心(こころ)さんの助けを借りずに起床できた。心さんが作ってくれた朝ごはんを食べた。トーストがカリッとしてフワフワだった。『どうやったらこんなに美味しいトーストになるんだろう!?』と思ってしまった。おねーさんのお母さんにしてお料理の師匠。やっぱり【別格】なんだな……。改めてそう感じた。
【別格】の朝食を堪能した後で(心さんの手はもちろん借りずに)身支度を済ませたわたしは玄関で羽田夫妻に挨拶をした。名残惜しかったから必要以上に頭を深々と下げてしまったような気がした。
頭を深々と下げた時、ひょっとしたらご夫妻のどちらかが頭をナデナデしてくるんではないかと思った。でも、そんなことは無かった。手厚くもてなされたから、最後に愛情表現としてもしかしたら……と思っていたんだけどな。
『今回はナデナデされなかったけど、次回はナデナデされちゃうのかも』
ご夫妻の一軒家を出て玄関に背を向けながらココロの中でそう呟いた。
午前中の内に邸(ウチ)に帰るつもりは無かった。
わたしの住んでいる邸(いえ)ではなく、『あの女性(ヒト)』の住んでいる邸(いえ)に向かうのである。
× × ×
「父が『ペルソナ4』っていうアニメにハマってしまっていて」
「あー、小学生の頃に流行ってた気が」
「主人公の声やセリフの言い回しを頻(しき)りにモノマネするのよ。痛々し過ぎるわ」
大企業社長たるお父さんのオタクぶりに頭を悩ませているアカ子さんが右手でこめかみを押さえる仕草をした。
「いったい今幾つだと思ってるのかしら。呆れるばかりよ。しかもより一層悪いことに、同年代に『同好の士』が何人も居るらしくて……」
「その人たちも大企業の重役だったりするんですか?」
「……大きな声では言えないんだけれどね。あすかちゃんだからカミングアウトできるのよ」
「嬉しいです。わたしに信頼を置いてくれていて」
苦笑い混じりだけど柔らかく麗しい微笑で、
「長い付き合いじゃないのよ。あすかちゃんは大切な大切な存在だわ」
嬉しさに嬉しさが重なる。胸の辺りがジンワリと暖かくなる。
× × ×
アカ子さんがダイニング・キッチンで蜜柑さんとやり取りをしている間に、『ペルソナ4』の主人公の声優をこっそり調べてみた。
浪川大輔さんだった。
× × ×
湯気が盛んに立ち昇っている。そんじょそこらの肉まんとはモノが違うみたいだ。どこのお店の肉まんなのかアカ子さんは教えてくれたけど、諸般の事情で店名は伏せておく。
わたしの真正面のソファに再び座ったアカ子さんが、
「山盛りになってるし、熱い内に一緒に早く食べてしまいましょうよ」
と促す。
「アカ子さんのスピードについていけるかな」
わたしは思わず苦笑する。
「配慮してあげるから心配要らないわ」
そう念を押しながら彼女はもう既に1個目の肉まんを口に持っていっている。
瞬く間に1個目が消えた、と思いきや2個目も瞬時に無くなった。そして3個目も光のような速さで彼女の胃袋の中に消えていった。
『配慮』っていったい何だったんですか、アカ子さん。
わたしは最初に手に取った肉まんを口に持っていけないまま唖然とするしかない。
圧倒的なスピードで肉まんの山を崩すアカ子さんが、
「あら? どうして手が止まっちゃってるの? 食欲不振とかではないでしょう?」
と言ってくる。
焦りつつわたしは肉まんを半分に割ろうとする。
けれども、
「もしかして、男の子のコトを意識していて、肉まんに集中できなかったとか?」
と、非常に明るく非情なまでに明るい声で、アカ子さんが信じがたいほどに突拍子も無いことを言ってきたから、せっかく半分に割った肉まんが手からこぼれ落ちていく……!!
× × ×
まったくもうっ。
男の子のコトを意識しながら肉まんに向かうワケが無いじゃないですか。
絶対からかいたかったんですよね。絶対そうでしょ。だから、男の子がどうとか、強引に。
アカ子さんっ。アカ子さんは何ゆえに、異性との関わり的な◯◯でもって、わたしを揺さぶりたかったんですか!?
アカ子さんとはいつでも仲良く楽しく過ごしたいのに、正直ちょっとヒリヒリした気分になっちゃってたんですけどっ。
反省を要求します。
× × ×
帰る電車に乗っている間ずーっと、ココロの中でアカ子さんにブツブツグチグチ言っていたような気がする。
そんなこんなで、なんだかんだで、自分の邸(いえ)まで帰ってきた。
玄関ドアに続く道をぺたぺたと歩く。
午後1時前の陽射しが少し眩しい。玄関のドアノブが輝くように光る。そのドアノブを捻(ひね)って屋内に入る。靴を脱ぐ。脱いだ靴を完璧に揃える。ピンク色のスリッパを選び、ぺたぺたぺたと歩き始め、広大な空間へと向かって行く。
1階フロアのど真ん中の邸(いえ)でいちばん大きなリビング。
利比古くんが午前中で授業を受け終えて帰る予定だったのは知っていた。
だから、この時間帯ならば帰宅済みでたぶんリビングでくつろいでるんだろうと予測はついていた。
利比古くんの立っている後ろ姿。
お姉さん譲りの髪の色がイジワルなほどまばゆい。短くはない髪の長さ。残念ながら背丈は170センチに届いていない。でも、当然のごとく細くてシュッとしている体型。立っている後ろ姿だけで、老若男女問わず惹きつける容姿であるのが分かってしまう。
「……女の子にモテるだけじゃないんだよね。女の子にモテるだけじゃ、『魅力がある』とは言いがたい」
ひとりでにそんなコトバが口から溢れ出てしまう。
『やらかす』のは何度目だろう。もうなんだか、彼の間近に居ると、ヒトリゴトが溢れ出るのを堰(せ)き止められる自信が皆無になってきている。
利比古くんが振り返った。見慣れたハンサムな顔。見慣れているだなんて、言うまでもなく贅沢だ。
「そのコメントの意図はいったい何なんですか、あすかさん」
やんわりと問われる。
だけど、
「ただいま。利比古くん」
と、『言い返す』。
一瞬だけ彼は不意を打たれるけど、
「……おかえりなさい。あすかさん」
と、シッカリと、ハッキリと、挨拶を返してくれた。