返してほしい本があったので、兄貴に会いに行く。
『PADDLE(パドル)』編集室を出て、学生会館の出口へ突き進む。
しかしその途中で、浅野小夜子(あさの さよこ)につかまってしまったのだ。
「結崎(ゆいざき)、どこ行くの?」
「キャンパスに」
「キャンパスの、どこよ」
「入口付近」
「だれかと待ち合わせなの? もしかして、一眞(いっしん)さんと?」
「なぜおのれはそんなに勘が鋭いんだ」
「じゃあ、わたしもついて行くわ」
「は!?」
浅野はもう歩き出している。
頬(ほほ)が淡く染まっているのがチラリと見えた。
× × ×
兄貴に会いたくて仕方無いらしい。
化石のような表現を使うならば、浅野は兄貴に『ホの字』であるということなのだろう。
最近の一連のやり取りからして、浅野の兄貴に対する好意は疑いようもない。
たまに兄貴と会えるのが楽しくて仕方無い。兄貴と会う機会を逃したくない。
ただ……。
キャンパスの入口付近に浅野と立つ。
浅野のことが気がかりだった。
というのは、
『ショックを受けても知らんぞ……』
という思いが、あったから。
『ショックを受けても』というのは。
兄貴は、『独(ひと)り』であるときのほうが、相対的に少ないのだ。
独り『ではない』ときのほうが、相対的に多い。
それは、つまり。
「そろそろ一眞さん来る時刻じゃないの?」
浅野が言った。
ぼくの『予測』など知ることもなく、弾むような声。
ぼくは、兄貴がやって来ると思われる方角を見やる。
人通りに眼を凝らす。
やがて。
派手な雰囲気の長身の男が、ぼくらのほうをめがけてやって来る。
兄貴だ。
ただし。
兄貴の右隣には、見知らぬ若い女性が。
「やー、純二(じゅんじ)、待たせたな」
新しきカノジョと思われる女性と腕を組みつつ、軽々しい声で兄貴が言った。
兄貴は浅野の存在に気づいて、
「あ」
と、眼を向け、
「小夜子ちゃんも♫」
と笑って言う。
そのコトバが太い槍(やり)のように浅野の全部に突き刺さる。
もちろん浅野は、兄貴の新しきカノジョを一切見ていない。
ひとことで、大ショックなのだ。
目線を下げ、口を歪める。
あんなに好きだった兄貴に、挨拶もできない。
× × ×
貸した本を兄貴は返した。
『じゃーまたねーー』
手を振りながら、兄貴は去っていった。
新しきカノジョの女性(ひと)とラブラブである空気を、周りに濃厚に振りまきながら。
問題はなによりも浅野だ。
弱々しい声だったが、兄貴とコトバを交わすことはできた。
しかし、兄貴が去ったあとも立ち尽くし、梃子(てこ)でも動きそうにない。
カノジョ連れの兄貴が去っていったのと反対方向を向き、立ち尽くしている。
ぼくも無言になってしまう。
立ち尽くしの浅野が、しだいに猫背気味になっていく。
チカラが入らなくなったのかもしれない。
ひたすら打ちひしがれていた段階から、虚脱感に包まれまくっている段階へ。
こんな浅野を見るのは無論初めてである。
一歩、浅野に歩み寄った。
その場に浅野を固定させておくわけにもいかんので、
「立ち尽くしてても、しょーがないだろが」
と、叱ってみる。
「兄貴は、ああいう男なんだよ」
言いながら数歩、距離を詰める。
「『ああいう』って……なによ」
絶望の色の濃い声が、聞こえてきた。
「まさか、想定してなかったってか?? 『寄ってこない』わけが無かろうに。ああいう派手派手しいタイプの男には――」
「やめてよ」
小さい悲鳴。
ぐるり、とぼくに振り向いてくる。
ぼくが歩み寄っていたので、互いの距離が短い。
「わたしがとてつもないショック受けてるのが分かんないの」
また、悲鳴。
すぐさまぼくは、
「分かってるに決まってる。おまえの一連の挙動で漏れ漏れだ」
「ばかぁ」
浅野がぼくの胸を叩き始めた。
両方の拳で。
止(や)むこと無く、しこたま、殴打。
ポカポカポカポカと、連打。
あまり、痛くない。
浅野の腕っぷしが弱いことに、初めて気づいた。
当然、浅野の眼からは、涙がこぼれていた。