読んでいた単語集をぱしん♫ と閉じる。
右斜め前に座っていた利比古くんが思わず顔を上げる。
「あ。利比古くんがタブレット端末から顔を上げてくれた」
わたしは、
「嬉しいわ」
と言って笑顔。
ハンサムな年下の男の子は、ややドギマギ。
畳み掛けるように、
「ねーねー。わたしが読んでるこの単語集、どう思う?」
と言い、単語集の表紙を彼に見せてみる。
彼は困惑しつつ、わたしの単語集の表紙に視線を送り、
「『上級編』と書かれているので……かなり高度な単語が載ってるんでしょうね。ぼくでも見たコトの無いような」
帰国子女の利比古くんでも知らない単語かぁ。そんな単語が載ってるのかな、この単語集に。
彼よりも4つ年上であるがゆえに、すぐイジワルがしたくなっちゃって、
「読んでみて、確かめてみる?」
と言い、身を乗り出し、距離感を少なくしていく。
テーブル上に単語集を置き、彼も手に取れるようにする。
でも、彼は恥じらって、
「……遠慮しておきます。葉山さんの単語集なんですから」
「あらぁ」
身を乗り出し気味なままに、わたしは、
「消極的ね。消極的にさせちゃう出来事でもあったのかしら?」
と、揺さぶり混じりのコトバを投げ掛ける。
利比古くんの恥じらいレベルが上昇。
わたしは、苦笑混じりの微笑みで、テーブル上から単語集を取り除き、
「あのね。わたし京都大学受けるつもりだから、高度な単語集や参考書を使わないといけないの」
利比古くんは斜め下目線で、
「受けるのは、今年度の入試ですか?」
「いいえ、たぶん来年度ね。なぜ来年度にするのか、理由を知りたい?」
彼は、少し考えるような仕草をしてから、ふるふると弱めに首を横に振る。
× × ×
「――気付かないか。」
わたしの呟きのようなコトバが耳に届いたらしく、タブレット端末の世界に戻っていた利比古くんが、再び顔を上げる。
「気付かないって、どういう」
「わたしの見た目に関するコトなんだけど」
「ハイ」
「いつもとは一味違う点があるのに気付かない? ヒントは、上半身」
控えめな目線でわたしの顔のあたりを見てきてくれる利比古くん。控えめだけど、視線を送ってきてくれる。偉いわ。偉い偉い。
15秒間の沈黙のあと、明らかに『何か』に気付いたと思われる表情になり、それから、
「ポニーテール、ですか?」
「あたり〜〜♫」
わざとらしく、自分のポニーテールに右手で触れて、
「利比古くん相手にポニーテールになるのって、凄く久々だと思うの。今日は、ちょうどポニーテールな気分で」
「……何ですか? ポニーテールな気分……とは」
「男の子には分からない気分よ」
「は、葉山さんっ」
「敢えて説明するのならば」
両手をロングスカートに置き、利比古くんの顔の状態を確かめてから、
「弱気になってるみたいだから、元気付けてあげたくって。だから、ポニーテールにしたの」
利比古くんが説明を呑み込めない様子だったから、
「今日のお邸(やしき)訪問は、あなたの元気度チェックも兼ねてたのよ」
と、訪問のタネ明かしをする。
そしてそれから、
「いろんな子から、あなたの調子がイマイチに見えるって、聞かされていたの。……誰だって、調子に波はある。わたし、浮き沈みが激しいタイプだって自覚してるから、沈み込んでる人の内面を理解するのには自信がある」
と言って、彼に向かい、しっとりとした目線を送り届けて、
「沈み込んでるのが、男の子であったとしても……ね」
× × ×
黙り込んでしまった利比古くん。口を開ける気配が無い。
いろいろ思うトコロもあるのだろう。わたしがわたしの『お気持ち』を述べた直後は、かなりの動揺を見せていたが、やがて内省的な沈黙に入り込んでいってしまった。
わたしは軽く優しく、
「具体的に話さなくても良いのよ。調子イマイチになっちゃった背景よりも、現在(いま)の状態が知りたいの。どんな時に、キモチの落ち込みを実感する?」
彼はさらに視線を下げて考えるけど、ようやく口を開いて、
「ウィキペディアを読むモチベーションが……下がってしまってるんです」
へえぇ。
「ぼく、2時間なら余裕なんです。何が余裕かって言うと、休み無くウィキペディアの文章を読み続けるのが。だけど、ここ1か月、ウィキペディアを一度に読めるのが、1時間未満になってしまっていて」
へぇーっ。
「あなたがどうしてそんなにウィキペディアに執着するのかは、あまり理解できないんだけど」
と言ってから、わたしは、
「好きなコトをするモチベーションが、下がってる。それならば、気分をリフレッシュさせる必要があると思うわ」
と言って、『とある方角』にカラダの向きを転じていく。
「……葉山さん? どうして、そんな方向にカラダを向けたんですか」
「グランドピアノのあるお部屋の方向にカラダを向けたってだけよ」
「グランドピアノ……あっ」
わたしの意思に気付いてくれたみたいで、
「弾きたいんですか? もしかして」
と訊いてきてくれる。
グランドピアノ方面を見続けながら、
「気分のリフレッシュが必要なんじゃないかって言ったでしょ?」
と言い、それから、年下の男の子のハンサムフェイスに眼を転じて、
「あなたがモチベーションを取り戻せるような音楽を弾いてあげるわ」
と告げる。
すこぶるハンサムな年下の男の子の姿勢がカタくなる。
ダメよー、利比古くん。緊張する必要なんか無いでしょー? もっとリラックスしなさいよー。
気持ち良くなるような音楽を弾いてあげるんだからっ。
あなたって、わたしの前だと、カタくなっちゃう時が多いのよね、比較的。
もっともっとココロを開いて欲しいわ。
なんてたって、あなたは、羽田愛さんの実の弟なんだから。
わたしの最愛の後輩女子たる羽田愛さんの、弟。
もっともっとココロを開いてくれたなら……わたしにとって、もっともっと魅力的な年下の男の子になってくれる。