む。もうとっくに夜が明けている時間。夜明けどころか、カーテンの隙間から夏の陽光が今にも溢れ出てきそうだ。

ウトウトしながらも、バッハの旋律が終わったので、ゆっくりユルユルと身を起こした。眠たい眼で、デジタルクロックを抱きかかえるようにして持つ。8時半だった。予想以上に朝だった。高校時代だったら完全に遅刻の時間帯だ。今は大学生だけど、こんな時間まで寝ていたら、当然ながら1限の授業に間に合わない。

大学2年の夏休み。怠けるだけ怠けられる。いろいろ意見はあるだろうけど、大学は勉強する場所だとわたしは思っている。ただし、思っているだけで、こういう風にして長期休暇になった途端に起床時間が遅くなる。思っているコトとやっているコトが違う。自堕落。

 

× × ×

 

8時半に起きたのだから昼食の時間は少々遅くなっても良い。キッチンのコンロの前に立ったのは午後1時過ぎだった。鍋にお湯を沸かし、乾麺の冷や麦を投入する。月曜日から、そうめん→冷や麦→そうめんというローテーションで、木曜日の今日は順番的に冷や麦だった。

冷や麦を啜(すす)っていたらダイニングキッチンに弟のヒバリが現れた。ヒバリは中学3年生であり、わたしとかなり歳が離れている。ヒバリが通っている中学は公立中学だ。ということは、この夏にヒバリがすべきコトは、言うまでも無く……。

箸を置いてヒバリの行動を眼で追う。ずんずんと冷蔵庫に直行し、乱暴に冷蔵庫の扉を開ける。麦茶の入った容れ物を取り出し、乱暴に冷蔵庫を閉め、コップにゴボボボボと麦茶を注ぐ。

ヒバリは無言でわたしの右斜め前に着席し、わたしは無言で冷や麦の残りを啜っていく。

椅子から立ち、全部の食器を流しに持っていく。乱暴に冷蔵庫を開け閉めしたヒバリとは対照的に、丁寧に丁寧に食器を洗っていく。洗った食器をその場で拭き、元あった場所に戻す。

そして席に戻る。姉弟の間に形成されていた沈黙。姉のわたしの方からそれを破る。

「ずいぶんお気楽な御様子ね」

「いきなり何だよ姉ちゃん。挑発か!?」

「バカじゃないのあなた」

「うるさいな」

「ねぇヒバリ。自分がどんな状況に置かれてるのか、理解はできないの」

キョトーンとする弟。絶対に理解なんてできていない。

「あなたの中学生活はあと8か月ぐらいで終わるのよ?」

「それがどーした」

「中学最後の夏休みにはどんな意味合いがあると思う?」

「んっ……」

徐々に感づいていったようで、ひと安心である。

「高校生になるためには、受験勉強をしなきゃいけないわよね」

そう指摘すると同時に、ヒバリがわたしの逆方向に顔を逸らした。

素直さ皆無の弟の横顔をジーッと眺めてみる。だいぶ大人びたモノだ。声変わりして身長がぐんぐん伸びたのがつい最近だと思っていたのに。もっとも、大人びたといっても、中身にあまり変化は無い。家族の中で姉のわたしに対して特に攻撃的な、生意気な弟だ。受験勉強を促したいけど、手こずるのは明白。

人の言うコトをあまり聴けない性質なのならば、極端な手段を取っても許される。極端といっても、勉強をサボったら『お仕置き』するとか、そんな手段ではない。前時代的な鞭(ムチ)のふるい方とはむしろ真逆。ムチではなくアメである。そう。つまり、何かでヒバリを『釣る』のだ。それを『施し』と言い換えても良い。

ソッポを向き続けるヒバリに、若干の甘さを含ませた声で、

「わたしからお願いがあるんだけど」

と言い、視線をこっちに寄せてきたタイミングで、

「わたしを家庭教師として雇ってくれないかしら?」

と申し出てみる。

「ハァ!?」

『何を言い出しやがるんだこの姉ちゃんは』というキモチの凝縮された声だった。でも、顔の向きはわたしの方に変わっていた。

「わたしを雇えば無料よ。塾に行ったりしたら高いお金がかかるでしょ。それに、あなたは塾とか向いてないと思うのよ。いかにもすぐサボっちゃいそうだし」

カテキョーだなんて……勉強を教えられるって自信あんのか、姉ちゃん? 自信があったとしても、理由の無い自信なんじゃねーのか」

弟の疑問を華麗にスルーし、

「わたしの家庭教師には『特典』が付くんだけど」

「……ワケ分からんコトばかり言われても困るぜ」

『勝手に困ってなさいよ……』とココロの中で呟き、微笑ましいキモチになり、右腕で頬杖をつき、笑顔でヒバリの眼を見ながら、

「もし、今日から1週間、わたしを家庭教師として雇ってくれたのなら、北里柴三郎博士を2人あなたにあげるわ」

困惑に困惑が重なったヒバリは、

「い、いみフメーなコトばっかいってんじゃねーよ」

と言うが、

「難しい言い回しだったかしら? 要するに、わたしの指導をガマンして受け続けてくれたら、おこづかい2000円あげるってコトなんだけど。どう? わたしから2000円貰えるなんて、滅多に無い大チャンスよ?」

