夕食の後片付けをした後でダイニング・キッチンを出る。広いリビングへと向かって歩く。
リビングが幾つもある中でも指折りの広さのリビング。流(ながる)さんの後ろ姿が見えた。横長に並ぶソファの真ん中あたりに座っている。
背後から流さんに接近していく。どうやらKindle端末らしき物で電子書籍を読んでいるようだ。
「何を読んでるんですか? 流さん」
背後から訊いてみた。流さんが過剰なまでに伸び上がる。そんなにビックリする必要ありますか?
流さんがいかがわしい本を読むなんてありえない。何を読んでいるのかと訊かれて過剰反応する必要も無いはず。もっと堂々としてほしい。わたしよりもずっと年上なんだし。
「何を読んでるのか答えてくれるまで背後から動きませんから」
そう脅すと、
「き、きびしいんだね、あすかちゃんは。いつもながらに」
あのぉ。
怯えた声で喋ってほしくないし、早いとこ読んでる電子書籍を答えてほしいんですけど。
× × ×
読んでいるモノを流さんが答えてくれた5秒後にわたしは彼の左側のソファに着座した。彼との間隔は1メートルを切るか切らないかぐらい。わたしが着座した途端に彼はKindle端末を脇に置いた。
読書を中断させてしまった。良くないことだ。でも、わたしは流さんにちゃんと喋ってほしくって、
「たまにはわたしと長いお喋りをしてください」
と要求する。
「長いお喋り……? テーマは?」
「それはもちろんカレンさんのことですよ」
カレンさん。流さんの彼女さんだ。ふたりはずーっと交際を続けている。何年前からの交際なのかパッと出てこないぐらい。そんな息の長さ。
軽く染めた髪がキラキラ光るカレンさんの麗しき容姿を思い浮かべながら、
「どーなんですか? 最近彼女とデートに行ったりしましたか?」
うろたえ気味に、
「……勤労感謝の日に、新宿へ」
へえーっ。
「新宿っていっても色々ですよね? 具体的には新宿のどこですか? 最寄り駅の名前を教えてください」
「最寄り駅……?」
「ハイ最寄り駅です」
口ごもる流さん。
デート場所の最寄り駅も言えないだなんて。嘆かわしい。
× × ×
だけど、デートの模様について流さんは詳細報告をしてくれたから満足だった。
「ありがとうございます」
素直に感謝した後で、
「カレンさんの方が強い立場なのがよく分かりました」
と余計なヒトコトを敢えて付け加える。
それにしても、
「そろそろ結婚とか考えないんですか?」
「けけけケッコンっ!?」
お化け屋敷でいちばん怖いお化けがいきなり出てきた時に上げる悲鳴みたいな流さんの叫び声。
不甲斐ないなあ……と思いながら彼の横顔をジックリと見る。
そして、
「半分は本気で言ってます」
と言い、
「添い遂げたいんでしょ?」
と彼に向かって攻め込んでいく。
彼はたまらずに腰を上げた。この場から逃げようとしているのがバレバレ。
これはいけない。
「流さんのキモチをわたしは教えてほしいんですけどねー」
追い詰めて、立ち止まらせる。
背中を向けたまま、彼は約15秒間静止。
とうとうキモチを伝えてくれるのかと思っていたが、
「あすかちゃん、きみってさ……いま、独(ひと)りだよね?」
と文脈無視の発言を彼が口から出してきたから、呆れてモノも言えなくなる。
独り身なのがなんなの!? サイコーに不機嫌にさせてくるヒトコト。苦し紛れの抵抗としか思えない。往生際が悪過ぎ。
「新しいパートナー、見つけたくないか」
そう付け足す流さんの足の甲を全力で踏んづけたくなってきてしまった。
× × ×
後味が悪過ぎだった。
独り身を指摘されて、明日の朝ごはんを流さんと一緒に食べたくなくなった。
失望だ。流さんとの生活も長く、彼の態度にガッカリすることがときどきある。頻度は半年に1回ぐらい。次にガッカリしちゃうのは半年後という計算になる。
カリカリしながら階段をのぼり、カリカリしながら2階廊下を歩いた。
すると、眼の前の部屋のドアが開き、流さんよりハンサムな男子が姿を現してきた。
利比古くんだ。
バッタリ出くわしてしまった。
ぶわぁっ、と顔面が発熱し始めるのを自覚する。条件反射で顔が熱くなるのは何故か? それは、そういう『流れ』に最近なってきているから。つまり、意識とか、自意識だとか、そういうのが、利比古くんの前だと、乱れる。
わたしの歩く足は完全に停まってしまった。棒立ち。利比古くんにどう対応していいか分からなくなる。流さんに向かう時みたいに主導権(イニシアティブ)を握れない。わたしの方が利比古くんより年上なのに、年上に相応しい落ち着いた態度をとることができない。
「どうしたんですか?」
優しい声がわたしの鼓膜を震わせた。熱くなる胸をわたしは押さえつけた。
「え、胸でも痛むんですか」
男子が女子に向けて最も言うべきではないコトバを利比古くんが言ってきた。
怒りと戸惑いとうろたえが果てしなくかき混ざる。見えている世界も見えていない世界もグルグル回る。
取り乱しを少しも制御できないまま、わたしは利比古くんにガンガン迫っていく。
利比古くんの至近に立ち、
「あなたはわたしにどーゆー視線を向けてるの!? 軽々しく女子の胸を見てくるなんて、あなたみたいなハンサムボーイにいちばん似つかわしくない行動だよ」
「ハンサムボーイって」
彼の軽々しい苦笑が眼に食い込む。
「反省して! 反省してったら反省して!!」
喚きながら、彼の上半身を連打する寸前まで感情が昂(たかぶ)る、わたし。
「『胸でも痛むんですか?』って訊かれて怒らない女子が存在すると思う!?」
「……あーっ」
「なんなのその反応!? 怒りを通り越して泣きたくなってくるよ」
もうパンチしかない。チカラを込めた右ストレートパンチを食らわせるしかない。
男子の胸を幾らでも叩いていい権利が女子にはあるんだ。
わたしの大きな胸を見てきた彼への……制裁。