大学の、最終年度が始まった。
どっかのギンと違って、単位をきちんと取っていたから、あまり講義に出る必要がない。
講義に出る代わりに、公務員試験の勉強に時間を割いている。
それでも、時間というものは余ってしまうもので。
あたしは余った時間を使って、新しいことにチャレンジすることにした。
それは――。
× × ×
きょうは肌寒い。
もう少し重ね着してくればよかった。
失敗だった。
寒暖の差が激しい昨今。
――どうりで、葉山ちゃんも調子崩しちゃうわけだわ。
もう少しで陽も沈みそうだ。
あたしはとあるお邸(やしき)のインターホンを押した。
豪邸というに相応(ふさわ)しいお邸である。
出てきたのは、大学の後輩の戸部くん。
そうあたし、戸部くんの邸(いえ)にお邪魔しようとしているのでした。
「どうもこんにちはルミナさん」
「こんばんわ」
「あー、もうそんな時間ですか」
「5限なかったんだね、戸部くん」
「ハイ。速攻で帰ってきて」
「学生会館、寄らずに?」
「ハイ。行ってもよかったんですが」
「でも行かなかった」
「ハイ」
「よしよしいい心がけだ」
「タハハ……」
× × ×
とりあえず、大きな大きな広間に通される。
「愛はもうすぐ帰ってくると思いますよ」
「わかった。愛ちゃんが帰ってくるまで、ここで待ってる」
すると愛ちゃんより先に、戸部くんの妹であるあすかちゃんがドタバタと帰ってきた。
「バカ兄貴。当番の自覚があるなら食材買い忘れるなっ。重かったんだから、持って帰ってくるの……」
「悪かったよ、妹をパシリにして」
「あっルミナさんだ。うちの愚兄がいつもお世話になっております」
あすかちゃんは買い物袋を戸部くんに押し付けるなり、そうやってあたしに挨拶してペコリとお辞儀した。
「こんばんわ、あすかちゃん。久しぶりじゃない?」
「そうですね。ルミナさんがここ来るの、珍しいですもんね」
「当番って、食事当番のこと?」
「ハイ! 夕食当番が愚兄だったんです」
「戸部くん料理できるんだ」
「できませんよ」
「できなかったら当番やってねぇよ……」と軽くボヤいて、戸部くんがキッチン方面に消えていく。
「食べてみたいなあ」
あすかちゃん、あたしの「食べてみたいなあ」が意外だったみたいで、「や、やめたほうがいいですよ」とテンパり気味に言った。
「どうして~」とおちょくるように言うあたし。
「そっ、そもそもきょうは何故にうちの邸(いえ)に…?」
すると玄関が開く音が耳に届いて、やがてお待ちかねの愛ちゃんが広間に入ってきた。
「待ってたよぉ~~、愛ちゃん」
「待たせてすみませんルミナさん」
「あやまることないよ」
「おかえりなさい、おねーさん」
「ただいま、あすかちゃん」
「おねーさん、兄貴のせいで夕飯が遅れそうです」
「まぁまぁ、そんなカリカリするもんじゃないの」
「でも買い出しに行かされたんですよ。こんなこと前にもあったし。おねーさんからガツンと言ってやってくださいよ」
「わかったわかった。
でもその前に――ルミナさんをグランドピアノに案内しないと」
「? リサイタルでもやるんですかおねーさん」
「まさか、まさか」
「違うの、あすかちゃん。
愛ちゃんに、弾いてもらうんじゃなくって、
あたしが、ピアノ使わせてもらいたかったの」
「あ、ルミナさん、ピアノ弾けたんですね!!」
「違うんだな、あすかちゃん」
「え……」
「始めたばっかりなの。
4月から新しいことしたいな~ってやつ。
大学の単位もほとんど取ったし、時間余っちゃうしね。
だけど、軽はずみな動機じゃなくって、ゆくゆくは児童文化センターのエレクトーンで、子どもたちに演奏してあげるくらいにはなりたいなーって。
あたしが、卒業して就職しちゃう前にね。それまでには披露してあげたい、わたしの演奏を。」
感激したのか、「夢があっていいですね!!」とあすかちゃんは言ってくれた。
× × ×
立派なグランドピアノがあるものだ。
「しょうじき、葉山ちゃんちのピアノとは、スケール違うね…」
「ルミナさん。わたしも葉山先輩にさっき連絡してみました。ルミナさんにずいぶん元気づけられたって」
じつは普段は葉山ちゃんの家で練習させてもらっているのだ。
葉山ちゃんのレッスンを受けるんじゃなくて、全部自分で教則本片手に練習してるんだけど。
葉山ちゃんに負荷をかけたくないし、迷惑もかけたくない。
彼女の体調の様子をみて――彼女が元気な日に、お邪魔して、ピアノの部屋を使わせてもらっている。
『ピアノを借りる代わりに、なにかしてほしいことあるー?』って訊(き)いたら、少しためらったあとで、『部屋がグチャグチャで、自分だけじゃ整頓できなくて……』と弱り気味に言ってきたから、『わかった、部屋を掃除してもらいたいんだね』と引き受けた。
ギンと違って、整理整頓は得意なのだ。
葉山ちゃんは、整理整頓が苦手な代わりに、お料理が得意なことがわかってよかった。
葉山ちゃんが元気なときに、また彼女の手料理を食べてみたい!
「……でも、戸部くんの手料理にも興味あるかな」
「食べてみますか?」
「いい?」
「いいですけどあんまり期待しないでくださいね」
「ヤッター」
「アツマくんに伝えてきます」
彼女の背中に、
「――愛ちゃんからみて、戸部くんの料理、どう思う?」
ぴた、と彼女は立ち止まって、
「……味付けが大ざっぱなんですよ。
繊細さが足りない。
盛り付けもヘタ。
でも……彼の料理には、ぬくもりがあるから……。
こんなふうに寒い日だと…彼の料理…なんでか知らないけど……不思議とこころがあったまるんです」
× × ×
そう言って彼女はキッチンに行った。
あたしはニヤニヤとしてしまって、教則本の楽譜がしばらく頭に入ってこなかった。
愛ちゃん、かわいい。
愛ちゃんと戸部くんの関係も、とってもかわいい。