アルバイトから帰り、シャワーを浴びる。ベッドの側面にもたれ、髪を乾かす。髪が十分に乾いたのを確かめ、立ち上がる。バッグを選び、外に出る準備をする。
夕涼み。空は夕焼けが始まったばかり。住宅街の道をひたすら歩く。15分ほど歩くと緑あふれる夏木立が見えてくる。某・公園の入口付近まで来たのだ。
夕蝉(ゆうぜみ)のけたたましい鳴き声。その中を歩いていくわたし。必要最低限のモノだけ入れたバッグ。クリーニング店から受け取ったばかりのジーンズ。バイト代で買ったばかりのスニーカー。『たこやき』と暖簾に書かれた屋台などが散在している。屋台の横を通り過ぎ、大きな池のある場所へとわたしは向かっていく。
池は清涼感を与えてくれる。大きな池のほとりで、さやさやと吹く風とともに涼しさを味わいたかった。苦学生であるわたしの楽しみの1つだった。公園でひたすらに涼む。お金が全くかからない。苦学生には助かる。
やがて、大きな池の広がりが視界に入ってきた。
池のほとりにベンチが数台あるコトはもちろん認知していた。
その中の1つのベンチに、スケッチブックを抱え込むように持って鉛筆を走らせている青年の姿があった。
目撃した瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。背筋が真っ青になった。立ち止まらざるを得なくなった。
なぜなら……。
× × ×
新田俊昭(にった としあき)くんを無視するワケにはいかなかった。大学のサークルの同期なのだから、無視する方が不自然だ。正直に言えば、新田くんとの折り合いはあまり良くない。折り合いの悪さは、主にわたしのせい。わたしの方が毎回毎回、彼に対して攻撃的になってしまう。
サークル部屋での彼の態度に苛立つコトが多い。苛立つから説教を浴びせたりする。でも、そのパターンがこの4年間でずいぶんと繰り返されてきた結果、わたしの怒りを彼は穏やかに受け止めるようになってきていた。
わたしの殺伐を冷静に受け止める彼。そんなシチュエーションになると、長テーブルの下で、彼に見えないように拳を握り締めるわたしが居る。
拳を握り締めるのは、たぶん悔しいから。
さて、不思議なぐらい偶然に公園で新田くんと遭遇してしまったわたしは、迷った挙げ句、彼の座るベンチの横側に立っているコトにした。同じベンチに座るなんて無理。
「立ち続けてて大丈夫なの? 座った方が良いんじゃないの?」
新田くんの声が聞こえてきた。
「座る場所が無いでしょ」とわたし。
「あっちにベンチがあるじゃんか」と新田くん。
「あっちのベンチは離れ過ぎてるし」
「離れてても良いでしょ。俺の存在なんか気にしなくたって」
気にしない、の、反対。
だから、
「バッタリ出会ったついでに、あなたに言いたいコトがあるのよ」
と言う、けど、
「じゃあ、俺の隣、座る?」
と言われてしまったから、胸の底からカーッとなって、
「バカ言わないで! どこの誰があなたの傍(そば)なんかに座るのよ」
「羽田さんは座ったよ」
不意打ちのコトバに凄くドッキリして、
「ど、ど、どういう……コト?」
「別の公園で風景スケッチしてたんだけど、偶然出会った羽田さんが、俺のベンチにためらうコト無く座ってきて」
わたしの親友の思わぬ行動を知らされる。あの子……もしかして、彼氏持ちだから、彼氏以外の男子の隣に座るのに遠慮なんか無くって……。
とにもかくにも、
「わたしはこのポジションであなたと話すから。分かったわね」
「なにその念押し」
彼の顔は見ていないけど、チャラチャラした苦笑い顔なのが眼に浮かぶ。
「わたしが言いたいのはね、『これからどうするの?』ってコトよ」
ギザギザと苛立ち、ギザギザとコトバを浴びせる。
「就職活動失敗のコトか」
自らの失敗をアッサリ認めた新田くん。眼を寄せるわたし。スケッチブックを閉じて膝に置き、落ち着いた表情で大きな池を見据えている彼。
「卒業はするのよね? 今年度で」
「するさ」
落ち着いた返答。
「卒業したら無職よ。どこにも所属しないなんて相当キツいと思うわ。あなた、どうやって踏ん張るつもりなの……」
「まだ、夏だから」
「もう、夏なんでしょーが」
「そうとも言うね」
「ば、バカっ」
罵倒してしまう自分がいた。立ちながら距離が縮まってしまっている。立ちつつも彼へと前のめり状態。
彼が軽い溜め息をついた。スケッチブックをバッグにしまった。眼を細くして、夕空に向かい視線を上げた。
けたたましい夕蝉の声の中で、
「夢なら、あるんだけどな」
という彼の声がクッキリと聞こえた。
「知ってるわよ、それぐらい。漫画家になる夢でしょ。だけど、あなたの夢は全然進展してないわよね。いつまで経っても動かない。いつまで経っても踏み出さない」
見下ろしながらコトバを浴びせるわたしに対し、
「ありがとう」
と、唐突で不可解な感謝を彼はして、
「たとえお説教であっても、きみがそんな風に気にしてくれてるのが嬉しいよ」
と言い、左の頬をポリポリと掻く。
わたしはイライラの感情に包まれ過ぎて、もっともっと新田くんを問い詰めて追い詰めたくなってきた。
夢。
漢字1文字だけど、この上なく重たいコトバ。
新田くんに新田くんの夢があるのなら、わたしにもわたしの夢がある。
そして、たぶん、わたしの方が彼よりも、夢に向かう道を踏んで歩いて行けている。まっすぐではない道。安全でもない道。敵や罠が潜んでいるかもしれない道。でも、わたしは彼より「動く」コトができている。
あなたよりは踏み出してるわよ、新田くん。
勢い余っていくのを抑え切れなかった。親友の羽田愛になら言えるけど、新田くんなんかには言えないコト。言えないというより、言いたくない。それなのに、言いたくないキモチが180度回転し、夢の進展を裏付ける事実を、新田くん目がけてぶつけたくなってくる。
夢の進展を裏付ける事実を吐き出す寸前になっていた。
しかし、そんなわたしに対し、新田くんが新田くん特有のおマヌケな声で、
「スケブ見てくれよ。こんな偶然、まるで奇跡みたいだからさ。奇跡ってのはもちろん、大井町さん、きみがこんな場所に来たコト。俺、風景スケッチの量がだいぶ溜まってきたんだ。是非ともきみの忌憚なき意見と『添削』を――」