講義のコマが入っていなかったので、遅めに起きた。
朝ごはんを食べにダイニングに下りると、
『ちょっと出かけてきます。郵便受けの郵便物を回収してくれたら嬉しいです』
という蜜柑の書き置きが置いてあった。
朝からどこに行くのかしら……と思いつつも、ごはんが早く食べたかったので、蜜柑が作っておいてくれたスープを温め直したりする。
× × ×
読みかけだった新書の残りを読み切ったあとで、玄関を出て郵便受けへと向かう。
郵便受けを開いてチラシなどを回収する。
その中に、黄色い封筒が混じっているのに気がついた。
手に取ってまず感じたのは、その厚み。
長文の手紙が中に入ってたりするのかしら。
でもいったい、だれから……。
封筒を裏返す。
すると、なんとハルくんのフルネームが書かれていた。
わたしの彼氏から、わたしへのダイレクトな手紙。
しかも、厚みを考えると、そうとう長文の手紙。
嫌な予感しかしない。
心地良かったはずの秋の風が気持ち悪く感じられてしまうぐらい、どす黒い不安がわたしを襲撃してくる。
× × ×
階段を上がり、自室に入る。
立ったまま、震える手で、開封する。
汚い字でビッシリと埋められた手紙が眼に飛び込んでくる。
それは、悪夢のような書き出しだった。
『この手紙をきみが読む頃には、おれは飛行機の中にいると思う』
果てしなく心拍数が上がる。
極度の動揺で、その場に崩れ落ちることもできない。
ただひたすらの棒立ち。
先を読むのが恐ろしい。
だけれど、恐ろしさを抱いたまま、視線は横書きの汚い文字を走っていく。
× × ×
ハルくんの行き先は南米だった。
『現地の日本人学校の子どもたちにサッカーを教えてほしい』と頼まれた。
頼んできたのは、ハルくんの従姉妹である椎菜(しいな)さんを介して紹介された男性だった。
大学は休学する。
たぶん滞在は長くなる。
だから、しばらく会えなくなる。
『広い世界に出て、広い世界が見てみたかったんだ』
ほとんど常套句の文言が、手紙には刻まれていた。
『正直に言うと、単調な日々の繰り返しに物足りなくなってきて。物足りなさが、日々を重ねるごとに、危機感に変わっていって。この国のこの場所に居続けていると、ダメになってしまうんじゃないか……と思って』
それに続けて彼は、
『ほら、人生って、1度きりじゃないか』
と書いていた。
だれもがそうでしょう。
だれもが人生は1度きりよ。
汚い文字、行ったり来たりの文章の運びかた、使い古され過ぎた決めゼリフの連発。
こんなの、手紙じゃないわ。
そう。手紙なんかじゃない。
重大なメッセージが、あなたの筆の運びかたで、台無しになってるわ。
ハルくん、あなた、まるで成長していない……。
わたしが寄り添った月日は、いったいなんだったのよ……。
『人生って、1度きりじゃないか』
というフレーズの書かれた行(ぎょう)のあたりに、涙が自然とボロボロ落ちる。
勉強机の上に手紙を置いて、両手を机の上に突いて、涙を流し続ける。
予兆が無いわけではなかった。
振り返れば、ここ数ヶ月、意味深な素振りを、彼は繰り返しわたしに見せていて。
それがサインだったのだ。
だけれど、わたしはそのサインを全部見過ごしていた。
だけれど。
「どうして……どうして、だれにも言わなかったのよ。前もってわたしに告げてくれていたら、覚悟だってできていたはずよ。どうして、『行く』当日になって、こんなどうしようもない手紙モドキを寄越(よこ)して……」
机に突っ伏して、右の拳で机上(きじょう)を強く叩いた。
どうしようもない何枚もの手紙モドキにわたしの顔面が重なって、濡れていく。
× × ×
泣き疲れて、机に突っ伏する気力もなくなった。
呆然とベッドに座り、涙でボロボロになった手紙モドキを見る。
右の拳を、手のひらが痛くなるぐらい握る。
それから、ぶんぶん!! と首を横に振り続ける。
残り僅かな気力を振り絞って、わたしは立ち上がる。
× × ×
階下(した)には蜜柑が帰ってきていた。
わたしは早口気味に、
「蜜柑、わたし出かけるわ」
「え、どこに出かけるんですか?」
「成田よ」
「ナリタ? ……もしかして、成田空港の、成田?」
素早く首肯する。
「いったいなんの用があって」
「あとで説明するから」
「……。成田エクスプレスに乗って?」
「乗らないわ」
「じゃあ、どんな手段で」
「クルマよ、クルマ。電車の発車時刻なんか、悠長に待ってられない」
そう言ってわたしは駆け足になる。
お父さんのクルマの鍵の在り処は知っていた。
お父さんがそういったことに無頓着だから、知っていた。
ガレージに走る。
お父さんが複数台所有しているクルマの中で、高速道路を走るのにいちばん都合のいいクルマを選ぶ。
間に合うかもしれないから。
だれがなんと言おうと、間に合うかもしれないから。
お父さんに怒られることなんて捨て置き、わたしはクルマにエンジンをかける。