とっても美味しかった。おねーさんと利比古くんの姉弟(きょうだい)のお母さんである心(こころ)さんが作ってくれた料理だった。おねーさんに料理を教えた女性(ひと)なんだから、美味しいのは当たり前なんだけどね。
食器の全部片されたダイニングテーブルで心さん&守(まもる)さん夫妻と向き合っている。わたしの正面に心さんが座っていて、わたしの右斜め前に守さんが座っている。
羽田夫妻とこうやって向き合うと緊張しちゃうな……と思って少しカラダが硬くなっていたところに、
「あすかちゃん、お酒飲む?」
と真正面から心さんの声。
いきなり「お酒」というワードが出たのでビックリした。俯き気味だった顔が自然と上昇した。心さんがニコニコと笑っている。守さんもニコニコと笑っている。
「お酒は……まだ早いかな、って」
わたしはヘンテコな応答をしてしまう。
「あすかちゃん21歳じゃないの」
そう言う心さんは満面のニコニコ顔だ。
「邸(あっち)では利比古と飲んだりはしないのかい?」
心さんと同じくらいニコニコ顔な守さんが訊いてきた。
「彼と一緒に飲むのは……まだ早いかも。彼はハタチになったばかりですし」
すかさず、
「いいじゃないのよぉ、ハタチになって合法なんだから、積極的に飲ませたって。あの子にお酒の味を教えてあげてよぉ」
と心さんから……。
「強制は……良くないかと」
夫妻の勢いに押されながらも言うが、
「強制するぐらいがちょうどいいのよ」
と、心さんの勢いは止まらない。
「あ、あの、わたしそろそろお風呂に入りたいかなーって」
逃げようとしてしまうわたしに、
「エッ、夜は長いのに」
と、心さんは容赦が無い。
「おっおふたりは、明日の朝出勤しないといけないのではっ」
「そうだな。その通りだ。あすかちゃんは真面目で素晴らしいな。真面目がいちばんだ、真面目が」
今度は守さんが言ってきた。なんでわたしの真面目を褒め称えるんだろう。
「あすかちゃんをゆっくり休ませてあげよう。酒盛りはまた次の機会だ」
そう言って守さんは心さんに目線を送る。
「あなたが言うなら仕方ないわね。楽しみをお腹の中にしまっておくわ」
機嫌を損ねることなく心さんは守さんに従って引き下がる。
……「お腹の中」?
× × ×
心さんが苦手なわけではない。『せっかく泊まりに来てくれたんだし、わたしと一緒に寝てみない?』みたいに言われると辛くなるけど。さっき寝室に向かって階段を上がろうとした時もそんな風なことを言われてしまった。
ベッドに腰掛けて溜め息をつく。充電ケーブルをコンセントに差し込み、スマートフォンを接続する。照明を消し、ゴロッと横になる。
暗い天井を眺め続けても仕方ないので、眼を閉じてココロの中で好きなロックバンドを挙げていく。羊を数える代わりだ。いつもと違うベッドだけど、こういう風にすれば寝入ることができると思った。
しかし、邦楽洋楽問わず幾らロックバンドの名前を挙げても、眠気はなかなかやって来なかった。
ちょっとマズい。眠れないまま夜が更ける危険がある。
もちろんもちろん、心さんにこの寝室に来てもらったりなんかしない。恥ずかし過ぎる。ヘタに階段を下りたりしたら彼女に見つかって『寝れないの? わたしがやっぱり居てあげた方がいいみたいね』と言われかねない。わたしはここから動けない。
いったん立ち上がって部屋を明るくして睡魔を待つべきか……。
本棚には羽田夫妻の所有物の本が多くはないけど並べられている。それに眼を通していたら自然と睡魔がやって来るかもしれない。
だけど、読書という気には全然なれなかった。羽田夫妻と、特に心さんと渡り合ったがゆえのくたびれがあって、そのくたびれはわたしを知的活動へと向かわせない類(たぐい)のくたびれだった。
だったら、音楽?
充電中のスマートフォンが枕元にある。好きな楽曲が大量に詰め込まれている。
ただ、詰め込まれているのは騒がしい音楽ばかりで、安眠を誘(いざな)うのとは完全に反対の性質のモノだった。
わたしを睡眠に誘導してくれるモノに乏しい。だんだん途方に暮れてきてしまう。
暗い天井を睨みながら考えに考えた。
考えに考えた末、1つの手段を実行してみようという気になった。まさに最終手段という感じだったけど、やってみるしかなかった。
充電ケーブルを繋いだままスマートフォンを掴む。電話帳を開く。『おねーさん』というひらがな5文字をタップする寸前になる。
おねーさんに電話をかけて、おねーさんの声を聴く。そうすれば、安心して眠りにつけると思ったのだ。
でも。
『おねーさん』の5文字をタップする寸前でわたしに迷いが兆し始めた。
自分でもよく分からない迷いだった。
わたしの兄とマンションのお部屋でラブラブなところを邪魔してはいけない。そんな思いから来る迷い、ではなかった。
おねーさんの他に、声を聴くことで眠りの世界に誘(いざな)ってくれる人物がいるのでは? ……そういう思いが立ちのぼり、おねーさんへの通話をためらわせた。
以前だったら、こういうシチュエーションになってしまった時、おねーさんに頼ることしか考えていなかった。
今は違う。違うのだ。おねーさんの他にも『そんな存在』がいる。
その存在は日増しに大きくなっていて、存在の膨らみをわたしは上手く制御できないでいる。
「できない」理由は、性別が同じではないから。
気付けば、スマホ画面をスクロールしていた。トクトクトク、と鼓動が速まる。
『利比古くん』
その名前までスクロールして、手を止める。
わたしの指がふるふる震え始める。