麻井律(あさい りつ)ちゃんの異変は甲斐田(かいだ)しぐれちゃんから知らされた。この前の日曜にしぐれちゃんから電話がかかってきて、りっちゃんの現在の状態を伝えられた。わたしは即座に、りっちゃんを全力でヘルプしてあげようと決意した。
りっちゃんの異変にはわたしの弟の利比古が絡んでいた。姉のわたしも間接的な当事者であると言えるかもしれない。経緯をしぐれちゃんから聞かされて、りっちゃんにとって利比古が如何に大きな存在であったのかを再認識した。
経緯を手短にまとめてみる。
8月終わりに、りっちゃんは利比古とふたりきりで湘南地方まで出かけた。単なるデートという訳ではなかった。りっちゃんには決意と覚悟があった。そして、自覚もあった。自覚というのは、『これが最後のデートになる』という自覚……。
目的を伏せて江ノ島近辺まで来た。ふたりで8月終わりの浜辺を歩きつつ、いちばん大事なコトを言うタイミングを探っていた。決意と覚悟をみなぎらせて、利比古と向かい合い、それから……『利比古から身を引く』と、波打ち際の近くで、宣言した。
利比古をあきらめると利比古に告げた当日までは持ち堪えられた。最高に微妙な空気のまま利比古と乗車した帰りの電車内でも落ち着きをキープできていた。帰宅してからも家族に対して平静さを保ち続けられた。
でも、翌日の朝起きた瞬間から、『気持ち』が洪水のようにドバッと溢れ出してきてしまった。利比古を手放したショック。利比古を手放した悲しみ。四六時中どんなコトをしていても、絶望感とイコールと言っても良い重くて痛い感情が、彼女を絶え間なく包み込んできた。
これまで経験したコトの無かった悲しみが常に充満していた。自分から身を引いたとはいえ、失恋以外の何物でも無かった。生活の全てが悲しみに浸り始めた。
ついに、家族4人が揃って夕ご飯を食べている時に、お茶碗を持ったままボロボロと泣き出してしまった。食事中の号泣は一度や二度で終わるコトが無かった。次の日の朝ご飯の時も昼ご飯の時も、涙を流すのをガマンできなかった。テーブルが自分の涙で濡れた。びしょ濡れになる勢いで涙がどんどん出てきた。
とんでもない異変に、りっちゃんのご両親とお兄さんは困惑し、りっちゃんのお母さんが、りっちゃんの唯一無二の親友であるしぐれちゃんの家に電話をかけた。麻井家と甲斐田家の間で話し合い、りっちゃんを甲斐田家に行かせて慰めるコトに決めた。
そして、しぐれちゃんに要望されて、わたしも甲斐田家に向かい、りっちゃんのケアをするコトになったのであった。
× × ×
たくさん必要になるかもしれないと思ったから、衣類を多めに入れた荷物を携えて、甲斐田家へと向かった。
まず、りっちゃんの様子を確かめたかった。玄関で、しぐれちゃんから、今の彼女のコンディションを教えられた。リビングに居るというので急行した。彼女は大型液晶テレビの前のソファにポツンと座っていた。わたしが挨拶した瞬間に立ち上がり、まっすぐに歩み寄ってきた。わたしがギュッとしてあげるよりも早く、わたしの上半身に顔を埋めてきた。着ている服がまたたく間に濡れた。
服が乾くのを待ってからダイニング・キッチンに入った。しぐれちゃんのお母さんが立っていた。しぐれちゃんのお母さんもりっちゃんに泣きつかれて、着替えざるを得ないぐらい上着がビショビショになってしまったという。
りっちゃんの深刻さを覚(さと)ったのでマジメな気持ちになり、りっちゃんを救うコトに意識を集中させた。まずはお料理だった。あらかじめインプットしてきた献立をしぐれちゃんのお母さんに伝えた。献立について軽く打ち合わせた後で、冷蔵庫を見させてもらい、調理法を瞬時に確定させた。
しぐれちゃんのお父さんも帰ってきて、計5名で夕食のテーブルを囲んだ。大泣きした痕跡が生々しく目元に残っているりっちゃんだったが、わたしの作った鶏の照り焼きを一口食べたら、表情が次第に和らいでいった。
× × ×
4人でりっちゃんに寄り添ってあげながら、民放テレビのくだらないバラエティ番組を視ていた。番組のくだらない笑いがりっちゃんのツボにはまったらしく、彼女の笑い声をこの日初めてわたしたちは耳にするコトができた。涙も流れていたけど、その涙にはポジティブな意味も含まれていた。
× × ×
22時を過ぎようとしていた。2階のしぐれちゃんルームに女子3人で入っていた。わたしもしぐれちゃんもりっちゃんもパジャマ姿になっていた。夜更かしがフィジカル以上にメンタルに悪いのをみんなが認識していた。
