【愛の◯◯】『キライ』という意識の残酷さ

 

学生会館に入り、エレベーターに乗り込み、5階のボタンを押す。

サークル室のドアまで行き、鍵がかかっているかいないか確かめる。ロックは解除されていた。誰かが中に居る。

ドアノブに手をかけ、ドアを開ける。中には新田くんだけが居た。わたしから見て右サイドのいつもの席でいつもの如く漫画を読んでいる。

本当に本当に呑気なモノだと思う。新田くんは自分が置かれている状況を理解しているのかしら。大学4年の5月よ!? 『無い内定』の学生が頭を抱えているような時期よ!?

新田くんの逆サイドの長机に行き、椅子に腰掛ける。取り出したスケジュール帳を新田くんを睨みつける代わりに睨みつける。

「おはよう、大井町さん」

新田くんは呑気に言うが、

「何を言うの新田くん。もう午後よ。もしかしたらわたしが第二文学部の学生だからわざと『おはよう』って言ったワケ」

「そうともいう」

『そうともいう』じゃないわよっ。

『おはよう』と言われた弾みで目線が上がってしまった。新田くんはスクウェア・エニックスの某漫画雑誌を読んでいた。

「あなた漫画に関してだけは守備範囲が広いのね」

「うおっ。いつもの如く大井町さんに叩かれてしまった」

『叩かれてしまった』ってなに。物理的に叩いたワケでもないのに。

「あのねえ、もう少しあなたは日本語を磨くべきだと思うわよ?」

わたしは、

「この大学の第一文学部の入試を突破したのに日本語の微妙なニュアンスに鈍感なのね」

「まあ俺は日本文学専攻じゃなくて西洋史専攻だからさ」

「どういう言い訳よ」

いつの間にかわたしは右拳(みぎこぶし)にチカラを込めていて、

「あなたって卒業論文にアニメーションのコトを絡めそうよね。アメリカ史に関する題目でディズニーアニメのコトに文字数使ったり……」

「ウォーッ」

謎の間の抜けた声を発して新田くんは、

「するどいなー」

本当にディズニーアニメを卒論の素材として使うっていうの。口頭試問で泣きを見ても知らないわよ!?

……ただ、卒業論文提出はまだまだ先の話で。

今肝心なのは就職活動のコト。

新田くんの口から「内定」の漢字2文字が発せられたコトが無い。

一方、わたしはと言えば……。

 

× × ×

 

新田くんが『月刊少女野崎くん』という漫画の単行本を読み始めた。

実はわたしも『月刊少女野崎くん』は面白い漫画だと思っている。不都合にもわたしと彼で嗜好が合っているのだ。

だけど、わたしは漫画と全く関係ないコトで向かいの席の彼に言いたいコトがあった。

だから、ペットボトルの十六茶を喉に流し込んだ後で、

「新田くん。ちょっといい?」

「ん。どーしたの」

「就職活動の進捗はどうなのよ?」

彼は半笑い。

苦笑いというよりも半笑いというニュアンスの強い表情に見える。

「ヘラヘラするのは厳禁よ」

そう言ってから、

「ダメダメな進捗みたいね。それなのに、危機感がほんの少ししか感じられない。そんなコトで良いの? 良いか悪いかは明らかでしょうに」

「良くは無いよね」

不誠実の新田くんを見て、再び右拳の握りを強くする。

それからその握り拳で長机の上をトン、と叩いて、

「わたしの方は既にいくつかの会社から内定をいただいているのよ」

そう告げたら新田くんはうざったい微笑みで、

「やっぱスゴいなー。大井町さんはマジでスゴいよ。どんどん内定ゲットしてるんだね。俺と違って順風満帆だ」

『少しはあなたも焦りなさいよ……』とココロの中でイライラの火が燃える。

「で、きみはいったい何社から内定を?」

即座に、

「教えないわ」

と突っぱねるけれど、

「出た内定の数の代わりに内定した会社の業種を教えてあげる」

「気になるな。業種って例えば?」

「1つは、レコード会社」

「音楽か!!」

「突然大きな声出さないでよ。部屋の外に漏れちゃうでしょ」

「ごめん」

「まったく、これだから……」

「正直意外かも。音楽の方面に進むっていうのが」

「まだ確定では無いけどね」

「きみは音楽にあまり関心を持ってないっていうイメージだったんだよ。俺たちがカラオケに誘っても1回もノッてきたコト無かったし」

あなたたちがアニメソングばかり選曲するのが目に見えているからでしょ。

まぁ……わたしそもそもカラオケ苦手なんだけども。

 

× × ×

 

『あなたはこれからどうするの!?』と問い詰めたりして夕方まで新田くんと部屋に居た。

もう『これからどうするの!?』みたいに新田くんを詰めるコトに慣れっこの自分がいる。

恐ろしいコトだ。

『危機感を持ちなさいよ』と忠告し、席を立ってサークル室の外に出た。

 

今は帰りの電車に乗っている。

吊り革を握り締めながら考え事にふける。

就職活動は自己責任。だから、本来は新田くんを叱って危機感を抱かせる必要も無いのだ。新田くんの勝手なのだから放置しておいたって全然良いのだ。

でも。

新田くんと面と向かうと自然に注意や忠告のコトバが口から出ていく。

どうしてなんだろう。

わたしはどうして気が付いたら新田くんを叱っているんだろう。

 

放っておけない??

 

まさか。

そんなコトなんて……。

『放っておけない』だなんて……!!

 

嘘よ。

彼を放っておけないから、叱っちゃう!?

そんなのは嘘よ。

彼を見捨てられない。だから、つい叱り飛ばしてしまう!?

あり得ないでしょ。

『見捨てられないから』とかそんな意図、あるワケ無い!!

そう。

『放っておけない』なんて思っちゃいけない……。

いけないの。断じていけないの。

 

だけど。

 

『いけない』のは分かってるのに。

そういう気持ちが意志とは関係なく浮かび上がり、せり上がり、感情のコントロールを乱して……!!

 

× × ×

 

気付けば車内でぶんぶん!! と首を横に振っていたわたし。

眼の前の席に座るサラリーマンらしき人が驚いて眼を見張っていた。

取り乱したのだ。

 

× × ×

 

就職活動が大丈夫じゃ無い新田くんと同じくらいわたしは大丈夫じゃ無くなっていた。

アパートの部屋に入ってからも過剰な意識は持続していた。

電車の中で新田くんのコトを考え出したら思考があらぬ方向に行った。

そして、最終的には取り乱した。

 

わたしのココロの隙間に新田くんの存在が入り込んできているのを否定できない。

いろいろな意味で冴えない新田くんがココロの中に巣食っている。

気持ち悪い。

ムカムカするというよりも胸の奥がドロドロと掻き乱される。

 

晩ごはんの支度もしないでダイブするようにベッドに突っ伏する。

「キライよ。あなたのコトなんか」

呟く。呟いてしまう。

『あなた』とは当然新田くん。

わたしはわたしの『キライ』をベッドに吐き捨てた。

でも、吐き捨ててからしばらくして、

『キライはスキの真反対。だから、キライとスキは表裏一体』

という恐るべき事実が、グサリとわたしを刺してきた。

胃が痛くなる。

心臓はもっと危ない状況になる。

……ドクドクと波打つ音が耳に鳴っていたからだ。