読書会が終わった。
「また次もよろしくね、羽田さん」
院生のひとりが羽田愛さんに言う。
「羽田さんの語学力にはいつも助けられてるよ」
学部生のひとりが羽田愛さんに言う。
言われた羽田さんは、
「ありがとう、そう言ってくれて」
と、その学部生に微笑みかける。
× × ×
読書会の参加者が去り、学修室にはぼくと羽田さんだけが残っている。
「堀之内(ほりのうち)先生。ドイツ語の下訳(したやく)バイトをやってもいいですか」
尋ねられた。
「もちろんいいよ」
「それでは」
ドイツ語のテキストに眼を通し始める。
読むスピードが学部の3年生とは思えない。
こんなに独文(どくぶん)をスラスラ読める学部生に出会ったことがない。
上司も感心していた。
高校生時代から学校でドイツ語は学んでいたそうだが……それにしても。
気になることが1つ。
昨年度、彼女がほとんど大学に来なかった……ということ。
丸1年を棒に振ってしまっているのだ。
これだけのスキルがあるのに、本当にもったいない。
ただ、理由がなければ、1年間を棒に振らないだろう。
春先に、『ずっと不登校ですみませんでした』とぼくに謝りに来たことがあった。
デリケートな事情が付随していることを感じ取り、詮索してはいけないと思った。
テキストから顔を上げる彼女。
栗色のとても長い髪を手櫛(てぐし)で整え、ぼくのデスクのほうへと視線を向ける。
「先生」
笑顔で、
「今年は、頑張りますから」
と言う。
それから、
「去年は1年間、なんにもできなかったんだから」
とも言い、眼を細める。
PCのキーボードを叩く手を止め、
「気に病まないで欲しいと思うな、ぼくは」
とコメントする。
なにがあったのかは、そっとしておくが。
「ありがとうございます」
元気に笑った。
それから彼女は、
「先生。お時間、ありますか?」
「え? お時間?」
なんだろう。
「ご予定は?」
と訊かれたから、
「今日はもう特になにも入ってないけど」
と、とりあえず答えておく。
すると、
「ラッキー」
と言い、
「お話がしたかったんです、わたし。哲学に必要なのは、なによりも『対話』なので」
と言って、
「ウィトゲンシュタインについて話したいんですよ」
と言った。
……少し焦りつつ、
「い、いきなりウィトゲンシュタインと言われてもなあ。ぼくのやってるコトとはちょっとズレるよ??」
「でも、ウィトゲンシュタインの仕事には、堀之内先生だって眼は通されてるんでしょう??」
うぅ……。
「わたしと言語ゲームしましょうよ」
胃の痛みを実感し始める。
そこに、スマホの振動音。
スマホを一瞥(いちべつ)する羽田さん。
それから、
「ほんとにもうっ。――アツマくんってば」
と、いろいろな含みのありそうな呟きをしてから、
「ごめんなさい先生。自分から振っておいて申し訳無いんですけど、ウィトゲンシュタインはまた今度の機会に。彼氏と言語ゲームする羽目になりそうなので」