「か……カネで釣るのかよ!? なんだその2000円って!? 口止め料とかか!? 口止め料とかじゃねーだろうな!?」

「落ち着きなさい」

わたしはピシャリ。

「会場はわたしの部屋」

「ね、姉ちゃんの部屋だと、落ち着いて勉強できなくなる」

「2000円出してあげるんだから、そういう文句言うのはやめなさい」

再び、ピシャリ。

うつむき気味になったヒバリは、悪あがきのごとく、

「ワセダでも、ケイオーでも無いくせに。カテキョーとかマジで出来んのかよっ。もし姉ちゃんのカテキョーが逆効果になったりしたら……」

「あなたって家族を怒らせる天才みたいね」

「ななっ!?」

「今はわたしはそんなに怒ってないけど♫」

 

 

 

【愛の◯◯】篠崎大輔さんという存在

 

大学キャンパスの図書館で本を借りた。文学部があるキャンパスの図書館は新刊書店にはなかなか置いていないような作家の本があって助かる。文学関係だけではなくて哲学分野の本も1冊だけ借りた。尊敬する羽田愛センパイが哲学科だったからだ。羽田センパイと話す時に哲学の話題を出してみたかったのだ。彼女はきっと食いついてきてくれるはず。

貸出手続きを終えて館外に出る。自動ドアが開くと同時に、もわぁっ、とした熱気が肌にまとわりついてくる。夏真っ盛り。漢字2文字なら「盛夏」。陽射しを避(よ)けられる場所にとりあえずは移動する。しかし今度は、多めに借りた本が負荷になってくる。本を入れたバッグがズシリ、と重いのだ。身体能力に自信が無い。何冊もの本を軽々と運搬するコトはできない。

それでも運搬しないワケにはいかないから、覚悟を決めて日陰から出ていき、暑さが充満している屋外の道を歩き始めた。

坂を下ってキャンパスを出るつもりだった。しかし、キャンパスの出口とは反対方向から見覚えのある女の子が現れてきたので、彼女の方に眼が自然と留まった。わたし(154センチ)とほぼ同じ背丈。少し茶色がかったハーフアップの髪。

わたしが驚いてしまったのは、彼女の背後に男子学生がいたコトだ。ただ単に背後にいるのではなく、彼女について行っている感じだった。コンパクトな外見の彼女とは対照的に大柄だったから余計に目立つ。そして何より、シャツを大仰に腕まくりしているから、わたし以外の人が目撃しても、きっと必ず立ち止まってしまうだろう。それぐらい良くも悪くも注目を引き寄せる身なりの男子学生だった。

あんなふうなバンカラでワイルドな男子学生は本部キャンパスの方で見かけられるモノであって、文学を学術する院のキャンパスの方では滅多に見かけられるモノではない。でも、目撃してしまった。しかも、知り合いの女の子の後ろからついてきているのだ。

 

× × ×

 

知り合いの女の子は日高ヒナちゃん。ヒナちゃんは高校で戸部あすかちゃんの部活の後輩だった。わたしが初めて出会ったのは数年前の夏祭りの時。わたしもヒナちゃんも、あすかちゃんから夏祭りに誘われた。お祭りで知り合って以降、しばしば連絡を取り合ったり外で会ったりしていた。だから、彼女がわたしと同じ大学に進学したのを知っていないワケが無かった。学部こそ違えど同じキャンパスに通い始めたのも当然インプットしている。

 

現在、カフェテリアの外にあるラウンジ的な場所で、長テーブルを挟んで日高ヒナちゃんと向かい合っている。

あの強烈なインパクトの男子学生をヒナちゃんは強引に引き離していた。『たまたま事務所でバッタリ出くわしたってだけですよね!? あたしたちから早く離れてください。用件あるとか話あるとか言ったって絶対に聞きませんから』と、攻撃的な態度で、バンカラ男子学生を払い除(の)けていた。

篠崎大輔(しのざき だいすけ)さんという4年生らしい。

ジュゴゴゴゴと紙パックコーヒー牛乳を一気に飲んでから、わたしの向かいの席のヒナちゃんは、

「あたし、事務所に用があったからキャンパス来たんです。そしたら、不都合にも篠崎さんが事務所の窓口の前に立ってて。あたしは関係無いフリを装いたかったから、知らんぷりをして手続きを終わらせたんだけど、事務所から出たら、先に外に出てた篠崎さんが、待ち構えるように立ちはだかっていて……」

