【愛の◯◯】あのオトコ

 

冷房が効き過ぎているかもしれなかった。朝6時過ぎに起きたら肌寒いくらいだった。真夏で熱帯夜は確実だからといって油断していた。切タイマーを設定するべきだった。冷えに弱い方のアタシは掛け布団をギュッと抱き締め、15分ぐらいベッド上でウダウダしていた。

牛乳を飲んで朝は始まる。幼い頃から牛乳好きだったのに全く身長は伸びなかった。それでも牛乳は飲み続けてきた。今朝も冷蔵庫から長い牛乳パックを取り出す。ガラスコップにどはどば注ぎ、1杯目をぐいーっと飲み干す。矢継ぎ早に2杯目を注ぐ。牛乳はどれだけ水分補給になるのだろうか。

朝食の前に、実家から持ち込んだ姿見の前に近付く。小学4年生や5年生とさほど変わらない背丈のアタシが映る。140センチ台で哀しい。女子の方が発育が早いから、小学4年生や5年生であっても、アタシの背丈を軽く超す子も少なくないんだろう。発育を司る神様は残酷だ。

 

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軽めの朝食をすませた後で、もう一度姿見の前に立つ。手に携えていたのは薄手のパーカーだ。中学時代から夏用と冬用のパーカーを使い分けている。このパーカーは10年近く愛用しているコトになる。

今日、このパーカーはどうしても必要だったのだ。というのは、ひとことで言えば、外出する時に目立たないようにしたかったのである。大学で授業を受ける時には基本的にパーカーを着てこなかった。パーカーを着て商業施設に行けば、大学でのアタシしか知らない人たちに対するカモフラージュになる。

でも、パーカーだけじゃ不十分。背丈の低さでアタシだと気付かれるのはどうしようも無いにしても、パーカーに何かを足せばカモフラージュの効果は上がる。

パーカーに次ぐ装備として選んだのは野球帽だった。パーカーに野球帽を足せば、商業施設の他のお客さんにヘンテコな外見だと思われる危険は避けられないにせよ、知り合いに気付かれるリスクは軽減できる。

 

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パーカーと野球帽を装備して某・ショッピングモールに出向いた。野球帽のチームにこだわりは無いけど、寒色の方が目立たないと思って青色のを選んだ。寒色が暖色より目立たない根拠は無い。アタシの直感だ。

なぜ、こうまでして、知り合いに気付かれたくないのか?

エスカレーターを降りてすぐの所の書店にその答えはあった。

規模は大きくなく、歯応えのある本はあまり置いていない書店。その代わり、雑誌類は充実している。

目線をやや下向きにしながら、ファッション雑誌が陳列されている一角に突き進む。もちろん、女性向けファッション雑誌がいろいろ並べられている所。立ち止まり、若い女性向けのファッション誌が敷き詰められている棚に焦点を当てる。

カモフラージュしてまで気付かれたくないのだから、長く立ち止まっているワケにも行かず、インプットしておいた予備知識を活かし、数冊の若い女性向けファッション誌を速やかに抜き取り、場を離れる。

大学キャンパスに近い商業施設なのだから、ここの書店には足繁く通っていると言っても良いのだが、普段は気にも留めないエリアの棚の前に立ったから、少し緊張した。それだけアタシにとってファッション誌はハードルが高いのだ。

リスクを冒してまでファッション誌を買い求めた理由。ちゃんとある。アタシの置かれている状況が、ファッション誌の購入に向かわせるのだ。

 

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追いかけられているはずも無いのに追いかけられているような感覚になりながら、歩くピッチを速くしてショッピングモールを出た。

 

アタシ麻井律(あさい りつ)は大学4年生であり、多くの同期がそうであるように就職活動をした。

北関東の海に面した某県から東京に行くのは大変だったけど、ありがたいコトに、それなりの数の内定をいただいた。両親を安堵させるコトができた。諸事情でアタシより社会に出るのが遅れる兄にも良い知らせを届けられた。

アタシが入社するコトになったのは某・出版社だ。大手出版社であるかどうかは伏せておく。大手かどうかなんかよりも重要なのは配属先だった。映画雑誌あるいは文芸誌の編集部をアタシは希望していた。

