藤沢駅で降りた。湘南まで来たんだという実感が出てくる。
片瀬江ノ島駅方面のホームに向かう前に敢えて立ち止まり、ただ1人の同行者である羽田利比古に振り向き、
「ねぇ。アタシの今日のワンピース、どうかな」
羽田は少し困ったように、
「あの、『どうかな』と言われましても……」
まったくもう。不甲斐ないね。この期に及んでさ。もう少し、アタシの期待に応えてよ。『どうかな』に対してどんな答えを期待してるかぐらい把握して。
羽田の不甲斐なさは際立っているけど、ちょっとは優しくしたくて、
「ワンピースの、色」
「色?」
オウム返しに訊く羽田に、
「このワンピースの紫色が、どれだけアタシに似合ってるか。アンタからコメントが欲しいってワケ」
と言う。
ちょっとだけじゃなくて、もっと優しくしたくなってくる。苦笑いが自然とこぼれる。
まだ困っている羽田がなんだか可愛かった。可愛かったけど、胸がドキドキするんじゃなくて、穏やかに静かに胸が満たされていくような感じ。
アタシはコトバを足す。
「こんな色合いのワンピースをアンタに見せるのは、もちろん初めてなんだけどさ。実は、アンタのお姉さんを、ちょっぴり意識してて」
「姉を……? どういうコトですか?」
「アンタのお姉さん……愛さんって、アタシには、紫色のイメージなんだ」
理解できなくて、愛さんの弟はキョトンとする。
「お盆に、アンタたちのお邸(やしき)に泊まらせてもらったでしょ? お泊まり2日目に、愛さんの部屋で愛さんと一緒に寝たんだけど、彼女は紫色のパジャマで、その時、『愛さんには紫色のパジャマがいちばん似合ってるな……』って思って」
はにかみ混じりの笑みを抑え切れなくなりながら、
「つまり、愛さんの真似がしたかったの。パジャマとワンピースの違いはあるけれど、色を真似てみた。彼女のパジャマより濃い紫色のワンピースしか手に入んなくて、中途半端な真似方になっちゃって、そこが心残りなんだけど」
コトバを切り、じぃっと羽田の顔面を眺める。たぶん愛さん譲りの、整いまくりの顔。
「似合ってるかどうか、でしたよね?」
黙って首肯。
そしたら、
「姉への憧れとかとは関係無しに、オトナっぽくて、良いと思いますよ、ぼくは」
オトナっぽいって言われちゃった。
主に小柄な体型が理由で、オトナっぽいなんて言われるコト滅多に無い。否、滅多に無いってレベルじゃないんだけど、羽田が今、言ってくれた。
言ってくれた反動で、片瀬江ノ島駅方面のホームの方に再びカラダを向けてしまう。羽田に小さな背中を見せざるを得なくなってしまう。
× × ×
できるだけ、人の密集している場所から遠ざかりたかった。でも、このシーズンのビーチだから、どこまで行っても人の姿は絶えない。
行き場所を指定したのはアタシの方なんだから、責任を負うしかない。砂浜をサクリサクリと踏んで歩いていた足を停める。濃紫のワンピースに加えて白くてとっても大きい帽子をかぶっているアタシは、左斜め後方の羽田に、
「ゴメンね。気が落ち着かなくなっちゃうよね、ビーチが人で賑わい過ぎてて。もっとよく下調べするべきだった。穴場みたいな場所、きっとあったはずなのに」
「人があまり居ない方が都合が良かったんですか?」
羽田はそう言ったけど、『マズいコトを言ってしまった!』と思ったのか、慌て顔になって、
「す、すみませんっ、デリカシーの無い訊き方をしてしまって」
微笑ましくて、微笑まし過ぎて、アタシの口から笑いが自然と漏れ出してしまった。
「ほーんとデリカシー無いよねぇアンタは!! 毎度お馴染みのパターンだ」
こらえ切れない笑い混じりにアタシは言うけれど、
「最後の最後まで、性懲りも無いんだからぁ」
