「利比古。まだ訊いてなかったんだけど、昨日、葉山先輩にどんな曲を弾いてもらったの?」
ぼくは素直に、
「ボサノヴァとか」
と答える。
すると姉は、
「ボサノヴァ!? あんたがボサノヴァ知ってるなんて、寝耳に水の初耳だわ」
そんなに眼を見張らなくても。
「いったいどんな趣味嗜好の変化が……」
「お姉ちゃん」
「……何よ?」
「ぼくは、お姉ちゃんが思ってるより、勉強家なんだよ」
「どどどーゆーいみかな」
「ぼくなりに勉強して、聴く音楽の幅も拡げてるんだ」
姉は、ぼくをジッと見ながら、ジッと沈黙。
約1分後、3杯目の食後コーヒーをぐーっと飲み、それから、
「葉山先輩の演奏、良かったでしょ」
「うん、もちろん。ボサノヴァも上手に弾けるんだもんなあ。守備範囲が広いよね」
「わたしだって、葉山先輩と同じくらい、ピアノの守備範囲は広いのよ?」
どうして張り合うかなぁ。
「どれくらい広いの? 守備範囲」
とりあえず、訊いてみた。
姉は答える。
「ハマスタで、ライトの守備範囲とセンターの守備範囲を、まとめてカバーできるくらい」
いや、それはちょっと分かりにくいよね。
隙(すき)あらば横浜DeNAベイスターズとか横浜スタジアムとかを喩(たと)えに使う姉。
× × ×
夕食後なのだ。
食後コーヒーの3杯目を姉は飲み干そうとしている。居座ろうとする気配に満ちている。お店にあんまり迷惑かけない方が良いと思うんですけど。
「あんたもコーヒーお代わりしたら? 無料でお代わりできるんだから」
「飲み過ぎちゃうと、寝付けなくなるから」
「エーッ信じられない」
オーバーリアクション気味に姉は、
「わたし、夜にコーヒーを飲んでも、寝付けなかったコトなんてないわよ?」
「あのね。お姉ちゃんは例外的な体質なんだよ。普通は、この時間帯にコーヒーを3杯も飲んだら、カフェインのせいで眼が冴えたりして、入眠の妨げになるの」
イジワル混じりの美人顔で、
「それ、エビデンスあるの?」
と言ってくる姉。
めんどくさいなぁ。
「とにかく、カフェイン耐性の違いを、お姉ちゃんは認めるべきだと思うな。人によって耐性は違うんだ。みんながみんな、お姉ちゃんみたいにカフェインに強いワケじゃない」
「お説教モード〜〜」
おフザケが過ぎるなぁ。
幾らぼくが実の弟だからって、遊び道具みたいにするのは、良くないと思うよ??
「あ。今の利比古、姉に反発する弟の顔だ」
ぐっ……。
「嬉しい嬉しい。反発してお説教するぐらいの元気が、『ようやく』出てきたんだもの」
……えっ。
「昨日葉山先輩が来てくれたのも、功を奏したみたいね。これまで、落ち込んでいたあんたを元気づけるために、アカちゃんやさやかが、お邸(やしき)に来てくれてた。葉山先輩は、『利比古を元気にしてあげたい女子の会』からの、3人目の派遣メンバーだった」
あのぉ。
なんでしょーか……『利比古を元気にしてあげたい女子の会』って。NPOでも作るつもりなんですかね?
「どうしてそんなに不審げな眼つきになるかな」
なるよ。なりますよ、お姉ちゃん。
「4人目の派遣メンバーが誰になるのか……乞うご期待」
次回予告みたいに言うのも……BADだと思うんですが。
× × ×
夜の公園を歩いている。
なかなか涼しくならなかったが、ようやく秋という季節がやって来てくれたと言えるかもしれない。微妙な季節の変わり目の中で、『ちいさい秋』を見つけていきたいモノだ。
当然、隣には姉がいる。ぼくの右横で、ピッタリ歩幅を合わせている。
「ねぇねぇねぇ」
涼やかに澄んだ姉の声が聞こえる。ぼくは、次に言うコトバを、ある程度予測できる。
「人もあまり見かけないし、少しぐらいスキンシップしても良いわよね?」
「モノによる。お姉ちゃんの『少しぐらい』は、アテにならない」
「なによそれ〜」
「極端なのは、やめてよね。抱きついてくるとか」
「手を握るのは?」
「まぁ、それならば、許容範囲」
即座に、姉の左手が、ぼくの右手に触れる。握り締めるコト無く、柔らかな触り方を持続させる。柔らかく繊細な感触がぼくの右手に留まる。
少し恥じらいの混じる声で、
「手を繋いで歩いたら、デート同然よね。知らない人が見たら、わたしたちを、彼女彼氏だと認識しちゃうかもしれない」
「そんなコト言うものでもないよ、お姉ちゃん。姉弟は姉弟なんだから」
「叱るのならば、もっとちゃんとした根拠を言いなさい?」
「なに、それ」
「わたし、あんたが思ってるよりも、30倍論理的なオンナなんだから☆」
「……盛り過ぎだから、30倍は」
溜め息をつきたくなってくる。これだから、姉が起こす茶番は……。
「あんたゼッタイ溜め息つきたくなってきてるでしょ」
「きてるよっ」
少し反発してみると、ギュッという感触が右手に生じた。姉に右手を握られ、イニシアティブも完全に握られる。
「訊きたいコトがまだ山ほどあるわ。全部答えてくれるまで、握った手を離さない」
「……帰さないつもり??」
「全部答えてくれたら、帰してあげる。答えてくれなかったなら……」
「……どうするつもりなんだよ」
「夜中まで開いてるカフェにあなたを連れ込む」
困った姉だなぁ。
どうしても弟を振り回し続けたいみたいだ。
気持ちは分かるんだけど、抵抗権はあるんだから。
その抵抗権を行使したかったから、いささか強引に、立ち止まってみる。
照明灯が姉の美しい顔を輝かせる。
輝かしい姉の顔を、そっと見つめてみる。
見つめられたから、姉は少し戸惑い、輝かしい顔に幼さが兆す。
15歳の頃に時間が巻き戻ったみたいに、動揺し、視線の角度が下がる。
「やれやれ」
呟くようにぼくは言う。
掌握したはずのイニシアティブを奪われて、姉は、上手な喋り方を忘れてしまう。
「としひこ……おどろいちゃうじゃないの、ビックリしちゃうじゃないの。せっかく、いろいろしつもんしよーとおもってたのに……わたしがよういしてたクエスチョン、ほとんどわすれちゃったじゃないのよっ。こ……これは、せきにんモンダイだとおもうわっ、そ、そう、あんたのせきにんなんであって、せきにんであるから……あるからには……」