【愛の◯◯】おれもおまえも岩波文庫

 

外が暗くなり始める頃、研修を終えたおれは、「新居(しんきょ)」たるマンションに帰ってくる。

部屋に入ると、キッチンの前に愛が立っていた。

「おかえりなさい」

振り向かれて、優しく「おかえりなさい」を言われる。

「ただいま」

と返すものの、愛の「おかえりなさい」が優しくて、うまく目線を合わすことができない。

しかしながら、眼と眼を合わせられないようではダメだと思い、キッチンの愛に目線を寄せる。

どうやら愛は、夕飯の支度をしていたようだ。

軽く微笑みかけたあとで、お料理を再開する。

玉ねぎをみじん切りしながら、

「お風呂、入ってきたら?」

「――おう」

「ちょうど今が、お湯入れが完了するところだと思うから」

そう言ってすぐに、お湯入れ完了の音がピーッと鳴った。

「じゃ、ジャストタイミングすぎねーか」

「あなたが研修から帰ってくる時間を、ちゃんと把握してたんだから」

「……おまえ、計算が上手だな」

ピーマンを洗いつつ、

「計算上手なのは、当たり前」

と自賛(じさん)する愛。

「ほら、入浴入浴、アツマくん。あなたがお風呂から上がる頃には、お料理できてるから」

 

× × ×

 

夕食後。

おれは熱いほうじ茶、愛はホットコーヒーを飲んでいる。

「今週は、火曜と木曜の夕食当番がおまえで、水曜と金曜の当番がおれだったよな?」

真向かいに座る愛に確認する。

「今度の土日はどーする」

「4月になって、あなた一気に忙しくなるでしょ? 土曜も日曜もわたしが担当してあげるわよ」

「え、でもおまえ、毎日朝食当番でもあるんだし」

マグカップを両手で持ちつつ愛は、

「そんなに負担にならないから。お料理名人のわたしをナメないで」

と説得力のこもった声で言う。

「わかった」

そう言うおれに対し、右腕で頬杖をつきながら、

「アツマくん。なーんか、ぎこちないわねえ?」

「ど、どこが」

「全体的に」

「ぬ……」

この上なく楽しそうに笑いつつ、

「もっとリラックスしてよ」

と言ってくる。

おれは黙ってほうじ茶を啜(すす)る。

そしたら突然、

もう1回、お風呂、入ってくる??

とか言いやがるから……ほうじ茶を吹き出しそうになっちまう。

 

× × ×

 

「愛」

「なあに」

「もうすぐ『読書タイム』だってこと、忘れてないよな」

「ええ、忘れてないわよ」

「ありがたい」

「なにがありがたいのかしらー」

「そ、そんな眼つきで笑うなっ」

「ごめーん」

「……そんで、読書する場所なんだが」

「わたしは本棚の近くのカーペットがいいわ」

「テーブルとか無いけど?」

「問題無し」

「そっか。……了解だ」

 

夜9時になると、『読書タイム』になる。

時間は90分。大学の講義と同じだ。

それぞれが好きな本を選び、読み続ける。

読書の習慣を失(な)くしたくないという、おれの意志によって、ふたり暮らしに『読書タイム』が設定された。

マンションの部屋の本棚はふたりの共用だ。

愛がたくさん本を持ち込んだので、ふたり暮らしの本棚としては破格の大きさと言えるかもしれない。

そんな本棚からおれは、事前に読もうと思っていた文庫本を取り出す。

すると、

岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』か~」

と……愛が、おれの持つ文庫本を眺めてくる。

「でも、どうして『第四巻』なの?」

それはですね、愛さん。

「『コーヒー哲学序説』ってエッセイが第四巻収録なんだよ。おまえ読んだことあるだろ? このエッセイ」

「あるわよ、もちろん」

きみ、地球上の女子大学生の中でも指折りの、コーヒー大好き人間なんだもんな。

「おれとしても、読まないわけにはいかない……カフェで働くんだからな。なんといっても題名が、『コーヒー哲学序説』」

「殊勝な心がけね」

あー、はい。

「奇遇ねえ。わたしも岩波文庫なのよ」

「何色の?」

「赤。ポール・ヴァレリーの『ドガ ダンス デッサン』っていう本」

ふーん。

「ふーん。アレか、『ドガ』ってことは、音楽関連の評論も――」

ちょっと!! なにおマヌケなこと言ってんのよあなた

「な、なぜ絶叫ッ!?」

ドガは、画家でしょーがっ!! どうして間違えるわけ」

「――ああっ」

「神経疑うんですけど」

「――ごめんな。教養、身についてなくて」

「もう怒った。わたし、あなたの背中に引っ付きながら読書するわ

「……なんでかね」