藤村杏(ふじむら あん)さん。
わたしが通っていた高校とわたしが通っている大学のOG。今年から社会人である。
わたしの兄貴なんかよりも絶対立派に働いているはずの、カッコいい女の人だ。
日曜日の昼過ぎに藤村さんはお邸(やしき)を訪ねてきた。
出迎えてあげたわたしに、
「あすかちゃん、利比古くんはどーしてるの?」
と訊く彼女。
「申し訳無いんですが、階上(うえ)の部屋に絶賛籠(こ)もり中です。きっとろくでもないコトに没頭してるんですよ」
「キビシイね」
「利比古くんですから」
「そんなもの?」
彼女はゆっくりと広い応接間のソファに近づき、腰を下ろした。
座りかたが、気になった。
もしかして……藤村さん……お疲れ状態?
立派に働きすぎて、休みの日になっても、疲れが抜けないとか……。
「眠っても、なかなか疲れが取れなくて」
あっ。
彼女のほうから……言ってきた。
× × ×
「これを飲んで気持ちを温めてください」と言って、ホットココアを差し出した。
口を付けて、「あちち」と、ココアが熱すぎたのかいったんカップを離す。
カップを置いてココアを冷ましたあとで、ぐいーっと一気に飲み干していった。
その飲みっぷりが気になった。違和感があった。
「藤村さん」
「なにかな」
「お仕事、キツイんですか?」
「キツイ」
「どのくらい?」
「マンションの部屋に帰ってから、しばらく着替えもできないぐらいに」
「ひとり暮らしを始められたんですよね」
「始めたよ」
「相当キツイのでは。ご家族にサポートしてもらったりは……」
「助けてくれるよ、意外にもママがいちばん優しいの。でも……」
「でも?」
「灰色だから、うちの会社。黒と白の中間」
「ブラックとホワイトのあいだってコトですよね」
「そ。グレー企業。そうだから、ママやパパが助けてくれてもどーしよーもない部分もあるの」
だんだん藤村さんの目線は下降していた。
「このままだと、『なにがやりたいのか』を忘れていっちゃいそう」
そうポツリと呟いた藤村さん。
彼女の本音で、場の空気がシリアスさに包まれていく。
わたしは、彼女よりは、元気だから。
こんなふうなシリアスさを突き破りたくて。重い空気を一掃したくて。重苦しくなっちゃっている藤村さんを、ほぐしてあげたくて。
素早く、藤村さんのすぐ右隣に、座る位置を変える。
「あすかちゃん、どうしたの」
「ピンチなんですよね。ピンチなんでしょ? そうでしょ?」
「わ、わたしが……?」
コクンと頷いてから、
「藤村さん。わたしはまだ社会人じゃないけど、人のいたわりかたぐらい、少しは知っていて。どう慰めるべきなのかも、どう癒やすべきなのかも」
それから、
「わたしのほうを向いてください」
とお願いしてみる。
言われるがままに彼女はわたしと向かい合う。
好機を逃したくなくて、彼女をムギュッ、と抱きしめる。
「ひゃ、ひゃあっ、あすかちゃん!?」
藤村さんの声が派手なファルセットになる。
わたしは藤村さんの背中をどんどんさすっていく。
「絶対の絶対、背中も肩も凝ってますよね、凝りまくってますよね」
「……まくってるよ」
「わたし、藤村さんが『ラクになった』って言うまで、背中、さすり続けてあげるから」
「言った……あとは?」
「揉むに決まってるじゃないですか」
「肩を?」
「肩を」
「……」
「不安がらなくても、上手に揉んであげられますから、わたし。お兄ちゃんに揉みかた習ったことがあるんですよ」
「戸部に……直接?」
「藤村さんなら分かるでしょ? わたしの兄貴はマッサージのことも熟知してるって」
藤村さんの顔のあたりが熱くなってきているのを感じた。
「そろそろ、背中もラクになってきたかなあ」
「あすかちゃん……」
「ハイ」
「あつく……なってきちゃった……」
「背中がラクになったかどうかを知りたいかな、わたしは」
「よ、容赦なし」
「てへっ。」
× × ×
「オイオイこりゃどーゆーこった。あすかおまえ、藤村の肩をガッチリ掴みやがって。どーゆー流れで肩を掴むに至ったのか」
いつの間にか『プチ帰省』でお邸(やしき)に帰ってきていた愚兄が、応接間に迷い込んできた。
「お兄ちゃんに口を挟む権利なんてありません」
「おいコラあすか」
苦笑の藤村さんが、
「戸部……降参しちゃった、わたし」
「あすかに??」
「うん。肩も背中も二の腕も、全部全部ラクにしてくれたんだもん。戸部、あんた仕込みの『ほぐし技術』だってのが、悔しいけどさ」
愚兄は後頭部をポリポリして、
「それは、良かったみたいだな」
「良かったよ。悔しいけど戸部のおかげでもあるし……」
藤村さんは、わたしと眼と眼を合わせて、
「今日のあすかちゃん、いちばん優しいときのママよりも、ずうっと優しかった。ありがとう。5年分ぐらい、感謝する」
「いやいや、『5年分』って」
と苦笑いしつつわたしは言うんだけど。
藤村さんがわたしの胸に強烈に顔を埋(うず)めてきているから……嬉しいのと同時に、このあとの対処の仕方に困ってしまうのであった。