「ボクシングに関する文章を書いたんだが」
そう言って、戸部あすかさんに原稿を手渡す。
「どうかな」とぼく。
ひとしきり眼を通してから、
「わたし、ボクシングっていうスポーツは結構身近なんです」
とあすかさん。
「高校時代、スポーツ新聞部の取材でボクシング部によく行ってましたし。実は兄も昔、ボクシングジムに通ってたことがあって」
ほお。
「結崎(ゆいざき)さんのこの文章は、よく調べて書かれてると思いましたよ」
褒めコトバを添えて、原稿をぼくに渡す彼女。
だったのだが、急に、ぼくのデスクのほうにジトーッと流し目を送って、
「ところで」
と言って、
「エナジードリンク、ほんとーにほんとーに大好きですよねー、結崎さんは」
と、ぼくのエナジードリンク好きを皮肉るような声音(こわね)で言ってくる……。
「長生きしたくないんですか?」
とあすかさん。
「寿命縮んじゃいますよ、マジで」
とあすかさん。
「ま、まだ、健康寿命とかそんなもの考える歳でもないし」
「そのりくつはおかしい」
「!?」
「20代に不摂生だと、30代40代になって必ずツケが来る。――正論でしょ?」
「き……きみの経験則か、それは。身近に『ツケが来た』人がいたりとか」
彼女は朗らかに笑うばかりだった。
曖昧にしないでほしいんだが……と思っていたら、
「とりあえずエナドリ片(かた)しましょう。カフェインは無糖のコーヒーで補給したりしましょう」
そんな。
「む無理だ、エナドリをいきなり断(た)ってコーヒーにシフトするなんて」
「結崎さん!!」
「お、おい」
「鉄と鋼の意志を持ちましょうよ。なんとしてでもエナドリの誘惑に耐えるんです」
立ち上がるあすかさん。
エナドリの缶を手に取り、グシャッと潰すあすかさん……。
× × ×
『おなかがすきました』と言って、あすかさんは編集室を去っていった。
エナジードリンクが一掃された虚しきデスクを見つめていると、『ゴンゴン』という荒いノック音が響いてきた。
どうせ浅野小夜子(あさの さよこ)だろ……と思って出てみたら、予想は的中。
「あすかちゃんは?」
「彼女は空腹で退室した」
「食事に行ったのね……入れ違いになっちゃったわ」
「浅野。おまえの日ごろの行いが悪いから、入れ違いになるんだぞ」
「なにそれヒドい結崎」
「ヒドくないわっ!!」
「ヒドいったらヒドいのよ」
最高にムカムカする笑いを見せやがって。
アレだ、笑いではなく、嗤(わら)いだ。
なめくさりやがって。
おのれだってぼくと同じく落第生のクセに。
「なあ。来週には後期もスタートするわけだが、アレか、6年生まっしぐらコースとかなんか、おのれは」
「なーにそれ」
「……」
「わたし5年で卒業するつもりよ。あなたとは違うんです☆」
「いつの時代の総理大臣のコトバだ……」
浅野の、7割がた嘲笑の笑顔を、見たくない。
「就職はどうなる? フリーターか、やっぱり?」
眼を逸らしながら訊くと、
「あなたに教える義務なんて無いでしょ☆」
と、神経を逆撫でするコトバを発してきた。
ので、
「30分だ。30分でここから出ていけ」
「分かったわ」
「命令だぞ?」
「30分間は、あなたを好きにイジったりイジメたりしてもいいってコトね」
ぼくがいつそんなコト言った。
× × ×
浅野のどうしようもない喋りぶりをBGMにしながら、PCで原稿を書き続けていた。
PCの時刻表示を見て、浅野が入室してきやがってから30分経過したはずだ……と判断し、安楽椅子の向きを180度転換させる。
憎々しい留年女子大学生に向かい、
「おい、30分経ったはずだ。帰り支度をするんだな」
と告げる。
ところが、
「ん……」
と、浅野の反応が芳しくない。
ぼくは浅野の異変に気付き始めた。
さっきまでの威勢の良さが、いつの間にか鳴りを潜めていたのだ。
どうしたってんだ。
なんだかソワソワし始めてるじゃないか?
そうだよな。
まるでなにかをとても気にしてるかのような。
……いや。
「なにか」ではない。
「なにか」ではなく、「だれか」のことが、凄く気になってるかのような。
なんなんだコイツは。
「おまえ様子がおかしくないか!? 180度態度が変わってるじゃないか」
問いかける。
が、ぼくのせっかくの配慮も空振りで、完全に「うわの空」状態になり果てている。
小さな気付きが、ぼくの内部に芽生えてくる。
「なにか」ではなく「だれか」の存在を気にしている。
おそらく、ぼくたちに小さからぬ関わりのある人物。
まさか。
もしや。
「浅野」
呼んでみる。
呼ばれた浅野はピクリ、となって、真顔で少し目線を上げる。
「おまえ、もしかしたら、『そろそろ一眞(いっしん)さんが、この部屋にやって来てくれる頃じゃないのかしら……』とか思ってるんじゃないか?」
浅野の眼が途端に大きく見開かれ、
「どうしてわかるの……。どうして気持ち悪いぐらい、わたしの気持ちを見通せるの」
と、弱々しい声をこぼしてきた。
× × ×
『一眞(いっしん)さん』とは。
すなわち。
ぼくの兄貴の名前である。
浅野小夜子の『年上男性への憧憬(しょうけい)』が……ますます、明白に。