冷静さを欠くヒナちゃんに、

「篠崎さん、政経学部なんでしょ? そもそもどうして文キャンの事務所に来てたのかな」

と訊くと、

「オープン科目ですよ。とっても都合が悪いコトに、文キャンまで15回連続で遠征して来たんです」

15回連続というコトは、オープン科目の授業に全出席したというコトだ。皆勤賞。

「だけど、オープン科目を一緒に受けてたとしても、接点が生まれる方が稀(まれ)じゃない? ヒナちゃんと篠崎さん、どういうカタチで繋がりができたの?」

苦々しい感情を表情に露出させてヒナちゃんは、

「『繋がり』だとは思いたくないんですけど、ほら……早大通りに文房具店があるでしょ? 4月に、筆記用具を買い求めにその文具店に行ったら、『不幸な遭遇』が発生して」

「篠崎さんの方からヒナちゃんに話しかけてきたりしたの?」

「まぁそんな感じです。あの男子(ひと)って、あたしたちとはたぶん別世界の住人で。だから、学ラン着て授業受けたりキモい腕まくりして授業受けたりするんだと思います。初対面のあたしに絡んできたのも、あっちが異星人であるがゆえなんだと思う」

「特撮ヒーロー番組に出てくる怪人みたいな扱いしなくても」

苦笑せざるを得ないわたしはそう言うのだが、

「絶対絶対、別の次元の別の惑星からやって来たんですよっ。そうで無かったら、例えば今流行ってる異世界アニメの逆パターンで、異世界に転生するんじゃなくて異世界『から』転生してきた存在なんであって……」

わたしはアニメとかそんなに詳しくないけど、偶然思い当たる作品があったので、

「『はたらく魔王さま!』ってアニメ知らない? あれこそ、魔王や勇者が異世界からこっちの世界にやって来たパターンじゃ無かったっけ」

「川又さん、なんでそんなアニメご存知なんですか!? ライトノベル原作ですよ!? しかも、あのアニメが流行ったのって、あたしが小学生の頃……」

「ねえヒナちゃん、苗字じゃなくて名前で呼んでよ。『ほのか』で良いよ」

「……ほのかさんは、篠崎さんを見て、どんな印象を。あたし、オープン科目授業では、篠崎さんからいちばんかけ離れた席にいつも座ってたんですけど、ほのかさんもやっぱり、気色悪いオトコだっていう印象を受けたんでは?」

「『オトコ』呼ばわりしちゃダメだよヒナちゃん」

「だけど……キショいし」

「たしかに、異様だよね。見てビックリしたし、ビビっちゃった。だけど、様々なキャラクターの学生を受け容れる懐の深さも、わたしたちが通ってる大学の良い所なんじゃないかな? 『大隈イズム』みたいなモノがあって」

「大隈さんがもし生きてたら、篠崎さんなんかとっくの昔に追放してますよ」

「たはは……。本気の敵意なんだな」

また苦笑してしまうわたし。

コンパクトなカラダから静電気のような殺伐さを発しているヒナちゃん。

そう。本気の敵意なのだ。多様性の時代に逆行するがごとく、「異物」みたいな認識で篠崎さんを見ているヒナちゃん。受け容れられないぐらい余裕が無いのは、篠崎さんの方の責任でもあるんだろう。

オープン科目の教場で遠く離れた席に座ったり、篠崎さんを徹底的に敬遠するヒナちゃんのキモチも理解できる。

でも、篠崎さんのような存在について、こんなに喋り倒せるんだから、嫌悪感の一方で……。

「ねえねえ、ハッキリ言ってヒナちゃん、篠崎さんは大嫌いなんだよね」

「はい、嫌いです大嫌いです!! ハッキリ断言できます」

「だとしたら」

「……えっ? な、なんで、ほのかさん、そんなニコニコ笑うんですか」

「感情という名前のコインがあると仮定して、表側が『嫌い』だったなら、裏側は何だと思う?」

一瞬キョトンとなったヒナちゃん。しかしやがて、わたしの問い掛けを咀嚼(そしゃく)するように、考え込み始める。

「感情……コイン……表……裏……」

独白の呟きを漏らし、それから、

「『嫌い』……裏だから、『嫌い』の、反対……反対は……」

と呟きを継続したかと思うと、突然ハッ!! となって、これ以上無く眼を大きく見開いて、

「そんなコト、そんなコト、そんなコト、ありえない!!!」

と、見るからに慌てふためき始めるのであった。

「そんなコト」を3回も連呼するんだもんなー。

 

 

 

【愛の◯◯】思いもよらない境遇になって親友にヘルプを求めたら……

 

熱いコーヒーにスティックシュガーを入れ、牛乳パックの中身も入れる。黒かったコーヒーがどんどん薄茶色になっていく。世の中には、ブラックコーヒーしか飲まない人々が結構居るようだ。私はそういう人々に勝てない。身近にも、親友の羽田愛さんみたいなブラックコーヒーオンリーの女の子が居る。愛さんのスペックに尽(ことごと)く勝てない私であるが、彼女はブラックコーヒーしか飲まないんだから、もう降参である。

降参するだけで、私は愛さんに嫉妬したコトは1度も無い。同い年の女の子に対して妙な認識であるかもしれないけど、列挙し切れない程いろいろな分野で秀(ひい)でている愛さんを純粋に「尊敬」している。