だから、
「早めにベッドに入ろうね、りっちゃん」
と、至近距離で、わたしは優しく促した。
りっちゃんは眼を泳がせながら、
「んっと……。アタシ、ベッドじゃなくって、床に布団敷いて寝るのでも良いし……。愛さんと甲斐田が、ベッドで寝なよ? ……アタシ、迷惑、かけっぱなしだから。だ、だから、だからっ、ベッドで寝る、権利なんて……アタシには、アタシにはっ」
「なにゆーのよ、りっちゃん。あなたが床の布団で寝るのだけは、許可できないわ」
「えっ……。」
優しい声のわたしの不許可によってりっちゃんが呆然となった。
「私も、今の麻井を、床の布団に寝かせたりできない」
しぐれちゃんが完全にわたしに同調する。りっちゃんの顔には呆然と困惑が混ざり合う。
わたしは、ベッドに眼を向けつつ、
「3人で寝られないコトも無いわよね? それぞれの体格的に」
驚きを増すりっちゃんを横目に、しぐれちゃんが、
「ギリギリなんだけどね。麻井がちっちゃいのが功を奏して、3人すっぽり収まりそう」
りっちゃんは身長140センチ台の小柄な女の子だ。
しぐれちゃんは168センチ。わたしは160.5センチ。流石にりっちゃんの小ささには負けるけど、ふたりとも細身である。りっちゃんを両サイドから挟み込んでベッドに横になるのも十分に可能だと思えた。
りっちゃんは首をふるふる横に振ってしまう。小さなカラダがさらに縮んでいくみたい。
「3人は、イヤなの?」
小学校低学年の女の子に語りかけるように、わたしは訊く。
「たしかに、3人、ベッドに入るとは、思う……。だけど、そこまでされちゃうと、かえって眠れなくなりそうで……。あ、アンタたちのキモチは、わかってるんだよ、アタシ? わかってる……わかってるんだけど……」
弱く、悩ましく、
「……ゴメンナサイ、ベッドで添い寝してもらうのは、1人の方が良いです」
どうして敬語になるかなー。
可愛いから良いんだけど。
「じゃ、私か愛さんかのどっちかだね。麻井、添い寝のパートナーを選ぶのは、あんただよ?」
しぐれちゃんのコトバに呼応するように、何故か背筋を伸ばしつつ、しぐれちゃんとわたしの顔を見比べる。
迷っているみたい。二者択一の結論がなかなか出せない様子。
この状態も可愛いんだけど、
「直感で良いのよ」
と、わたしの方から促してみる。
それから、
「わたしとしぐれちゃんのどっちを、あなたの『お母さん』にしたいのか」
というコトバを付け加える。
「おかあさん!?」
大きな驚きの声が、りっちゃんから。
「そうよ、お母さんよ。現在(いま)、この家には、あなたのお母さん候補が3人存在してる。しぐれちゃんのお母さんと、しぐれちゃんと、わたし」
唖然呆然のりっちゃんのほっぺたが紅く染まりかけていた。
「この部屋で寝るのは、りっちゃんとしぐれちゃんとわたしだから、今夜のお母さん候補は、しぐれちゃんとわたしに絞られる」
ニッコリとして、わたしは、
「どっちの方に甘えたいのか。どっちの方にスキンシップがしたいのか。直感で決めてちょうだいよ」
ぶわっ、と顔面から熱を出して、
「ちょ、ちょ、直感だなんて。それに、アタシ、ベッドの上でスキンシップするつもりなんて」
と焦り気味に言うりっちゃん、だったんだが、
「麻井」
と、しぐれちゃんが、優しく優しく呼びかけて、
「隠せてないよ、寄り掛かりたくてベッタリしたいって欲求が」
しどろもどろなりっちゃんは、
「そんな……欲求……別に」
と、しぐれちゃんから眼を逸らすものの、
「ほら、そーゆー言い方が、隠せてない証拠! 麻井、あんた、お腹の底から、『寄り掛かってベッタリしたいですよ欲求』が出てきてるんじゃないの」
「……意味の、分かんないコトは、あんまし……言わないで、甲斐田」
「しょーがない大親友だ」
「か、甲斐田っ!」
「私か、愛さんか。いつまでも寄り添いのパートナーを決められないんなら、強制的に、3人で寝るコトにするよ?」
「そそそそれはヤダっ!! わかったよ、決めるからっ!! ――甲斐田にするっ!! 愛さんには、お盆のお泊まりの時、甘えたばかりだから……!」
笑いを堪え切れそうにないわたし。
愉しさと、喜び。そしてもちろん、優しく見守ってあげるキモチ。
たくさんのキモチでもって、りっちゃんの御様子を、眺め続ける。