「CM研」サークル室。タブレット端末でウィキペディアを読んでいた。
小柄な女子学生が眼の前にいきなりヒョコッと現われた。吉田奈菜(よしだ なな)さんだ。ぼくよりも1学年上の3年女子。
一体全体何がしたいんだろう。そう思ってしまう。
「神出鬼没の如くヒョコッと現われるのも程々にしてください」
呆れながら言ってみる。視線はウィキペディアに据えたまま。
「羽田くんヒドすぎない!? 上級生を叱るなんて」
ヒドすぎではありませんから。
「年上女子に対するリスペクトが足りないよ。ウィキペディアなんかに夢中過ぎてあたしの顔を全く見てくれてないし」
うるさいですねぇ……!
「ちょっと!! ウィキペディアを凝視したままイライラしないで」
見抜かれたイライラ。
タブレット端末を机上に置く。右腕で頬杖をつく。吉田さんに仕方無く視線を伸ばしてあげる。
「やればできるんじゃない。それでこそ『CM研』が誇るハンサム2年生よ」
なにそれ。
「吉田さぁーん。何か用事があるんですよね? ぼくの眼の前にいきなり出現したからには」
「用事は無いよ」
「はい!?」
「意見が欲しいってだけ」
「意見!?」
「大げさな声を出すのはやめて」
「……」
彼女は彼女の髪をサラリと撫でる。
「今日のあたし『3割増し』でオトナっぽいと思わない? 羽田くんはどう感じる? あたしが昨日のあたしよりもどこまでオトナか。その意見が欲しいのよ」
『何の変化も感じられない』というのが率直な意見だ。
だから、
「昨日と今日であなたに変化は無いと思います。『3割増し』だとか言うのは理解できません」
「ちょっとちょっと何よそれ冷た過ぎるでしょっ。クール宅急便で送られてきたばっかりの品物みたいな冷たさ。ハッキリ言って冷酷よ」
過剰に身を乗り出してくる吉田さん。
「今日のリボンをよく見てよ。緑と白の2色なのはいつもと変わんない。でも、長さがいつもより1.5倍なのよ!? どう!? リボンの長さが違うだけでオトナっぽさ『3割増し』。これは疑い得ないわよ。たとえ羽田くんが何と言おうと――」
× × ×
背中に疲労を強く感じながら邸(いえ)に帰った。
諸般の事情で最近とってもくたびれている。慢性的なくたびれに「CM研」での疲労が加わる。まるで背中に重石(おもし)がのしかかっているかのようだ。
ズ~~ンという擬音すら出てきそうな重い気持ちでリビングに入る。リビングが幾つも存在する邸(いえ)。その中でも最も広大なリビングに入った。
ずっと下向きだったぼくの目線が上がる。昨日から邸(ここ)に泊まっていたさやかさんがソファでくつろいでいたからだ。
彼女はまだ帰らないらしい。まだ邸(ここ)に居たいらしい。居心地が良いのは分かる。でも、
「もう夕ご飯時(どき)ですよ。お家(うち)に帰らなくても良いんですか?」
「ん~~」
ソファに柔らかに背中をくっつけるさやかさん。
「夕ご飯もここで食べたいかも。食べたら眠くなっちゃうかも。眠くなったらもう一晩泊まっちゃうかも」
……吉田さんに負けず劣らずだ。さやかさんもなりふり構わない。
「そんなにこの空間に甘えるなんて。さやかさんはもう少しオトナだと思ってました」
「怒ってるの利比古くん!?」
「……ほんのちょっぴり」
「甘えてただけじゃないよ。午後はずぅっと勉強してたんだから。勉強イコール読書。ジュリア・クリステヴァって人の本をずぅっと読んでたの」
さやかさんの間近のテーブル上には確かに分厚い本が置かれている。
『勉強』か。さやかさんの『勉強』。彼女は東大生なのだ。とっても高度な『勉強』をしているんだろう。
それに、
