愛が夏風邪から復活した。
すっかり元気になって、家事をテキパキとこなしている。
現在(いま)は金曜、日が暮れたあと。
『月曜から金曜まで働き詰めで疲れてるでしょ?』とおれを労(いたわ)ってくれた愛は、晩飯を作ってくれている。
野菜たっぷりラーメンが着丼(ちゃくどん)した。
「いただきます」のあとで、スープを味わう。
うむ。
専門店並みだ。
疲れも取れる。
それから麺を啜(すす)る。
うむうむ。
専門店と同等の麺だ。
並大抵の縮(ちぢ)れ麺ではない。
美味い。
多くの野菜もスープと絶妙にマッチしていた。スープとの相乗効果で、野菜の栄養も倍増しになっている。
スープを完飲(かんいん)して丼(どんぶり)を置いたおれは、
「どうもごちそうさまでした」
と愛に向かって言う。
「お粗末さま」
正面の席の愛が微笑む。
「――周到にスープを仕込んだのは分かったけど、いったいこんな麺、どこから取り寄せたんだ?」
ルンルンに愛は、
「それは秘密よ♫」
と言う。
「秘密にしたら気になるもんだろ」
「教えないもん♫」
「ったく」
「アツマくん、丼をわたしに渡してよ。洗ってあげるから」
「え? 悪いよ。食器洗いは基本、おれのほうの分担だったろ?」
「柔軟性が無いわね」
おいっ。
「洗ってあげるって言ってるでしょ♫」
……。
× × ×
時刻は夜8時を回ろうとしている。
『読書タイム』の前に、CDを1枚聴くことになった。
音楽と本、それからそれから……という流れである。
「ねえアツマくん。モーツァルトとコルトレーンだったら、どっちがいい?」
クラシックVSジャズってか。
「現在(いま)のあなたの素直な気持ちを教えて」
「ふむ……」
「あんまり悩んじゃイヤよ?」
愛がおれの眼前(がんぜん)に一気に近づいてくる。
顔に顔を近づけてきやがる愛。
17センチほどの身長差があるので、背伸びして顔を近づけてきやがっているんだが、
「おまえがもう少し顔を離したら、決断する」
「えー、どーしてよ」
「社会的距離的な問題」
「意味がちょっと分からないわよー」
「……おれも、言いながらこんがらがってきた」
「ダメじゃないの」
「……モーツァルト。」
「に決めたの?」
「ああ。決めた」
大いに満足したような表情で、背伸びするのをやめ、CD棚に向かっていく愛。
顔と顔が近づいたから少しハラハラしたのは……内緒だ。
で、鑑賞。
「なあ、モーツァルトって、熱心な信者と同じぐらい、熱心なアンチが居るんだって?」
「私語は慎みなさいよアツマくん。曲が流れてるのよ」
「正論ありがとう。ただ……」
「だから私語は慎みなさいって」
肩を寄せてきながら言ってくるんだもんなー。
素直に引き下がって、愛の左肩の温(ぬく)みを感じ取る。
× × ×
「バッハだってベートーヴェンだってアンチは居るだろうから、モーツァルトにだって居るのは決まってるわよ」
「そこらへんの諸事情について、愛さんに是非ともご教授願いたい」
「ヤダ。もうすぐ21時で、『読書タイム』だし」
「ちぇっ」
「は~い、舌打ちやめましょうね~~」
「コドモ扱いみたいな口ぶりはやめれ!」
「あなた今夜、私語に加え舌打ちのダブルパンチ」
「はあ!?」
「反則よ」
「反則って。ペナルティでも課す気か?」
「さすがにそこは分かってるのね」
「どんなペナルティだ。早く教えれ」
「小林秀雄」
「小林秀雄がどーしたんだよ」
「連想って。いったいどんなつながりが」
愛が盛大な溜め息をついた。
苦笑い混じりに。
なんだコイツ。
「小林秀雄の全集がそこの棚に並んでるでしょう? スペースの限りがあるから、全巻は並んでないけど」
「小林秀雄全集の中から1冊選んで読めと?」
「選択権はあなたに無い。あなたじゃなくてわたしにある」
「なんたる強引さか」
「なによー。こういう強引さぐらい許容してよ」
「……おまえのほうは今晩、なにを読むの」
「話を逸らした。わたしの押しの強さに負けたのね」
ケッ。
鼻歌を歌いながら本棚に行って、小林秀雄全集の1冊と分厚いハードカバーの1冊を持ってくる。
そして、小林秀雄のほうをおれの胸に押し付けながら、
「ちゃんと読むのよ?」
と愛は。
「小林秀雄、読みにくいんだよなあ」
「あなたに小林秀雄の読みにくさのなにが分かるの」
「また挑発的な」
小林秀雄を押し付けてくる強さが増しやがった。
「痛いです、愛ちゃん」
「ばか」
「それと、愛ちゃん、キミのほうはなにを読むことにしたのか気になるんですがね」
「幻想文学よ。最近出た翻訳。南アフリカの小説家の作品。クッツェーに強い影響を受けてる40代前半の書き手」
「ふーん」
「な、なによその眼。まるで面白がってるみたいに……」
「いや、面白いだろ」
「なにが!? なにが面白いの」
「おまえにもいずれ分かる」
「小林秀雄をもう1冊押し付けられたいのかしら!?」