完全なる薄茶色となったコーヒーが入ったマグカップを口に持っていく。牛乳を入れたから熱さが緩和されている。飲みやすい。

マグカップを一旦置いた。そこに、キッチンで食器洗いをしていたお母さんが、

「しぐちゃん、しぐちゃん♫」

といつもの如く底抜けに明るい声で私に呼びかける。

それから、お母さんが、

「おこづかい、欲しいよね♫」

と言ってきたから、びっくり。

だって、

「この前、貰ったばっかりだよ!? 大丈夫なの!? 家計をそんなに娘の私に投入して……!!」

「するわよぉ〜〜♫」

「あ、あのさ、今回のおこづかいの『意図』は、なに」

「決まってるじゃない♫ 『ショセキヒ』よ♫」

「ショセキヒ……?」

「しぐちゃん、鈍くない? 本のお金よぉ♪♪」

あっ。「書籍費」か。

なるほど。私の就職先を考慮して、お母さんは書籍費を大盤振る舞いしているんだ。ありがたいと素直に思う。ただ、どのくらい書籍費が提供されるのかは気になるけど。

「お母さん」

「はぁい♪」

「たぶん、おこづかいって、渋沢栄一なんだよね」

「当たり前よ〜♫ 渋沢さんを、何人も用意してるわ〜♫」

最高額たる新しい日本銀行券を、何枚も……。甲斐田家の家計を思うと、喜べない所もちょっとだけある。

でも、お母さんが私を想っているからこその、渋沢栄一の大サービス。拒否るワケにはいかない。

だから、キッチンのお母さんの方に眼を向け、『ありがとう』のキモチを込めた視線を送る。

例によって、キッチンのお母さんはニコニコしっぱなし。

 

× × ×

 

上位の志望だった某・出版社の就職試験をパスした。そこまでは良かった。ファッション雑誌の担当編集者になれたら良いなと、淡い期待を抱いていた。

だけど、配属先が文芸雑誌になってしまった。

ショックだった。漫画なら、『ガーン』という擬音が大きく描かれて、うなだれる私の背景は暗い色合いになっていただろう。

ファッション雑誌だったら、女子大学生としてそれなりに購読はしていたし、とりわけ好きなファッション誌は私が内定した出版社からの発行だった。『好きな雑誌の編集者になれるかもしれない』。そんな期待が見事に裏切られた。

文芸雑誌!?

しかもしかも、私が編集を担当する予定の文芸誌は、ゴリゴリの純文学雑誌。

大学での専攻的に、英語を学んでいく過程で、英語圏の文学作品なら、テキストとして断片的に読んではいた。だけど、積極的に文学作品を読むタイプでは無かったし、日本の純文学作品となるとカンペキにお手上げだった。

配属前のノルマだとかは課されて無かったんだけど、大学でお世話になっている先生に事情を明かしたら、『岩波文庫はもちろんだけど、講談社文芸文庫に入っているような作品も、『予習』として読んでおくべきかもね』と先生は仰(おっしゃ)った。

当然ながら、今まで1度も、講談社文芸文庫なんて手に取ったコトも無かった。前回のお母さんからのおこづかいで何冊か講談社文芸文庫を購入した。文庫本だというのにお値段が衝撃的な高額でビックリだった。『需要、あるの?』と思っちゃったのが正直なトコロ。

前回のおこづかいでの文芸書購入によって、私のささやかな本棚も少しだけ文学色が濃くなった。でも、いまだ貧弱だ。伊坂幸太郎などいわゆるエンタメ系流行作家の文庫本が並んでいる中に、中上健次大江健三郎が紛れ込んでいる。中途半端に純文学作家を混ぜたから、本棚構成のバランスが悪くなっている。

 

夕方。まだ日は高い位置。自分ルームのベッドに座り、ぼやーんと本棚を眺める。やっぱり、充実した本棚だとはとても言えない。アンバランスな書の並び。みんなが読んでいたような小説ばかり読んでいた『ツケ』なんだろうか?

伊坂幸太郎だって面白いじゃん?』。それは、そう。でも、私が携わらなければならない文芸誌に、伊坂幸太郎のような作家の書いたモノは恐らく掲載されない。

本棚を眺める。助けを求めたいキモチ。それがジワジワと立ち昇ってくる。

頭を抱えるより、スマートフォンを持って電話帳を開きたい。そんなキモチでもって、スマートフォンを手に取り、登録されている連絡先を見る。

『あ』の行に、腐れ縁だけど大切な親友女子の連絡先がある。

 

× × ×

 

「なんの用件の電話かと思ったら、文学のコトについてアタシに訊きたかっただなんてね。切羽詰まってるのは分かる。甲斐田にとって、ファッション誌でなく文芸誌配属になったのが都合悪いのは、分かるからさ。アタシが映画誌や文芸誌でなくファッション誌編集部に配属されちゃったのと、ちょうど反対だねえ」

