わたしの利比古くんに対する完全無視は朝食の時点で既に始まっていた。邸(いえ)のメンバー全員がダイニングテーブルに揃う中、最も彼から遠い席を選んで朝ごはんを食べた。彼の顔にも手指にも一切眼を向けなかった。
朝食後一度だけ2階廊下で利比古くんとすれ違った。徹底的に無視したかったから、彼の逆サイドに眼を凝らしながらすれ違った。すれ違う彼の足音の響きが弱々しく感じられた。でも、そんなことを気にしたくもなかったから、いつもより大きな音を立てて自分の部屋のドアを閉じた。
悪いことに昼食も利比古くんと同じタイミングになってしまった。双方大学が冬休みだから、邸(いえ)に居る時間が多くなっているのだ。それゆえ、食事を共にするケースが増える。もちろん今日は朝食同様彼の顔が見たくない。だから、朝食同様に最も彼から遠い席を選んで座る。本日の昼食担当の流(ながる)さんがキッチンで煮込んでいるスープの湯気から最も遠い席だった。
× × ×
コミュニケーションが無いまま利比古くんはダイニング・キッチンから消えた。昼食後のダイニング・キッチンにはわたしと流さんだけが残された。
「流さん。食器はわたしが全部洗って拭いておくので」
椅子から立ち上がり、キッチンのシンクに近付いていった。流さんに背を向けて水を流し始めた。
「あすかちゃん」
呼ばれた。食器を洗い始めた手指以上に背筋が冷たくなった。
「きみ、利比古くんのこと避けてるよね。朝の段階から」
必要以上にスポンジを泡立てるわたしに、
「このままで、いいのかなあ」
という声が刺さる。
「そりゃまあ、こういう事象は、過去にしばしばあったんだけども」
『事象』なんてコトバ使わないでくださいよ。
『しばしばあったんだけども』って言い回しも回りくど過ぎ。
「ケンカになった原因は訊かないよ。そっとしておく」
イライラしながら流さんの声に耐える。
だけど、
「ぼくは邸(ここ)では2番目に年長なんだから。そういう立場から、きみと利比古くんの2人に配慮する」
と言う声が耳に響いたから、洗っていた2本のスプーンを流しに叩きつけたくなってしまう。
× × ×
『ほのかさん』と呼べない利比古くんが全部悪いんだ。
クリスマスイブデート。川又ほのかちゃんに『下の名前では呼んでくれないの?』と迫られた。『川又さん』ではなく『ほのかさん』と呼んであげるべきだったのに、彼は結局呼べなかった。
『ほのかさん』と呼べないから、通じ合えない。通じ合えないから、イブの夜が無惨に終わる。無惨に終わったから、ギクシャクする。
「越年(えつねん)交渉」というコトバがある。このままだと、ほのかちゃんと利比古くんのカップルの『契約更改』は、年を越してしまう。
なるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
『ほのかさん』呼びができなかったと利比古くんに報告された瞬間から怒り心頭だったから、その場で『放って置こう』と決めた。
「それにしても、ほのかちゃんが可哀想。傷つくのは、ほのかちゃんばっかり。傷つけるのは、利比古くんばっかり」
自分の部屋のベッド側面に背中を引っ付けて床座りのわたしは、最愛のゆるキャラ『ホエール君』のぬいぐるみに視線を落として呟いた。
徹頭徹尾無視すると決めていた。完全なる無視(シカト)の方が、叩いたり蹴ったりするよりも、ダメージが巨大になるはずだから。
「……だけど」
流さん特製のスープを2回おかわりしたからだろうか、眠気に苛(さいな)まれながら、
「やっぱり……きちんと……彼に……怒る方が……ベター、なのかな」
と、抱きかかえているホエール君に言う。
「ベストでは……ないにしても……ベター、だよね……」
× × ×
気付いたら4時間に渡って眠っていた。
× × ×
4時間の昼寝は長い。
たかだか4時間なのだから許容範囲、とは、言える。
ただし。
4時間の昼寝を受け容(い)れられるのは、
『夢の中にわたしがよく知っている人物が出なかった』
場合だ。
今回は、違った。
『夢の中にわたしがよく知っている人物が出た』。
不幸にも、不都合にも、『出た』パターンだったのだ。
よく知っている人物の中の誰かが、夢に出た。
誰が?
……声に出したくもないし、文字にもしたくない……。
落ち着き方を見失ったまま手鏡を乱暴に掴む。
昼寝直後の寝グセが目立つ。
でも、そんなことよりも。
なんといっても。
恥ずかし過ぎるけれど。
誇れない顔面偏差値のわたしの顔面が……余す所なく、真っ赤に、染まっていて。