【愛の◯◯】形勢逆転の『仮定』

 

日曜日なのだが、大学に行って『PADDLE(パドル)』の編集作業をしている。

記事を書いていたら、背後から粗雑なノック音。

返事をする間(ま)も与えず、にっくき天敵留年女子学生の浅野小夜子(あさの さよこ)が編集室に入ってくる。

「今日はレッドブル・シュガーフリーなのね、結崎(ゆいざき)」

そんなにぼくの飲むエナジードリンクのバリエーションが気になるか。

「ちゃんと缶は処分するのよ」

「それぐらい分かっとるわ」

浅野はクスッと笑ってから、

「ねえねえ。わたし気づいたことがあって」

「は!?」

「先々週の日曜日だったと思うけど、この部屋で結崎と『時雨(しぐれ)』がどうこう、っていう話をしたでしょう?」

「時雨?? 時雨って、雨の時雨だよな? おのれはいったいなにに気づいたんだ」

「あのときは、『降り続く雨』のことが『時雨』だって、わたしもあなたも認識してたと思うんだけど。わたし、あのあと自宅で、歳時記や『広辞苑』を見てみたのね。そうしたら、『時雨』っていうのは降り続く雨ではなくて、『降ったりやんだりする雨』のことを指すらしいことに、気がついたのよ」

「……なんだそれ」

「誤解は訂正しないと。このブログの過去ログに間違いが書かれてるんだから

「おいコラッ、メタフィクション的な発言をするな」

「どーして?? ブログの中の人だって反省してるのよ、素直に間違いを認めてるの」

ぼくはレッドブル・シュガーフリーの缶でデスクをゴツン、と叩く。

「これからは、わたしとあなたも認識を改めないとね」

勝手に言いやがれ、浅野ッ。

 

プライベートゾーン寸前まで身を寄せて、PC画面を勝手に見てきたウザい浅野が、

「意外。結崎がクラシック音楽の記事を書くだなんて」

ベートーヴェンピアノソナタにはまってるんだ」

「あなたが~~~?」

バカにしたような反応を見せたかと思えば、ぼくの間近で大爆笑。

「もしかして、『悲愴』とか」

「……」

「黙るってことは、『悲愴』聴いてるのね。今のあなたが醸し出す悲愴感にピッタリかもね」

「うるさい。うるさいし、ウザい」

「捨てゼリフ!!」

 

どうにかして形勢を逆転させたい。

なので。

レッドブル・シュガーフリーの2本目の缶をプシュッ、と開け、ひと口目を飲んだあとですぐに、

「日曜日だが、兄貴なら来ないぞ」

と、ぼくの兄の結崎一眞(ゆいざき いっしん)に言及する。

浅野は戸惑い始めたような声で、

「え……。どうして急に一眞さんに言及するのよ」

「おまえだからだ」

のけぞるように浅野がぼくの近くから離れた。

「オーバーリアクションなこった」

形勢逆転できる手応えを感じつつ、

「疑いようも無いだろ、兄貴が来るのをおまえが楽しみにしてることは」

浅野は眼を逸らす。

ぼくは安楽椅子に背中を預け、

「ひとつ訊いていいか」

「な……なによっ。訊く内容によっては、拒絶するわよ」

ふうん。

「訊くということ自体は許してくれるみたいだな」

言ってから、シュガーフリーをぐび、と飲み、それから、

「たとえばの話だが。

 もし、兄貴に恋人がいるとしたら――どうする?

 

やはり押し黙る浅野。

眼をやると、カチコチに固まっているみたいになっている。

うろたえて、下向き目線で、思春期の入り口の13歳女子みたいな困り顔になっている。特に、口元が幼く弱々しい。

幼く弱々しい口元からなんとかコトバを発そうとするが、発そうとするたびに、なにも言えなくなってしまう。

ほっぺた辺りの仄(ほの)かなる赤みも眼についた。

 

「ゆ、ゆいざき……ゆいざき、なにそれっ。どうしてそんなヒドいこと言うの」

「そんなにヒドい質問だったかぁ?」

「ヒドいったら、ヒドいのっ。わたしに向かって、そんな速球ストレート投げて、しかもその速球ストレートが、わたしにブチ当たって、危険球で」

だんだん言語が乱れてきて、

「『あのひと』に、コイビト!? コイビトなんて……いたらいるんだし、いなかったらいないんでしょっ。その2つなのよ。その2つしかないの。そうでしょ、ゆいざきっ。わ、わ、わかってるのよね!? わたしが『ゼツボー』するパターンが、どっちのパターンなのかってこと……!」

「浅野に言われんでも分かっとるわ」

右拳を握りしめる浅野が若干可哀想にもなってきたが、構わず、

「恋人がいるほうに決まってる。おまえが奈落の底に突き落とされるパターンは」

浅野が顔面蒼白になった。

『お灸(きゅう)のすえどころ』というタイミングでもあった。ちょっとはこの女も追い詰めてみなければいかん。『ヒドい』と言われても、苛烈な問いを浴びせて、追い込ませる。

イジメているようなものだが、致し方ない。この女にも悪行(あくぎょう)の積み重ねがある。

ここでドアノブがひねられる音がした。

「浅野ー。あすかさんだ。助けが来て良かったな」

後輩の戸部あすかさんが入ってくる。

浅野のつぶらな瞳を目撃して、『なにごと!?』というふうな顔になる。

それからぼくのほうに視線を向ける。

批判や非難なら……甘んじて受け止める。