『PADDLE(パドル)』編集室。
パイプ椅子に座る戸部あすかさんに、
「ちょっとこの記事をチェックしてくれないか」
と言う。
しかし、あすかさんからの反応が無い。
なぜだ。
喩えて言うならば、虚空を見つめているような。そんな様子になっている。
「おーい」
ぼくは呼び掛けてみる。
しかし、返事が無い。
まるで人形のようだ。
「おーーい」
今度は声を張り上げるようにして呼んでみた。
すると、ようやく反応があった。
一瞬『ビクッ!』となって、それから真顔でぼくを見つめてくる。
「この記事の文章をチェックして欲しくて」
もう一度頼んだ。
チカラが入り過ぎてるんじゃないかと思ってしまうほどの真顔で、彼女は黙って原稿を受け取る。
すると原稿を見た途端、彼女が声に出して文章を読み始めた。
「登山。登山とはなんだろうか。紋切り型表現で言えば『男のロマン』か。いや、別に男性だけが山に登るわけでは無かろう。とても有名な女性登山家だっている。だいいち『ロマン』という3文字が古い。別の表現で登山という行為を定義するとしたなら――」
「あすかさん、あすかさんっ、声に出さなくたっていい」
音読を中止した彼女は、原稿をロングスカートの上に置いて、うつむいて、
「……すみませんでした」
「謝る必要は無い。だが、今日のきみの挙動は平常と違う気がしてならない。少しカラダとココロを休めてみたらどうだ」
「珍しいですね。結崎(ゆいざき)さんが、わたしの心配をしてくれるなんて」
「そ、そうか?」
彼女は自分自身のロングスカートを凝視する。
どんな意味合いの仕草なのか。
× × ×
浅野小夜子(あさの さよこ)が勝手に編集室に入ってきて、
「あれっ結崎だけ?? あすかちゃん来てないの」
「来ていたが、帰った。早退だ」
「体調でも悪かったのかしら」
「分からん」
「じゃあ、精神的にイヤなことでも」
「どうだろうか」
「ちょっとぉ。もっとあの子を心配してあげるのも、結崎の役目よ??」
「……してるさ」
「モンスターエナジーの缶を持ちながら言うと、説得力が皆無になるわね」
なにを言うか。
たしかにぼくはモンスターエナジーの缶を持っている。しかし、ぼくの発言の説得力とモンスターエナジーに関係は無いだろう。
この女には、そこが分かっとらんのだ。
それに、
「おまえ把握してるか、浅野!? ぼくを煽るために編集室に入ってくるのが、今週3度目だということを」
だがしかし、この留年女子大学生は聞く耳を持たない。
自らのスマホに視線と意識を集中させている。
× × ×
浅野はパイプ椅子に腰掛けながら、ひたすらスマホのみと向き合っていた。
アホか。
「おい、そろそろ出て行けや」
「ちょっと待ちなさいよ。たぶんすぐに、あすかちゃんからのLINEの返信が来るの」
「おまえ、あすかさんとやり取りしてたんか」
「気付かなかったの!? アホね」
「んなっ……!」
「あ、LINE来た。……なになに??
『とってもおなかがすきました。わたしの自腹でいいので、ヤケ食いに付き合ってくださいませんか』だって」
『ヤケ食い』?
腰を上げかかっている浅野が、
「わたしあすかちゃんのヤケ食いに付き合ってくるわ。絶対にあなたはついてこないでね、結崎。もう一度言うわよ、絶対にわたしたちを追いかけてこないで」
ぬぬ……。