そうなのだ。そうなのである。中学時代以来の長年の親友・麻井律も、会社こそ違えど、出版社勤めになるのである。そして麻井のコトバ通り、希望とは裏腹にファッション誌編集にされてしまったそうな。この「希望とは裏腹」という点が、私と重なっている。

「アタシさ。アンタのトコに、ファッションを教わりに行きたい気分なんだよ? アンタがアタシに救済してほしいのと同じく、アタシもアンタに救済してほしいの」

麻井のキモチが耳に届く。

それから麻井は、

「ま、アンタが救済を求めたいキモチも分かるよ。今日のアンタの喋り方、藁にも縋(すが)るって心情が露骨なんだもの」

図星。

図星が食い込んだから、うつむいてしまい、縮こまってしまう。

「甲斐田さん。キモチは分かります」

麻井は、穏やかにそう言ってから、

「でも、『人選』が、明らかに間違ってるよ。アタシが本を読んでる光景をアンタは見てきた、だからアタシを本好きとみなして、今回の文芸誌配属の件にぶち当たった時に、真っ先にアタシを思い起こした。……共感は、できるんだけど。でもねえ」

「……マズかった? 麻井、あんたに対して私、不用意にヘルプ求めちゃった?」

焦りながら問うと、

「アンタが謝る必要は無い。だけどさ。羽田愛さんの存在が思い当たらないのは、ちょーっと感心できないよねぇ」

「あっ!!!」

ハッとなって、スマホの向こうの麻井に対し、ビックリマークが3つも付くような叫び声を上げてしまった。

慌てた早口になるのを抑え切れず、

「そ、そ、そーだった私どうかしてたんだ羽田愛さんっていう最強の文学少女を想い起こさなかっただなんて」

「甲斐田甲斐田、落ち着きなさいよ」

スマホの向こうの麻井律は、なぜだか、ニヤニヤと笑みを浮かべていそうな声。

「でしょ? 愛さん、『最強の文学少女』でしょ? アタシたちと同学年だから、ホントは20代で『少女』なんて言えないんだけども」

「そ、それならば、愛さんは、文学『美女』だ、文学『美女』」

「だから落ち着きなさいって、甲斐田〜」

「なんで、麻井、そんなに余裕な喋りなのかな」

「アンタが慌てに慌ててるから余裕しゃくしゃくなんだよ」

ふ、ふーん。

そうですか。

それは、大変宜しきコトで。

一方では、麻井に翻弄され続けている状態の私。勢いが違う。ボクシングでたとえるならば、このままだと確実に判定負けだろう。

でも。

その一方で、麻井が『羽田愛さん』という固有名を出したがゆえに、そこからの『連想』で、反撃に出たいキモチがぐぐん、と昂(たかぶ)ってくる。

そうであるがゆえに。反撃の狼煙(のろし)を上げる条件が満たされたがゆえに。

「愛さん、か。確かに、文学の件は、愛さんに頼るのがベストだよね。それに……」

「え、『それに』って何?」と訝(いぶか)しむ腐れ縁の親友目がけて、

「せっかく愛さんの名前出たんだから、私、愛さんの弟さんの話もしたいかなー、って。利比古くん! そう、利比古くんの話もしたいよ!! なんてたって麻井、あんた、利比古くんに想いを寄せ続けてて……!!」

 

 

 

 

【愛の◯◯】あのオトコ

 

冷房が効き過ぎているかもしれなかった。朝6時過ぎに起きたら肌寒いくらいだった。真夏で熱帯夜は確実だからといって油断していた。切タイマーを設定するべきだった。冷えに弱い方のアタシは掛け布団をギュッと抱き締め、15分ぐらいベッド上でウダウダしていた。

牛乳を飲んで朝は始まる。幼い頃から牛乳好きだったのに全く身長は伸びなかった。それでも牛乳は飲み続けてきた。今朝も冷蔵庫から長い牛乳パックを取り出す。ガラスコップにどはどば注ぎ、1杯目をぐいーっと飲み干す。矢継ぎ早に2杯目を注ぐ。牛乳はどれだけ水分補給になるのだろうか。

朝食の前に、実家から持ち込んだ姿見の前に近付く。小学4年生や5年生とさほど変わらない背丈のアタシが映る。140センチ台で哀しい。女子の方が発育が早いから、小学4年生や5年生であっても、アタシの背丈を軽く超す子も少なくないんだろう。発育を司る神様は残酷だ。

 

× × ×

 

軽めの朝食をすませた後で、もう一度姿見の前に立つ。手に携えていたのは薄手のパーカーだ。中学時代から夏用と冬用のパーカーを使い分けている。このパーカーは10年近く愛用しているコトになる。

今日、このパーカーはどうしても必要だったのだ。というのは、ひとことで言えば、外出する時に目立たないようにしたかったのである。大学で授業を受ける時には基本的にパーカーを着てこなかった。パーカーを着て商業施設に行けば、大学でのアタシしか知らない人たちに対するカモフラージュになる。

でも、パーカーだけじゃ不十分。背丈の低さでアタシだと気付かれるのはどうしようも無いにしても、パーカーに何かを足せばカモフラージュの効果は上がる。

パーカーに次ぐ装備として選んだのは野球帽だった。パーカーに野球帽を足せば、商業施設の他のお客さんにヘンテコな外見だと思われる危険は避けられないにせよ、知り合いに気付かれるリスクは軽減できる。

 

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パーカーと野球帽を装備して某・ショッピングモールに出向いた。野球帽のチームにこだわりは無いけど、寒色の方が目立たないと思って青色のを選んだ。寒色が暖色より目立たない根拠は無い。アタシの直感だ。

なぜ、こうまでして、知り合いに気付かれたくないのか?

