蜜柑さんへの「お誘い」。
それは、とある野外ステージで行われる小規模な音楽フェスへの「お誘い」だった。
× × ×
木曜日の夕方に始まったフェス。空の暗さが増すのに比例して、お客さんの数が増してくる。
会社帰りの人。学校帰りの子。会社帰りでも学校帰りでもない人。
いろいろだ。
「東京はいいですよね。平日にやるフェスなのに、これだけ賑わうんですから」
そう言いつつ、蜜柑さんの横顔を見ようとする。
彼女は熱い視線をステージに注いでいた。
もしかしたら、ぼくの発言は演奏にかき消されていたのかもしれない。
構わない。
彼女がこれだけ熱くなってくれているんだから。
蜜柑さんが熱い視線を注ぎ込んでいたのが一応の『ヘッドライナー』だった。
ぼくの見立てでは、このバンドの演奏力が今回の出演者の中で最も高い。
素人の意見である。部外者の意見である。
だけど、ぼくの耳がどれだけ研ぎ澄まされているのか、この場で確かめてみたくもあった。
だから、演奏が終わってひとしきり拍手と歓声に場が包まれたあと、興奮冷めやらぬ様子の蜜柑さんに、
「あのバンドの演奏が今回のベストパフォーマンスだったと個人的には思うんですけど、蜜柑さんはどう思いますか?」
「『今回の』っていうのは、今日のフェス全体を通して、ってこと?」
「ハイ」
「……みんな良かった。みんな違って、みんな良かったわ。だけど、やっぱり『トリ』を飾った方々の演奏が、群を抜いていた感じがする」
「蜜柑さん。便利なコトバがあるんです」
「?」
「『トリ』とほとんど同じ意味なんですけど、『ヘッドライナー』というコトバがあって」
いったん息を継いでから、
「意見が合いましたね。『ヘッドライナー』に2つ、票が入った」
× × ×
晩秋の冷えた空気が公園にも漂っている。
夜なんだから、なおさらだ。
ぼくの右隣を歩く厚着した蜜柑さんが、
「今日のムラサキくんは、かなりのハイテンションね」
「馴れ馴れしかったでしょうか? テンションが上がり過ぎて」
ふるふると首を横に振った蜜柑さんが、
「そんなことないわ。これぐらい積極性があるほうが、こっちも楽しくなる」
「楽しくなる、ですか」
夜空を見上げつつ、
「そう言う蜜柑さんだって、フェスのときはハイテンションだった。とりわけ、『ヘッドライナー』が演奏してるときは」
と言うと、彼女はすぐさま、
「も、もうっ。からかうつもり?」
と、素(す)に満ちた声を上げて、
「あなたがそんなふうに言うの、たぶんわたしこれまで体験したこと無い」
と、やはり素(す)の声で言う。
ぼくより背が高く、ぼくより年上の彼女が、顔をこちらに向けてきているのを実感する。
「ねえ。どこか屋内に入りましょうよ。グズグズしてると、どんどん冷え込むわよ?」
「分かりました」
「わたし、この付近にあるブックカフェに行きたいわ」
「前にそのブックカフェに行ったことは?」
「……無いけど。情報をインプットしてただけだけど」
「コーヒーを飲んでしまうと、もう1段階テンションが昂ぶる気もしますが。カフェインを摂取するのは就寝の数時間前まで……とか言いますよね」
「どうしてそんなにイジワルになるの、ムラサキくん!?」
「昨日蜜柑さんが思う存分イジワルしてきたから、かなあ」
「……ばかみたい。」
× × ×
彼女の機嫌が少し悪くなるとともに、彼女のまとう雰囲気が少し幼くなった。そんな感じがした。
女子高校生みたいだ。
カチャン、とコーヒーカップを置いて、
「ムラサキくんは男子校出身? それとも――」
「共学の高校でしたよ」
「……そう」と、どうしたことか彼女は照れ出して、
「じゃあわたしとおんなじね。わたしも共学校だった。あんまり賢くない高校だった」
「蜜柑さんの高校が共学だったこと、前に直接聞いた気もします」
「偏差値のことは?」
「そんなの聞いたことありません。そもそも、賢いか賢くないかなんてどうでもいい」
「……角砂糖を3個投入したカフェオレみたいな意見ね」
「とても難解な喩えをするんですね」
プイ、と彼女が眼を背けた。
こんなに可愛らしい仕草をするとは。
しばらく見入っていると、
「こんなわたしの顔面をそんなふうに眺め続けたって、どうにもならないでしょうに」
「そうですね、たしかに」
でも、
「ですけど、無益なことであっても、その『無益さ』自体が尊いという考えもある」
「悟ったみたいに」
「コドモじゃないですから」
「そんなにボーイソプラノなのに?」
「ええ」
頑張って、彼女に対して、柔らかな微笑を作ってあげようとする。
しょうがないわね……と言いたげに、彼女は溜め息をつく。
だけど、溜め息をつき終えた次に、彼女は、蜜柑さんは……ステキな苦笑いに。