寒かった。12月らしい寒さ。つい最近まであんなに気温が高かったはずなのに。日はとっくに暮れている。脚のあたりがヒリヒリするほど冷たい。歩くのが遅くなってしまう。
わたしの右隣で歩いている兄貴はこういう寒さにとっても強い。去年の12月だったっけ、ちょうどこんな寒い日の夜道を同じように並んで歩いていた時、『おれはこんな寒さどーってことない。鍛え方が違うんだ、鍛え方が』とかドヤ顔で言ってきたから、脛(すね)を蹴りたくなってしまった。ホントに蹴っちゃっていたかもしれない。
白い息を吐きながらどうにか兄貴の歩きに追い付く。
それから、
「ねえ」
と呼び掛けて、
「駅に着いちゃうまでに、『批評タイム』」
「『批評タイム』? なんじゃそりゃ」
「お兄ちゃんの『リュクサンブール』での仕事ぶりを批評したいんだよ」
さっきまで兄貴の職場たるカフェ『リュクサンブール』に来店していたのである。
アポ無し来店だったものの、わたしに対しては無難に接客していたのだが、
「レジ近くのテーブルでコーヒーをこぼしそうになってたよね。お客さんの服を汚さなくて本当に良かったと思うよ」
言われた兄貴は恐らく苦い口元になっているし、右拳を握り締めている。見なくても見えなくても分かる。
「怒られたでしょ、上司の人に。怒られてないわけ絶対無いよ」
わたしの問いに、兄貴はフンニャリな声で、
「軽く叱られた……だけだし」
ふーーん。
「わたしは、今のバイト先のカフェレストランで、飲み物こぼしたことなんか一度も無いし、こぼしそうになったことも一度も無い」
だんだん勝ち誇り気分になってくるわたし。
寒さも和らぐ。
良い気分を持続させて駅の間近まで来た。
兄貴がいきなりピタリと立ち止まった。
横断歩道の前でもない所で立ち止まったから、
「なんでいきなり立ち止まるの!? ビックリするじゃん。お店でも変な動きしてお客さんをビビらせてるんじゃないの!?」
と喚いてしまうわたしだったが、
「ばかゆーな」
と言いながら、兄貴にカラダを寄せられてしまう。
街灯が明るくて、兄貴が視線を注いできているのがハッキリと分かってしまう。
ただ視線を寄せるんじゃなくて、じわぁーーっ、と視線を注ぎ込むような感じ。
違和感があり過ぎるから、
「どうしちゃったの。わたしの顔面なんか見どころ少ないし、見ても仕方が無いでしょ。兄貴の恋人の眉目秀麗さと比べたら、わたしなんか……」
「ばかじゃね? おまえの顔面を『批評』する気なんか少しもねーよ」
『ばか』って2回も言われた。ムカムカする。すぐに『ばか』とか宜しくないコトバを口から発してしまう兄の存在が情けない。
わたしは情けない愚兄を睨む。さながら報復のごとく。
睨みつけていたら、
「あのな。おれがな、電車に乗る前に、どうしても訊いておきたいことはな」
「訊いておきたいこと? ……早く言ってよ、焦らさないでよ」
促した直後に、
「おまえ、利比古のこと、大切にしてるか?」
× × ×
なにがなんだか分からないままに帰りの電車に乗ってしまった。
利比古くん。兄貴の恋人かつ同居者である羽田愛さん(『おねーさん』)の実の弟。2020年度からわたしは利比古くんと邸(いえ)で一緒に暮らしている。
兄貴と利比古くんは強い絆で結ばれている。現在は兄貴が自立してマンションでおねーさんとふたり暮らしで、普段は利比古くんの様子が間近で見られない。邸(いえ)に残って彼の傍(そば)で暮らしているわたしに『どんな様子か?』と訊いてみたいキモチは理解できる。
『大切にしてるか?』とわたしに問いたくなるキモチだって、同じように理解できている。
そう。理解できる……んだけども、それでもわたしは、なにがなんだか分からないキモチでいっぱいだった。利比古くんの名前を出されたのが唐突だったというのはもちろんある。でも、唐突だったから動揺したというだけではない。
動揺とは別種の感情が、胸の奥からグググググッ……とせり上がってきていた。重みのある感情だった。胸が詰まって苦しくなった。降りる駅に近付いている現在(いま)の車内でも、まだ息苦しい。右手で吊り革を持ちながら、左手で胸を押さえつける。わたしの胸が注目を浴びない程度に、押さえつける。
『胸まで敏感にならないでよ』と、わたしはわたし自身をたしなめる。
彼が、利比古くんが、邸(いえ)に来た当初の10倍以上、わたしにとって大きな存在になっている。
具体的には去年の秋ぐらいから、彼の存在感がわたしの中で急激に膨らみ続けている。
だから、利比古くんの名前が出てくると敏感に反応してしまうのも、急激に増えてきてしまっているのだ。
『胸まで敏感にならないでよ』ってのは、そういう事情から。
次が降りる駅であるのを知らせるアナウンスが、押さえる胸に降りかかってきた。
帰宅するのが少し怖かった。
× × ×
少し遅めの夕食だった。独りで食べた。重々しい味がした。孤食(こしょく)だったのも重々しさを助長した。
わたしのいろんな所にのしかかってくる重いモノを帳消しにしたかった。
ダイニング・キッチン。食べ終えた食器を洗って片したところ。邸(いえ)のメンバーのそれぞれに事情があって、ダイニングテーブルの椅子に座って独りぼっち。
ぼっち・ざ・あすかだよ。
どうしようもないよ。
俯きながら、わたしの視線は冷蔵庫へと伸び始めている。
巨大冷蔵庫。巨大な存在の中には、食材だけでなく飲み物も沢山入れられている。
牛乳、オレンジジュース、アイスコーヒー、ミネラルウォーター、炭酸水、コカ・コーラ、ペプシコーラ、エナジードリンク。
そして……アルコールが入った飲料も、当然、たくさん。
ダイニングテーブルの前で落ち着き続けることができず、椅子から立ち上がって巨大冷蔵庫に急行した。
目的はもちろん、美味しいビールを探すこと。
クラフトビールが見つかった。希少かつ高級銘柄。きっとお母さんだ、絶対お母さんだ。お母さんが、どんなルートでか知らないけど、このクラフトビールを入手したんだ。
鷹揚(おうよう)なお母さんなら、わたしがこのクラフトビールを勝手に飲んでも100パーセント怒らない。
だから、手を伸ばす。
だけど。
手を伸ばした瞬間に。
『独りだけで、飲んじゃうの?』
という囁(ささや)きが、どこからともなく聞こえてきて。
わたしの無意識が、独りだけでクラフトビールを飲むよりも、『誰かと』クラフトビールを飲むのを欲している……。
その事実に直面して……それでも、その事実に直面しているのを認められなくって。
「も、もうっ。わたし、どーしちゃったってゆーのっ」
髪を振り乱すごとく首をブンブン振っている自分がいた。
ここまで取り乱すのは、お兄ちゃんのせいでもあり、わたし自身のせいでもあり……。