エスカレーターを降りてすぐの所の書店にその答えはあった。

規模は大きくなく、歯応えのある本はあまり置いていない書店。その代わり、雑誌類は充実している。

目線をやや下向きにしながら、ファッション雑誌が陳列されている一角に突き進む。もちろん、女性向けファッション雑誌がいろいろ並べられている所。立ち止まり、若い女性向けのファッション誌が敷き詰められている棚に焦点を当てる。

カモフラージュしてまで気付かれたくないのだから、長く立ち止まっているワケにも行かず、インプットしておいた予備知識を活かし、数冊の若い女性向けファッション誌を速やかに抜き取り、場を離れる。

大学キャンパスに近い商業施設なのだから、ここの書店には足繁く通っていると言っても良いのだが、普段は気にも留めないエリアの棚の前に立ったから、少し緊張した。それだけアタシにとってファッション誌はハードルが高いのだ。

リスクを冒してまでファッション誌を買い求めた理由。ちゃんとある。アタシの置かれている状況が、ファッション誌の購入に向かわせるのだ。

 

× × ×

 

追いかけられているはずも無いのに追いかけられているような感覚になりながら、歩くピッチを速くしてショッピングモールを出た。

 

アタシ麻井律(あさい りつ)は大学4年生であり、多くの同期がそうであるように就職活動をした。

北関東の海に面した某県から東京に行くのは大変だったけど、ありがたいコトに、それなりの数の内定をいただいた。両親を安堵させるコトができた。諸事情でアタシより社会に出るのが遅れる兄にも良い知らせを届けられた。

アタシが入社するコトになったのは某・出版社だ。大手出版社であるかどうかは伏せておく。大手かどうかなんかよりも重要なのは配属先だった。映画雑誌あるいは文芸誌の編集部をアタシは希望していた。

しかし、希望は裏切られた。アタシに縁の遠いファッション雑誌の編集部に配属される羽目になったのだ。ターゲットは女子大学生含む20代女性。推しているのは、いわゆる『コンサバ』とは距離を置いた系統。

 

学生マンションの部屋に帰宅してから楕円形のテーブルに数冊のファッション誌をババッと置いた。

アタシが携わる雑誌のライバル誌含め何冊かの雑誌のページを手当たり次第にめくっていく。ギャルっぽい印象を抱くコーディネートもあれば、無駄なまでにキラキラしているように感じられるコーディネートもある。

大きく溜め息をついてしまう。肩を落とし、両手をカーペットに突き、背を反らす。大変な事態になった。どの会社も狹き門で有名な出版社の入社試験をせっかく突破したのに、これからどうやって編集者としてやっていけば良いんだろうか。映画と本は好きだったから、映画雑誌か文芸誌の担当になっていたら、こんな思いはしなかったはずなのに。

でも、アタシは根が真面目だから、決まってしまったコトに悪態をつき続けるのは愚かだと思い直し、数冊のキャピキャピなファッション誌のページを閉じ、楕円形テーブルの端っこのほうに重ねて置いた。

息を吸って吐いて気を取り直し、ファッション雑誌群と同時に購入していた某・映画雑誌をマイバッグの中から出し、楕円形テーブルの中央に置く。

ここからは好きなモノを読む時間。まだ窓の外はとっても明るい。お腹が空いてくるまで映画雑誌を読み耽りたい。

そういう風にキモチを立て直してページを丁寧にめくっていった。

すると、1ページを丸々使った若手男性俳優のバストアップ写真が眼に飛び込んできた。

飛び込んで、食い込んだ。胃袋がキュッ、と締め付けられ、そのあとですぐに心拍数が乱れるように上がっていった。

若手男性俳優そのものに対して感情が乱れ始めたワケでは無い。

そうじゃない。そうじゃない……。

アタシの『連想力』をアタシは恨む。

男優の写真を見た瞬間、『あのオトコ』を連想してしまったのだ。

『あのオトコ』は写真の男優と風貌が似ていて、しかもアイツの方が男優よりも顔立ちが整っている。前時代的な言い方ならば「甘いマスク」。多くの女子を惹きつけるタイプのマスクの甘さ。

『あのオトコ』は昔からそうだった。出会った時からそうだった。女子を惹きつけ、時に傷つけてしまう。そんな宿命を帯びているのが、4年前のあの春の日、桜が満開だったあの入学式の日……あの時点で既に、アタシには分かっていた。分かってしまっていたんだ。