と余計なひとことを付け加えてしまった。
羽田が棒立ちになり、
「最後の最後……って。麻井先輩、それは、どういう意味で」
口に出してしまったら取り消せない。割り切るべき。
海の上の空はまだ日の光に輝いていて、ムードはイマイチ出てこない。いちばん大事なコトを告げるには早過ぎるかもしれない。だけど、温存していても、つらくなるかもしれないし。
深まる夏の空気を吸い込んでみる。ちょうど良い風が肌に触れてくれる。
とっても大きな帽子をかぶるのをやめる。2時間以上手入れした髪はきっと整っている。羽田にも清潔感を与えてくれているはず。
高校時代のあの1年間とは違う。いつもボサボサ髪で登校していた。ボサボサ髪で【第2放送室】に行って、凶暴な態度で、羽田を罵倒したり殴ったりしていた。あれから約4年。現在(いま)は違う。怒る気もなんにも無い。ボサボサよりもサッパリした髪を見せたい。髪だけじゃなくて見た目の何もかもをサッパリさせて、羽田利比古というオトコと関わりたくて。
サッパリさせるってコトは、キッパリさせるってコト。
2歩(にほ)ぐらい距離を詰める。憶えている。コイツは身長168センチだった。アタシより20センチ以上高い。見上げないと、眼を見て話してあげられない。
眼を見て話す勇気なら存分にあったから、大丈夫だった。
「――アンタも気付いてるよね?」
狼狽(うろた)えを確かめてから、
「気付いてるよね。家族連れやカップルが、浜辺にたくさんたくさん集まってる。ずっと歩き続けてたけど、至る所で眼に入ってきた」
羽田はやや拍子抜けになり、
「気付いてるって……それですか? 気付くも何も、こういう季節なんだし、家族連れやカップルが集まるのは当たり前じゃないですか」
アタシは間髪を入れず、
「みんな幸せそうだって思わなかった?」
「えっ……?」
「アタシは、みんな幸せそうに見えたよ。ファミリーにしてもカップルにしても、幸せじゃない人間なんて居ないだろうって思った」
「……言い切るんですね」
「言い切るよ」
眼を合わせつつ見上げるままに、
「羽田。先輩のアタシからの、最後の至上命令」
「至上命令!?」
「仰(の)け反(ぞ)らないでよ。バカ」
バカ、と言いつつも、怒りとはかけ離れた感情で、
「幸せになりなさいよ。アンタも、絶対に。この浜辺に集まってる、ファミリーやカップルみたいに」
どんな返事をしたら良いのか羽田は分からない。
当然かもね。
今日のアタシ、言動が飛躍してばっかり。
だけど、飛躍も、受け容れて欲しいかな。
「……んっと。羽田? ここからが、本日のクライマックスなんだけど」
必然的に息を吸って、吸い込んで、
「覚悟して聴いてね」
羽田がバカみたいに真顔になってくる。こういう真顔を見ると、年月の経過を実感する。羽田も、もう、コドモじゃないんだね。今見せている顔で分かるよ。
「結論から言います」
勇気を絞り出すと同時に、
「アタシ、あきらめるよ、アンタのコトを。アンタには、他の娘(こ)と、幸せになってもらいたい」
羽田利比古のココロの中は確実に青ざめ始めているだろう。
顔にしたって、今までになく呆然としている。
痛みを感じているんだろう。なかなか受け容れられなくて、しかも、受け容れられないキモチをコトバとして表現する術(すべ)を失(な)くしてしまっている。
羽田利比古が無言になるから、波打ちの音がアタシの耳に際立つ。アタシはただ、自分のでっかい帽子を自分のお腹に押し付けるだけだ。
勇気を出し切れた。ココロの強さは弱まらない。
今日、帰宅するまで、涙を出さない自信がある。
明日以降のアタシの感情がどうなっているのかは、別として――。