熱いコーヒーにスティックシュガーを入れ、牛乳パックの中身も入れる。黒かったコーヒーがどんどん薄茶色になっていく。世の中には、ブラックコーヒーしか飲まない人々が結構居るようだ。私はそういう人々に勝てない。身近にも、親友の羽田愛さんみたいなブラックコーヒーオンリーの女の子が居る。愛さんのスペックに尽(ことごと)く勝てない私であるが、彼女はブラックコーヒーしか飲まないんだから、もう降参である。
降参するだけで、私は愛さんに嫉妬したコトは1度も無い。同い年の女の子に対して妙な認識であるかもしれないけど、列挙し切れない程いろいろな分野で秀(ひい)でている愛さんを純粋に「尊敬」している。
完全なる薄茶色となったコーヒーが入ったマグカップを口に持っていく。牛乳を入れたから熱さが緩和されている。飲みやすい。
マグカップを一旦置いた。そこに、キッチンで食器洗いをしていたお母さんが、
「しぐちゃん、しぐちゃん♫」
といつもの如く底抜けに明るい声で私に呼びかける。
それから、お母さんが、
「おこづかい、欲しいよね♫」
と言ってきたから、びっくり。
だって、
「この前、貰ったばっかりだよ!? 大丈夫なの!? 家計をそんなに娘の私に投入して……!!」
「するわよぉ〜〜♫」
「あ、あのさ、今回のおこづかいの『意図』は、なに」
「決まってるじゃない♫ 『ショセキヒ』よ♫」
「ショセキヒ……?」
「しぐちゃん、鈍くない? 本のお金よぉ♪♪」
あっ。「書籍費」か。
なるほど。私の就職先を考慮して、お母さんは書籍費を大盤振る舞いしているんだ。ありがたいと素直に思う。ただ、どのくらい書籍費が提供されるのかは気になるけど。
「お母さん」
「はぁい♪」
「たぶん、おこづかいって、渋沢栄一なんだよね」
「当たり前よ〜♫ 渋沢さんを、何人も用意してるわ〜♫」
最高額たる新しい日本銀行券を、何枚も……。甲斐田家の家計を思うと、喜べない所もちょっとだけある。
でも、お母さんが私を想っているからこその、渋沢栄一の大サービス。拒否るワケにはいかない。
だから、キッチンのお母さんの方に眼を向け、『ありがとう』のキモチを込めた視線を送る。
例によって、キッチンのお母さんはニコニコしっぱなし。
× × ×
上位の志望だった某・出版社の就職試験をパスした。そこまでは良かった。ファッション雑誌の担当編集者になれたら良いなと、淡い期待を抱いていた。
だけど、配属先が文芸雑誌になってしまった。
ショックだった。漫画なら、『ガーン』という擬音が大きく描かれて、うなだれる私の背景は暗い色合いになっていただろう。
ファッション雑誌だったら、女子大学生としてそれなりに購読はしていたし、とりわけ好きなファッション誌は私が内定した出版社からの発行だった。『好きな雑誌の編集者になれるかもしれない』。そんな期待が見事に裏切られた。
文芸雑誌!?
しかもしかも、私が編集を担当する予定の文芸誌は、ゴリゴリの純文学雑誌。
大学での専攻的に、英語を学んでいく過程で、英語圏の文学作品なら、テキストとして断片的に読んではいた。だけど、積極的に文学作品を読むタイプでは無かったし、日本の純文学作品となるとカンペキにお手上げだった。
配属前のノルマだとかは課されて無かったんだけど、大学でお世話になっている先生に事情を明かしたら、『岩波文庫はもちろんだけど、講談社文芸文庫に入っているような作品も、『予習』として読んでおくべきかもね』と先生は仰(おっしゃ)った。
当然ながら、今まで1度も、講談社文芸文庫なんて手に取ったコトも無かった。前回のお母さんからのおこづかいで何冊か講談社文芸文庫を購入した。文庫本だというのにお値段が衝撃的な高額でビックリだった。『需要、あるの?』と思っちゃったのが正直なトコロ。
前回のおこづかいでの文芸書購入によって、私のささやかな本棚も少しだけ文学色が濃くなった。でも、いまだ貧弱だ。伊坂幸太郎などいわゆるエンタメ系流行作家の文庫本が並んでいる中に、中上健次や大江健三郎が紛れ込んでいる。中途半端に純文学作家を混ぜたから、本棚構成のバランスが悪くなっている。
夕方。まだ日は高い位置。自分ルームのベッドに座り、ぼやーんと本棚を眺める。やっぱり、充実した本棚だとはとても言えない。アンバランスな書の並び。みんなが読んでいたような小説ばかり読んでいた『ツケ』なんだろうか?
