成田空港にハルくんが留まっているわけなんてなかった。
ハルくんを乗せた飛行機が既に飛び立ったことを理解してしまった。
生まれて初めてであるぐらいの、現実の重い把握だった。
成田空港のターミナルの高い天井が、のしかかってくる。
× × ×
極端な安全運転で東京のわが家(や)に帰った。
× × ×
陽が沈もうとしていた。
キッチンで野菜を切っていた蜜柑に、事情を早口で洗いざらい打ち明けた。
夕飯を食べたくないことを言ったら、蜜柑は黙ってうなずいた。
ごはんは食べられなくても、お酒は飲みたかった。
猛烈に飲みたかった。
暗くなった空が再び白(しら)み始めるまで、飲み明かしたかった。
キッチンの冷蔵庫とリビングを何度も往復し、ありったけのお酒を運んだ。
蜜柑はなにも言わなかった。
まずロング缶のビールを立て続けに3本一気飲みする。
お酒に全ての意識を集め、飲んで飲んで飲んで飲みまくる。
それでもアルコールは、わたしを打ち負かせない。
缶チューハイを6本飲み干したあと。
どこからともなくテーブルに現れていた最高級のウィスキーを、無意識のうちにテーブルに用意していたロックグラスに注(つ)ぎ込む。
瞬く間に最高級ウィスキーが空(カラ)になった。
このペースだと日付が変わる前にありったけのお酒が早くも尽きてしまうことに気が付く。
ペース配分の失敗に絶望感を抱きつつも、テーブルを埋め尽くしたお酒たちに手を伸ばせる限り手を伸ばす。
止められない。
止められないし、ハルくんへの怒りと哀しみがムクムクと膨らむのも止まらなくなる。
赤ワインの瓶をテーブルに叩きつけ、
「ハルくんのバカ。ハルくんのバカバカ。大バカ。恥知らず。恩知らず」
と見えない彼に向かって罵倒を投じ続け、
「ハルのバカ。ハルのバカバカバカ。バカハルっ。バカハルバカハル、は、ハルバカっ……!」
と、ついに人生で初めてハルくんを呼び捨てにし、コンプライアンスを逸脱するレベルで「バカ」を連呼する。
だれがどう見ても悪酔いだった。
× × ×
バカ酔いしたわたしは、帰ってきたお父さんとお母さんに叱られた。
特にお父さんには、お父さんのクルマを勝手に運転したことで2倍叱られた。
一方、蜜柑は、わたしをたしなめもしなかった。
「お説教役」に蜜柑がなるんじゃないかと思っていたのに、わたしの泥酔ぶりに不思議と寛容だった。
寛容なのに加え、
『お嬢さま。わたし、お嬢さまの部屋に布団敷きますから。今のお嬢さまに寄り添わない理由が存在しないので。――いいですね』
と告げて、わたしのベッドのそばに布団を運んできて……わたしの暗い暗い夜に寄り添ってくれた。
× × ×
激しい頭痛と共に朝が来た。
遅い寝起き。そして二日酔い。
ベッドに横たわりラチのあかない状態のわたしに、
「案の定ですね」
と蜜柑が言う。
「お嬢さまの『手当て』で、わたしの午前が終わっちゃいそう」
天井に向かってシュンとして、
「ごめんなさい」
と謝るわたし。
「構いません」
蜜柑は、
「こういうことも、住み込みメイドの仕事に含まれるので」
と言って、ベッドの縁(ふち)に腰掛ける。
「優しいのね。意外だわ」
わたしが言うと、
「あんまり嬉しくないことを言ってくれますねえ」
と返し、
「アカ子さん。あなたならご存知でしょう? 似通ったような経験を、わたしがわたしの高校時代に味わったことを」
「……『Kくん事件』?」
「そうですよ」
「片想いしてた男子(ひと)に、蜜柑が勇気を出して告白したのに、見事に玉砕して……」
「『玉砕』という言いかたはやめてください」
「……」
「まあ、今回の『事件』と『Kくん事件』、ニュアンスがだいぶ違うような気もしますけどね」
そうね。
分かるわ。
「蜜柑の『Kくん事件』は、完全に失恋だった。だけれど、わたしの今回の『事件』は、失恋というわけではない。わたしはハルくんにフラれたわけじゃない。交際を断つわけじゃない。……地球の表と裏で、離れ離れになっちゃったけれど」
「そーゆーことです」
「だから、海の底に沈んじゃうぐらい絶望しなくたって、諦めなくたって……ということ、なのよね?」
「流石にアカ子さんは賢いですねえ」
「蜜柑。」
「ハイ。」
「いろいろ、やってほしいわ。わたし」
「いろいろ、お手当てを……ですよね」
「ええ」
「かしこまりました」
「ありがとう。あなたのありがたみをこんなに感じてるの、令和になって初めて」
× × ×
知り合いからどんどん慰めのメッセージがスマートフォンに届いている。
ハルくんに激怒した愛ちゃんが、LINEで長文を何回も投下している。
もちろん愛ちゃんの気持ちは、深く理解している。
けれど、だから。
よろよろとした手付きで、LINEアプリに、
『ハルくんのことも、ほんの少しだけ、わかってあげて』
と入力して、愛ちゃんに送信する。