【愛の◯◯】応えたいキモチが、確かに存在しているから。

 

スパーリングの音が響いてきた。ボクシング部の練習所の裏なのだから当然だ。スパーリングをBGMに、意味も無く、時折、スマートフォンの画面を確かめる。通知は何も無い。

秋晴れだった。上空に雲はほとんど無かった。空の色は水色過ぎるぐらい水色だった。風は微(かす)かに音を立てるだけ。怖いぐらいに天候は良かった。

こんなに天気が良いと、『彼』がここにやって来た瞬間に、まるで凍っていくかのように、背筋が冷たくなってしまうかもしれない。天気の良さが、わたしのカラダの温度とココロの温度を奪っていきそう。本当に怖い。

スマートフォンを再度見ようとする。画面ロックを解除するのに2回失敗してしまった。自分が自分でなくなっている自分が嫌になる。通知はやっぱり無い。誰からも連絡は来ていない。

通知の有る無しよりも大事なコトがあった。今の時刻が何時何分であるかというコトだ。もちろん、スマホは画面に時刻を示している。

『PM 4:59』

約束の時刻の1分前だった。約束の場所に、約束の時刻がやって来る。ココロの準備は中途半端。見切り発車でメールを送ってしまったのを後悔しても仕方が無い。だけど、あと数日間ぐらい、考える時間を設けても良かったのかもしれない。

土壇場になって、ココロの中でブツブツ言っている。ちっぽけなわたし。

スパーリングの音が大きく響く。わたしの全部を叩くように。

その音が鳴り止むと同時に、前方に、わたしがメールを送った男子生徒の姿が現れた。

 

× × ×

 

昇降口の下駄箱なんてモノはわたしの高校には無い。だから、メモ書きを下駄箱に入れておくだとか、そういうコトは不可能だ。スマートフォンという連絡手段を使うしか無かった。

LINEアプリではなくEメールを使った。敢えてEメールを使った。LINEのトーク画面だと、伝えたいコトはきっと伝えられない。そんな強い確信があって。

わたしの送信したメールに対して、

『いいよ』

という平仮名3文字だけが返ってきた。『いいよ』という3文字に、春園(はるぞの)センパイの色んなキモチが込められていると思った。

 

ボクシング部練習所裏。こんな所までセンパイを呼び寄せるまでには、沢山の出来事があった。

図書委員として一緒に書架整理(しょかせいり)をしていた時、わたしの身長では届かない所にセンパイが本を納めてくれた。

そういうふうに、センパイは頼もし過ぎるぐらい頼もし過ぎたから、感情が上手くコントロールできなくなって、取り乱して、ヒステリックな大声を出してしまった『事件』もあった。

『事件』の後で、メールアドレスが手に入った。連絡先がLINEアカウントだけではなくなった。センパイがメールアドレスを教えてくれた理由は、未だに判(わか)らない。

先月の文化祭1日目の朝に、センパイからEメールが送られてきた。長文だった。読みながら、ドッキリしたり、ビクビクしたり、ドキドキしたりした。

センパイと行動を共にしたのは2日目になってからだった。

『こういうコトができるのも、人生で、この日だけ』

そう思って、センパイと並んで文化祭の中を歩いている時、0.01秒もムダにしたくなかったから、余所見(よそみ)は一切しなかった。

 

× × ×

 

「もっと近付いた方が良いかな」

春園センパイは問い掛けてくる。確かに、距離は大分離れていた。

「お好きなように」

答えたけど、明瞭な発声ができなかった。届いているか、伝わっているか、疑わしい。

春園センパイが歩き出した。着実に距離を詰めてくる。雑草を踏む音が聞こえる。

センパイが立ち止まった。スパーリングの音が響かなくなっている。ボクシング部は休憩時間なのだろうか。

センパイは、わたしと眼を合わせているワケではなかった。わたしから見て左斜め下に目線が伸びている。大仰に眼を逸らしているワケではないけど、わたしを一直線に見据えているワケでもない。

センパイの左手がセンパイのほっぺた付近に向かって行く。人差し指だけで、ほっぺたをポリポリと掻く。掻くフリをするのではなくて、本当に掻いている。テンプレート的な照れ方。テンプレート的であるからこそ、わたしには意外だった。そもそも、彼が照れるのを見るなんて、これまでに無かったのだ。

見惚(みと)れるようにその仕草に見入っているわたしに、センパイは、

「……んーっと。こっちとしては、手短に済ませてほしいんだけど」

と言ってきた。

芯の強い声ではなかった。声に揺らぎが感じられた。

……慣れていないのかも。いや、「かもしれない」じゃない、慣れていないんだ。

何に慣れていないのか。

答えは明らか。辺鄙(へんぴ)な場所で、女子と2人きり。そんなシチュエーションにありがちなイベント。そういったイベント経験が、乏しい。そういった経験に慣れていない確率が、100%。

だけど。

センパイの『確率』が100%なら、わたしの『確率』は、200%を超えてしまうのであって。……誇張だけど、もちろん。

センパイの倍以上にビクビクドキドキしているのは当たり前。ズキズキと痛みすら感じている。どこに痛みを感じているのか? ……センパイからは、決して見えないトコロに。

静けさは持続している。ボクシング部が練習を再開してくれない。人生で初めてボクシング部を恨む。

恨むがあまり、練習所の壁に目線が向けられてしまっていた。

「貝沢(かいざわ)さん。……聴いてる?」

真面目な声でセンパイが問う。わたしは目線を戻す。センパイはほっぺたを掻くのをやめている。視線は最早逸れてはいない。視線がわたしに食い込んできているのを自覚した途端、バクバク心臓が高鳴った。

『ごめんなさい』と言うべきなのに、言えない。

「て、て、『てみじか』……でしたよねっ。そ、そ、それはつまりっ、てみじかに『おわらせたい』、と」

史上最悪の声の弱さで、わたしは受け答えする。

「あのね。貝沢さん」

決然さを帯びた声で、

「ある程度は、分かってしまってるんだよ。おれときみのこれまでの経緯(いきさつ)的に。きみが今この場で取ろうとしてる行動、きっとおれは言い当てられる。……いや、行動、というよりは、きみが『言おうとしている』コト、か」

感情が死にそうになる。でも、懸命に踏みとどまる。

「……言える? この場で。おれとしては、言ってくれた方が、救われる。先生が『もう下校しろよー』と言ってくる前に、言ってほしい。お互いのために、先に延ばさない方が良い、絶対に」

センパイの伝えてくるコトバを、頭の中で上手く言い換えられない。そんなの無理。言い換えるなんて無理。

だけど、理解なら、できる。頭で理解するだけではなく、肌でも理解する。

「頼む。催促されるのは、当然つらいだろうけど」

そう言って強く請(こ)い願うセンパイ。

わたしの中で、決心が盛り上がっていく。今までになく、わたしの『中身』が混乱している。それは確かな事実。でも、センパイの意思は受け止められている。彼の願いや思いに応えたいというキモチが、確かに存在している。

深呼吸を沢山繰り返さないと、言えない。だから、吸って吐いて、吸って吐いて、言う準備が整うまで、ひたすら吸って吐いて。

大げさ過ぎる深呼吸だったけど、必要だった。

わたしは自然と自分の胸を押さえている。

押さえながら。

「センパイ。春園センパイ。わたしが伝えたいのは、たった1つです。たった1つしかない、キモチです」