しかし、希望は裏切られた。アタシに縁の遠いファッション雑誌の編集部に配属される羽目になったのだ。ターゲットは女子大学生含む20代女性。推しているのは、いわゆる『コンサバ』とは距離を置いた系統。

 

学生マンションの部屋に帰宅してから楕円形のテーブルに数冊のファッション誌をババッと置いた。

アタシが携わる雑誌のライバル誌含め何冊かの雑誌のページを手当たり次第にめくっていく。ギャルっぽい印象を抱くコーディネートもあれば、無駄なまでにキラキラしているように感じられるコーディネートもある。

大きく溜め息をついてしまう。肩を落とし、両手をカーペットに突き、背を反らす。大変な事態になった。どの会社も狹き門で有名な出版社の入社試験をせっかく突破したのに、これからどうやって編集者としてやっていけば良いんだろうか。映画と本は好きだったから、映画雑誌か文芸誌の担当になっていたら、こんな思いはしなかったはずなのに。

でも、アタシは根が真面目だから、決まってしまったコトに悪態をつき続けるのは愚かだと思い直し、数冊のキャピキャピなファッション誌のページを閉じ、楕円形テーブルの端っこのほうに重ねて置いた。

息を吸って吐いて気を取り直し、ファッション雑誌群と同時に購入していた某・映画雑誌をマイバッグの中から出し、楕円形テーブルの中央に置く。

ここからは好きなモノを読む時間。まだ窓の外はとっても明るい。お腹が空いてくるまで映画雑誌を読み耽りたい。

そういう風にキモチを立て直してページを丁寧にめくっていった。

すると、1ページを丸々使った若手男性俳優のバストアップ写真が眼に飛び込んできた。

飛び込んで、食い込んだ。胃袋がキュッ、と締め付けられ、そのあとですぐに心拍数が乱れるように上がっていった。

若手男性俳優そのものに対して感情が乱れ始めたワケでは無い。

そうじゃない。そうじゃない……。

アタシの『連想力』をアタシは恨む。

男優の写真を見た瞬間、『あのオトコ』を連想してしまったのだ。

『あのオトコ』は写真の男優と風貌が似ていて、しかもアイツの方が男優よりも顔立ちが整っている。前時代的な言い方ならば「甘いマスク」。多くの女子を惹きつけるタイプのマスクの甘さ。

『あのオトコ』は昔からそうだった。出会った時からそうだった。女子を惹きつけ、時に傷つけてしまう。そんな宿命を帯びているのが、4年前のあの春の日、桜が満開だったあの入学式の日……あの時点で既に、アタシには分かっていた。分かってしまっていたんだ。

羽田利比古。

出会った時、あっちは15歳。どう見てもガキンチョのはずだった。超強力なモテ男属性があるのは分かっていても、幼いから、アタシが『攻略』されるワケなんて無いと決め込んでいた。

でも、コントロールできない速さで、アタシはアイツに対して距離を縮めていってしまった。制御できなかった。抑え切れなかった。元来惚れっぽいアタシの性質がアタシの中で暴れ始めた。

厳しい先輩として厳しく当たった。容赦はしなかった。時には物理的に叩いたりもした。アタシの存在を2文字で表現するのなら『サド』だから。だけど、折檻したのに対する「しっぺ返し」は、間を置かずにやって来て……。

「しっぺ返し」。すなわち、アイツに感情(こころ)を持って行かれてしまったコト。
いつの間にかグイグイと引き寄せられ、惹きつけられ、傷つけたあとで傷つけられたり傷つけられたあとで傷つけたりした。

卒業間際には、アイツの眼の前で、とうとう涙を大量に零(こぼ)してしまった。その結果、アタシのキモチを覚(さと)られた。

桜が咲くのが近付きつつあったあの日、その日で着るのは最後の制服を着たアタシは、アイツと向かい合い、然るべきコトを言った。

あの日以来、アイツと、羽田利比古と顔を合わせたコトは1度も無い。

 

アタシ固有の惚れっぽさが再燃するキッカケになった映画雑誌のグラビアページを開いたまま、楕円形テーブルに突っ伏する。

冷房で肌寒かった朝とは真逆。

苦しいぐらいにカラダが温まってきている。