【愛の◯◯】手のひらのチカラを和らげて

 

ひっそりとした広大なリビングで利比古くんと向かい合っている。利比古くんと明日美子さん以外のお邸(やしき)メンバーは全員お外に出ている。そして明日美子さんは例によって自分の寝室でお昼寝を満喫されているので、しばらくはこのリビングで利比古くんとのふたりきりが続く。

利比古くんと1対1になれる時間帯を選んでお邸を訪ねたのだった。「訪ねた」というよりも「派遣された」という方がより正しいかもしれない。この訪問は愛ちゃんの要請によるモノだったのだ。利比古くんの状態が気がかりだから、様子を見てあげて、できれば慰めてほしい。

8月最終日辺りから、利比古くんがおかしくなり始めている。ご飯を誰よりも早く食べ終えてダイニングから脱出し、2階の自分の部屋に引きこもり、しばらく出てこない。これがパターン化しているみたいだった。あすかちゃんがドアを15回連打して部屋入り口におびき寄せるコトに成功したけど、出てきた彼が青白い顔になっていたから一瞬コトバを失ってしまった……そんなコトもあったという。

階下(した)のリビングに来たら来たで、タブレット端末も操作せずにCM雑誌も読まずに、ぼんやりと天井を見つめていたりする。リビングで自分のコトに没頭できない利比古くんは、まるで自分自身をすっかり見失っているみたいだった……これも、あすかちゃんからの報告。

あすかちゃんからの報告を愛ちゃんが取り次いで、彼の状態を少しでも上向きにさせるのに貢献できそうな人物に、お邸に出向いてもらうようにお願いするコトに決めた。そしてその指名第1弾が、わたしだったというワケである。

どうやら、とある「出来事」が、尾を引いているみたい。

 

さて、現在の利比古くんの様子だけれど、ヒトコトで言うならば、「沈んでいる」。

ずーんずーん、というネガティブな擬音が聞こえてきそうだった。向かい側のソファにわたしが腰を落ち着けてから、真下しか見ていないのだ。わたしの顔を見て受け答えしてくれない。しかも、猫背。端正な顔立ちを見せてくれないのも残念だし、猫背の姿勢がまったく似合っていないのも残念だ。

「利比古くん。少しで良いから、背筋を伸ばしてくれないかしら?」

要求に少しだけ応えてくれた利比古くんが、少しだけ背筋を伸ばす。

「眼と眼を合わせて話してよ……なんて、わたしは言わないけれど、ずっと床にしか眼を向けてないから、どうしても気になってしまうわ」

そう言ったら、少しだけ顔の角度を上げてくれた。

少しだけ顔が上向きになったのは嬉しいけれど、彼の両眼は閉じられてしまう。

「つらそうね。何か重いモノがのしかかってる感じがするわ」

「……アカ子さん」

「なあに」

「重いモノに押さえつけられてて……すみません」

奇妙な謝り方。

謝り方の奇妙さがわたしの笑いのツボをくすぐるから、思わず笑い声を漏らしてしまう。

「な、なぜ、アカ子さんは、笑っちゃうんですか」

慌てている彼の眼は見開かれていた。顔の角度をかなり上げてくれたから、わたしは嬉しい。

わたしの中で面白さが急速に加速していく。加速する面白さが、年下の男の子を可愛がりたいというキモチに結びつく。どういうふうに可愛がるのか。方法は幾つもあるんだけれども、

「今のあなた自身を拘束してるモノを、漢字3文字で言い表してあげるわ?」

「こう……そく……」

「そうよ、拘束よ」

余裕たっぷりの視線を彼の前髪付近にそそぐ。

それから、

「罪悪感」

と言って、

「漢字3文字で、罪悪感。罪悪感でがんじがらめ状態なんでしょう」

驚く利比古くん。胸を撃ち抜かれたかのような衝撃が襲って来たみたい。無言状態からしばらく脱却できない。

わたしはジーッと見守るのが務め。

ひたすら見守っていたら、彼が弱々しく息を吸うのが眼に映った。

「どうして……わかるんですか……。アカ子さん」

泣きそうな声が聞こえてきた。

優しさを込めた苦笑でもってわたしは、

「直感で判ったワケじゃないのよ。情報を前もってインプットしてたの。あなたが罪悪感に打ちひしがれるような出来事があったって、聞かされていて」

たまらずに口を閉じる利比古くん。口元に余分なチカラが入っている。

「あなたの傷口を広げないために、出来事の中身には触れないでおくわ」

姿勢を引き締めて、利比古くんの眼をちゃんと見て、

「傷口を広げるよりも、傷口を手当てしてあげるのが、わたしの務め」

と言い、

「あなたもハタチになったんだし、傷口を『アルコール消毒』するって案も、頭に浮かびはしたんだけれど。やっぱりアルコール消毒は過激過ぎるから、思い直して」

と言う。

間を置かずに、ソファから腰を浮かせる。

いきなり立ち上がったわたしを見てビックリの利比古くん。ビックリと引き換えに、ついに目線が上向きになる。

158センチのわたしよりも彼は10センチ高い。でも彼の方は座っているから、完璧なる見下ろし体勢。

スリッパの音を立てないようにして彼のソファに歩み寄った。彼から見て左斜め前に立ち止まった。可愛がりたいキモチのメーターがどんどん上昇した。

「……どうして、ぼくの、間近に?」

かすかな怯えすらも利比古くんには見受けられるんだけれど、構いもせずに、

「傷口の癒やし方を教えてくれたヒトが居て。それが誰かと言うと、あなたのお姉さんの恋人。愛ちゃんの恋人、すなわち、アツマさん」

口を半開きにして凝視してくる利比古くん。唖然となるのも当たり前。

当然の成り行きの唖然も、今は可愛かった。

わたしはわたしの右手をゆっくりと上げていく。手のひらのチカラを和らげる。和らげた右手を彼に向かって伸ばす。

伸ばすのは、どこに?

――彼の頭頂部に。

お姉さん譲りの栗色も混じっている髪だけれど、お姉さんほどには栗色に染まってはいない。そんな彼の髪を楽しみ、ハンサムだけどヘルプが必要な彼の顔も楽しみながら――頭頂部の真ん中に、右の手のひらをぽしゅり、と置いた。