「さやかさんは院進(いんしん)するんですよね? ジュリア・クリステヴァっていう人の本も今後の学業に関わってくるんですよね」
「それはそーだよ」
やや身を起こすさやかさん。
「『思想』を研究していくつもりなの」
「『思想』……」
「ゆくゆくは世界最先端の思想にタッチしていきたい。千葉雅也さんも手を付けてないような」
「千葉雅也さんですか。名前しか知らないです」
ぼくが言った途端に大げさに肩を落としてしまう彼女。
「がく~~っ」
徐々に険しくなる眼つき。
「利比古くんってホントに文系大学生?」
ええっ。
唐突な罵倒。
ぼくの発言はそんなに宜しく無かったのか……。
× × ×
「決めたよ。2泊3日にする。あすかちゃんの部屋で寝かせてもらう。寝る準備を済ませて22時になったらあすかちゃんルームに入る。それ以降は利比古くんは絶対にあすかちゃんルームのドアをノックしちゃダメだよ?」
ほんのりと攻撃性の混じった口調でさやかさんが言ってきた。
窓を見たら夕焼けが色濃い。もう少ししたらあらゆるモノが夜に突入していく。
「約束できるよね。わたしが今言ったコト」
「できますよ。ノックなんかしませんよ」
「――ホントは『女子2人の夜の空間』に興味があるとかじゃ無いよねえ?」
「からかわないでくださいっ」
「エッ。利比古くんがまるで反抗期」
「さやかさんには弟さんなんていませんよね!? なのに、年下男子のメンタルを分かった気でいるだなんて……!!」
「やはり反抗期」
ダメだっ。
何とかしようとしてもどうにもならない気配が濃厚。
でも、彼女に屈したくない気持ちはまだ尽きてはいない。残り僅かなエネルギーで踏みとどまりたい。
形勢逆転の糸口を探す。彼女の『泣き所』を必死で探る。
しかし、見いだせない。余裕タップリな態度の彼女。付け入るスキがなかなか見当たらない。
しかしながら『ここ』が踏ん張りどころなのだ。対抗心は燃やし尽くすまで燃やしたい。底力でもって彼女をアッと言わせたいのだ。その底力が根拠の無い底力だとしても。
ぼくは彼女の容姿の『ある点』に注目した。
今日「CM研」でぼくをイジメてきた吉田さんは身長152センチ。現在ぼくをイジメてきているさやかさんは身長163センチ。さやかさんの方が吉田さんよりもスラッとしていてオトナっぽい。
吉田さんはいつでも髪にリボンを付けている。緑と白の2色のリボン。そのリボンによって吉田さんのコドモっぽさが増幅される。
現在相対(あいたい)しているさやかさんが髪にリボンを付けている所など見たコトが無い。
今こうしてさやかさんを見ているとさやかさんの『オトナ』が一層際立つ。なぜか? 吉田さんと比較しているからだ。さやかさんと吉田さんの容姿を脳裏で重ね合わせる。さやかさんが一際オトナっぽく見え、吉田さんが一際コドモっぽく見える。
その『対比』の理由。というより、対比の『決め手』。
『決め手』となるモノ。つまり、キーアイテム。
軽く息を吸ってみる。
それから、
「――リボンでも付けてくれたなら、もうちょっと可愛げが出てくるのに。」
と優しい声で言ってみる。
もちろん、さやかさんに対して。
「……いきなり何なの。リボン……? 『付けてくれたなら』って……それってつまり、わたしが髪にリボン付けてるとこ……利比古くんは見てみたいってワケなの」
即座に、
「ハイ。可愛げのあるさやかさんも見てみたいので」
とキッパリ言う。
さやかさんは腰を浮かせ始めていた。ジワジワと立ち上がり姿勢に近付いていった。
そしてとうとう完全に立ち上がった。眼は真下しか見ていない。
……ぼく、勝っちゃったみたいだ。