『伊坂幸太郎だって面白いじゃん?』。それは、そう。でも、私が携わらなければならない文芸誌に、伊坂幸太郎のような作家の書いたモノは恐らく掲載されない。
本棚を眺める。助けを求めたいキモチ。それがジワジワと立ち昇ってくる。
頭を抱えるより、スマートフォンを持って電話帳を開きたい。そんなキモチでもって、スマートフォンを手に取り、登録されている連絡先を見る。
『あ』の行に、腐れ縁だけど大切な親友女子の連絡先がある。
× × ×
「なんの用件の電話かと思ったら、文学のコトについてアタシに訊きたかっただなんてね。切羽詰まってるのは分かる。甲斐田にとって、ファッション誌でなく文芸誌配属になったのが都合悪いのは、分かるからさ。アタシが映画誌や文芸誌でなくファッション誌編集部に配属されちゃったのと、ちょうど反対だねえ」
そうなのだ。そうなのである。中学時代以来の長年の親友・麻井律も、会社こそ違えど、出版社勤めになるのである。そして麻井のコトバ通り、希望とは裏腹にファッション誌編集にされてしまったそうな。この「希望とは裏腹」という点が、私と重なっている。
「アタシさ。アンタのトコに、ファッションを教わりに行きたい気分なんだよ? アンタがアタシに救済してほしいのと同じく、アタシもアンタに救済してほしいの」
麻井のキモチが耳に届く。
それから麻井は、
「ま、アンタが救済を求めたいキモチも分かるよ。今日のアンタの喋り方、藁にも縋(すが)るって心情が露骨なんだもの」
図星。
図星が食い込んだから、うつむいてしまい、縮こまってしまう。
「甲斐田さん。キモチは分かります」
麻井は、穏やかにそう言ってから、
「でも、『人選』が、明らかに間違ってるよ。アタシが本を読んでる光景をアンタは見てきた、だからアタシを本好きとみなして、今回の文芸誌配属の件にぶち当たった時に、真っ先にアタシを思い起こした。……共感は、できるんだけど。でもねえ」
「……マズかった? 麻井、あんたに対して私、不用意にヘルプ求めちゃった?」
焦りながら問うと、
「アンタが謝る必要は無い。だけどさ。羽田愛さんの存在が思い当たらないのは、ちょーっと感心できないよねぇ」
「あっ!!!」
ハッとなって、スマホの向こうの麻井に対し、ビックリマークが3つも付くような叫び声を上げてしまった。
慌てた早口になるのを抑え切れず、
「そ、そ、そーだった私どうかしてたんだ羽田愛さんっていう最強の文学少女を想い起こさなかっただなんて」
「甲斐田甲斐田、落ち着きなさいよ」
スマホの向こうの麻井律は、なぜだか、ニヤニヤと笑みを浮かべていそうな声。
「でしょ? 愛さん、『最強の文学少女』でしょ? アタシたちと同学年だから、ホントは20代で『少女』なんて言えないんだけども」
「そ、それならば、愛さんは、文学『美女』だ、文学『美女』」
「だから落ち着きなさいって、甲斐田〜」
「なんで、麻井、そんなに余裕な喋りなのかな」
「アンタが慌てに慌ててるから余裕しゃくしゃくなんだよ」
ふ、ふーん。
そうですか。
それは、大変宜しきコトで。
一方では、麻井に翻弄され続けている状態の私。勢いが違う。ボクシングでたとえるならば、このままだと確実に判定負けだろう。
でも。
その一方で、麻井が『羽田愛さん』という固有名を出したがゆえに、そこからの『連想』で、反撃に出たいキモチがぐぐん、と昂(たかぶ)ってくる。
そうであるがゆえに。反撃の狼煙(のろし)を上げる条件が満たされたがゆえに。
「愛さん、か。確かに、文学の件は、愛さんに頼るのがベストだよね。それに……」
「え、『それに』って何?」と訝(いぶか)しむ腐れ縁の親友目がけて、
「せっかく愛さんの名前出たんだから、私、愛さんの弟さんの話もしたいかなー、って。利比古くん! そう、利比古くんの話もしたいよ!! なんてたって麻井、あんた、利比古くんに想いを寄せ続けてて……!!」