【愛の◯◯】手の届かない場所にセンパイの手が届く

 

夏休みが終わり、2学期が始まった。わたしたちの夏が過ぎ、わたしたちの秋が始まる。わたしたちの秋が始まるといっても、校舎では冷房がフル稼働だ。現在(いま)わたしが居る図書館でも、クーラーが室内を懸命に涼しくしてくれている。放課後だけどお陽(ひ)さまは高く、窓の外のアスファルトを容赦無く照らしている。

「残暑だねえ」

そう言ったのは春園保(はるぞの たもつ)センパイだった。カウンターの奥にある図書委員の作業スペースで、わたしと春園センパイは向かい合っていた。センパイは呟くように残る暑さに言及した。呟きのような言及ながらも、その眼はわたしに据えられていた。

学年が1つ上の男子たる春園センパイの据えられた眼に緊張しながらも、

「危険なくらい、暑さが持続してますよね」

と彼のコトバを承(う)けて言う。

「地球がヤバいよな。この暑さの中で、高校球児たちは甲子園球場で闘っていたワケだ」

センパイはそこで一旦コトバを切った。それから、より一層ジットリと、わたしに目線を送ってきた。

学年が上なのも相まってか? わたしより5倍以上は余裕がありそうな春園センパイが、微笑みながら腕を組む。わたしを見据えてきていた眼が閉じられる。互いに革張りソファに座っているわたしとセンパイの間に沈黙が降りてくる。

わたしに戸惑いが兆す直前にセンパイは眼を開き、

「ま、甲子園云々は次の機会にまたじっくりと……かな」

と言い、

「貝沢(かいざわ)さん。きみの『スポーツ新聞部』、新学期早々、特大号みたいな分厚さの新聞を配ってたよね。スゴいねぇ」

と、わたしたちの作りたての校内スポーツ新聞を賞賛する。

不意打ちみたいに賞賛されたから、やや縮こまって、

「それほどでも」

と謙遜してしまう。

縮こまったから、わたしの目線は、センパイの足元に移っている。

 

× × ×


新学期の初(しょ)っ端(ぱな)から、なんだか、春園センパイの前で「空回り」してしまっているみたいだ。校内スポーツ新聞をホメられた時、彼の足元を見てしまった。せめて、カッターシャツの襟の辺りまでは目線を上げるべきだった。

わたしもセンパイも革張りソファに依存するのをやめて書棚の目前まで来ていた。いわゆるひとつの「書架整理」だ。変な場所に収められた本を、元通りの場所に戻す。結構な確率で、いい加減な場所に本が放り込まれていたりする。

今日は、文学の棚に生物学の本が紛れ込んでいるのを発見してしまった。救いようの無い間違いに眉をひそめ、生物学の本を本来の場所に持っていく。

文学の棚に戻ってきたら、春園センパイが書棚のかなり高い箇所を見上げているのが眼に入った。左隣に立ったわたしも、つられるようにして、書棚を見上げる。

『米』で始まる名前のミステリー作家の小説の間に、なんと経済学の本が混じっていた。『高校1年生でもわかる! ミクロ経済学マクロ経済学』という背表紙。ずいぶん自信満々なタイトルである。自信過剰に見えるタイトルもイヤだし、何よりも、社会科学の棚にあるべき本が無責任にも文学の棚に入れられているのを許すコトができない。

「穂信(ほのぶ)先生が悲しんじゃうよっ、こんな本が自分の小説の間に挟み込まれてるのを見たら」

イラッとしたあまりに、嘆きを声に出してしまった。

当然、右隣の春園センパイには、バッチリ聞こえてしまっている。首をぶんぶん振りたくなるぐらい、わたしは恥ずかしくなってしまう。こんなケースは未だかつて無かったような気がする。勢い余って出た嘆き。わたしらしくも無い。わたしはわたし自身を恥じ、急速にわたしがわたしで無くなっていくのを感じ取る。目眩(めまい)がしない代わりに、顔面の温度が急激に上昇する。

隣のセンパイの方を一切見ずに、視線を、『高校1年生でもわかる! ミクロ経済学マクロ経済学』に集中させる。一刻も早く、あの本を取り除きたい。わたしが「自分自身を見失ってる状態」になってしまった元凶を。『経済学部なんか、絶対に進学してあげないんだから……!』とまでココロの奥で呟いてしまう。余計な感情混じりに、本を凝視し続けてしまう。

困ったことに、異物として混入している本がある場所が高過ぎて、わたしの手が、ギリギリ届かない。

身長155センチの悲哀。背伸びして手を伸ばしても届かない。絶妙に届かない。絶妙に届かないのが悔しくて、悪あがきであるのは分かっていながらも、何度も何度も手を伸ばす。

「取りたいの?」

わたしの右耳に春園センパイの声が入ってきた。

「何やらずいぶんと、米澤穂信の小説の中に紛れ込んでる本に執着してるみたいだけど」

わたしはすぐにはコトバを返せなかったけど、

「……だって、明らかにおかしいじゃないですか。わたし、あの胡散臭い経済学の本を抜き出すまで、下校できないです」

表現に誇張があるのは自覚していた。誇張表現を抑え切れなかった。抑え切れなかったから、くすぐったい恥ずかしさが、こぼしてしまった液体がテーブルクロスに拡がるように、わたしを覆い始めてきた。

「言ってくれたら、おれが抜き取ってあげたのに」

わたしの感情を知ってか知らずか、軽い口調でセンパイは言ってきた。

手は高い場所に伸ばしたまま、大仰に息を吸い込んで、

「助けてくれませんか、センパイ」

と声を絞り出した。

「承知した。おれならば、朝飯前だ」

センパイは、いとも容易(たやす)く、全ての元凶たる経済学の本を抜き取った。『ヒョイ』という擬音が出るかのようだった。余りにも呆気(あっけ)無く元凶は抜き取られた。

「あるべき場所に戻してくるわ」

そう言って、センパイは『あるべき場所』に向って歩き始めた。

わたしの視線は書棚の下段(げだん)に移っていた。

誰にも察知されないように、夏服の胸をぐっ、と押さえた。