羽田利比古。

出会った時、あっちは15歳。どう見てもガキンチョのはずだった。超強力なモテ男属性があるのは分かっていても、幼いから、アタシが『攻略』されるワケなんて無いと決め込んでいた。

でも、コントロールできない速さで、アタシはアイツに対して距離を縮めていってしまった。制御できなかった。抑え切れなかった。元来惚れっぽいアタシの性質がアタシの中で暴れ始めた。

厳しい先輩として厳しく当たった。容赦はしなかった。時には物理的に叩いたりもした。アタシの存在を2文字で表現するのなら『サド』だから。だけど、折檻したのに対する「しっぺ返し」は、間を置かずにやって来て……。

「しっぺ返し」。すなわち、アイツに感情(こころ)を持って行かれてしまったコト。
いつの間にかグイグイと引き寄せられ、惹きつけられ、傷つけたあとで傷つけられたり傷つけられたあとで傷つけたりした。

卒業間際には、アイツの眼の前で、とうとう涙を大量に零(こぼ)してしまった。その結果、アタシのキモチを覚(さと)られた。

桜が咲くのが近付きつつあったあの日、その日で着るのは最後の制服を着たアタシは、アイツと向かい合い、然るべきコトを言った。

あの日以来、アイツと、羽田利比古と顔を合わせたコトは1度も無い。

 

アタシ固有の惚れっぽさが再燃するキッカケになった映画雑誌のグラビアページを開いたまま、楕円形テーブルに突っ伏する。

冷房で肌寒かった朝とは真逆。

苦しいぐらいにカラダが温まってきている。

 

 

 

 

【愛の◯◯】壁側と利き腕

 

さやかさんが難しそうな本を読んでいる。いったいどんな本なんだろう。彼女の座るソファから少し距離がある。だから、背表紙が見えにくい。ハードカバーの学術書であるのは間違い無い。流石は『最高学府』の4年生。教養学部所属らしく、教養バリバリな感じだ。彼女のソファの周囲に彼女の知性が横溢(おういつ)しているみたい。

そして、彼女は間違い無く髪を切った。高校2年生ぐらいの頃の短さに戻っている。近頃では髪が長くなっていて、ひょっとすると、わたしよりも長く伸びているのかもしれない程だった。わたしの髪の長さは長年両肩に触れる程度だ。最近のさやかさんの髪は両肩よりも下まで伸びていたんでは無かろうか。だけど、この邸(いえ)を今日訪ねてきたさやかさんの髪は、ショートカットの領域に近付いていた。

わたしは自分のソファから立ち上がり、ぺたぺたと彼女のソファとの距離を詰めた。左斜め前に彼女の居るポジションのソファに腰を下ろす。絶賛読書中の彼女が本に送る視線の角度を上向きに変えたのを見計らい、

「さやかさーん」

と呼びかける。

わたしをチラ見したさやかさんに、

「髪、切ったんでしょ。切りましたよね、100パーセント」

さやかさんはスマートな苦笑いで、

「バレたか」

「バレますってー」

「そうだよ、あすかちゃん。切ってもらったばっかりなんだよ」

「イメージチェンジでもしたかったり?」

「そんなワケでは無くて。夏真っ盛りだから、爽やかな感じにしたかっただけ」

「さやかさんはいつでも爽やかじゃないですか!! 『さやか』って名前にも、『爽やか』ってニュアンスが感じられるし」

「流石はあすかちゃんだねぇ。『さやか』を辞書で引くと、『爽やかな〜』って書かれてるんだよ」

「やっぱりー」

難しそうな本を閉じ、ほんの少しだけ照れた顔になり、

「着ていく服とかも、もうちょいサッパリとした感じにできたら良かったんだけどな。詰め、甘かったよ。このジーンズとか、代わり映えしないやつだし」

「さやかさんは『代わり映えしない』って思ってるかもしれませんけど、わたし、そのジーンズ、さやかさんだからこそ見映えがするんだと思いますよ?」

「マジ?」

「マジですとも。さやかさんの長い脚にぴったりフィットで」

「……『ぴったりフィット』かぁ」

ふふふっ。

さやかさん、あたかも、自分の穿いているジーンズに対して照れているみたいになっている。

 

× × ×

 

夜。わたしの部屋。ゴハンも食べたしお風呂も入ったし、互いにもう寝るだけ。

さやかさんはベッドに腰掛け、わたしはカーペットに腰を下ろしている。この体勢だと、さやかさんの長い脚がよく見える。膝丈より少し長いスウェット的なナイトウェア。身長が163センチあるって良いよね。155センチしか無いわたしは羨ましい。体型に関してわたしの方が『勝っている』部分もあるにはあるんだけど、慎み深くなるためにオブラートに包んでおく。

さて、さやかさんの脚を眺めてばかりではスケベな中年男性なんかと変わりが無くなってしまうので、

「眠くなってきましたかー? さやかさん」

と問い掛けて、腰を浮かす。

立ち上がったわたしに、

学術書を読む集中力が無くなるぐらいには、頭がぼーっとしてきたよ」

「だったら、もうじき就寝体勢ですね」

「そんなトコ」

さやかさんを驚かせるかもしれないけど、

「ベッド、共有しましょうよ」

とわたしは促す。

「え、共有っ!?」

彼女は大きくビックリして、

「そ、それってさ、アレだよね。あすかちゃんのベッドを、ダブルベッドみたいに運用して……」

「睡(ねむ)り方を忘れちゃイヤですよー、さやかさん」

「ど、ど、どーゆういみ」

「そんなにビックリが大きかったら、ダブルベッドでの『作法』を忘れちゃって、寝付けないかもしれない。不安だな〜、わたし」

さやかさん、唖然。

その場から、動けない。

うつむきつつ視線が泳ぐ。ダブルベッド的運用でもって就寝するのに対する恥ずかしさがガンガン伝わってくる。きれいな脚の両膝をくっつけて、わたしから視線をやや逸らしてしまう。

ラチがあかない状態に彼女がなっているのなら、もっと積極的になるしか無い。だから、わたしもベッドに上がり、するすると彼女に躙(にじ)り寄り、正座になる。

「さやかさん。こんなワガママは、この夏で1度きり。だから、わたしのワガママ、受け容れてくださいよ」

依然うろたえて、

「いっしょに、寝るんだよね? よ、寄り添うのは、良いけど、わたし、あすかちゃんよりは、たぶん細くなくって……」

「わたしのベッドを甘く見ないでください」

「!?」

「それにそもそも、さやかさんは十二分に細身じゃないですかぁ。ダイジョーブですよ。ダイジョーブ博士ですよ。ふたりのカラダ、すっぽり入るし、きっとベッドはフィットすると思うから」

わたしの方を向いてくれるんだけど、とても照れくさそうに、わたしから見て右のほっぺたをポリポリと掻く仕草をして、

「どっちが、どっちになるの? ……っていうのは、ほら、あすかちゃんとわたしのどっちが壁側に寝るのか、とかの問題……」

「さやかさんはわたしの右サイドに寝てください」

即答した。

ビクッ!! というリアクションの後(のち)に彼女は、

「ってコトは、わたしが、壁側」

「それでよろしくお願いします」

「……あすかちゃんが、わたしの左側で寝たい理由って?」

「利き腕が右手だからですよ」

「え、えっ、それは、何を意味して……!?」

「自分で考えてください。現役東大生なんだから、わたしの意図を自分で推し測れますよね? さやかさんならきっと推し測ってくれるはずだと思う。わたしとさやかさん、知り合ってからもう6年ぐらい経つんだし……」

 

 

 

【愛の◯◯】「途切れ途切れ」の小泉さん

 

「小泉さーん」

電話の向こうの小泉さんに呼びかけてみる。

しかし、返事が無い。

唐突な沈黙。

謎の沈黙。

なにゆえ?

「小泉さーーん」

もう1回呼びかけ。

すると、ようやく、

「あ、ああっ、あああっ、利比古くんゴメンねゴメンね、何もかも、うわの空だった……!!」

どうしてだろうか。

小泉さん、凄く慌てた声だ。

彼女にいったい何があったというのか。

一瞬、考えようとする。

でも、『まあいいか』と思って、

「とりあえず落ち着いてください」

と小泉さんにお願いする。

「……うん。精一杯落ち着く」

小泉さんのフニャけた声。

精一杯落ち着くって何だろう。

まあいいか。

この通話で大事なのは、

日本テレビ系列の夕方のニュース番組の歴史について話してくれるんでしたよね?」

「そうだったね利比古くん。わたしときみとで放送文化的トークするための通話だったよね。なのに、わたし、何をやってるんだろう。心ここにあらずとは、まさにこのコト……」

「大丈夫ですか? 話せそうですか? 小泉さんの勤め先の『泉学園』、夏休みに入ったんですよね? 1学期の疲れがドッと出てきたんでは……。教師は大変なお仕事だってよく聞きますし」

「まぁね。それなりに大変。1学期の最後になって、職務でちょっとしくじっちゃったコトもあって」

そう言ったあとで彼女は、

「しくじったから、挫(くじ)けた。挫けたけど、立ち直った」

と。

ぼくは、何気なく、

「立ち直るのを助けてくれた人が居たんですか?」

と訊いた。

するとまたもや、彼女からの応答が途切れる。

ラジオ番組でこんなに沈黙していたら放送事故だ。

1分、2分、3分。刻々と経過する時間。

彼女に、小泉さんに、いったい何が!?

 

応答が途切れてから10分近く経ってようやく通話に復帰した小泉さん。

「……利比古くん」

弱さの増した声で、

「カラダは大丈夫なんだけどね。ココロが、夏の暑さで参っちゃったみたいで。精神的に熱中症ってトコかな。アハハ」

 

うーむ。

彼女、日本テレビ系列の夕方ニュース番組の歴史について話してくれるようなコンディションでは無いな。

電話の向こうに団扇(うちわ)で風を送れないのが残念だ。