フルタイムなのは長期休暇にバイトしていた頃と変わらない。ただ、これからはずーっと働き続けるんだし、バイトには無い「責任」も伴う。
フィジカル面よりもメンタル面において負担が大きくなり、それでくたびれて帰ってきてしまう……というわけだ。
正社員になりたてだから、くたびれないほうが変でもあるけどな。
だけども。
新居(しんきょ)のマンションの部屋に帰ってきたら――愛が待っていてくれるわけだ。
ふたり暮らしで良かった。
靴を脱いで部屋に上がると、ただちに風呂のタイマーがピーッと鳴る。おれが帰る予定の時刻から、逆算してくれていたのだ。
「おかえりなさい。おつかれさま。」
エプロンを装着した愛が、真正面に立つ。
「おうよ。ただいま」
そう言いつつ、愛の頭頂部に右手をぽん、と置く。
「ありがとな。いろいろやってくれてて」
「やるわよ。あなたは働きたてで、負担がかかってくるんだし」
良くわかってんじゃんかよ。
寄りかかってきた愛が、ぽみゅ、とカラダを引っ付けてくる。
「アツマくん」
「なんだ? スキンシップの意図でも説明するってか?」
「ちがうわよ」
左脇腹の少し上あたりに顔を押し付けるようにして、
「お風呂にどうぞ。ごゆっくりと」
と愛は。
わかったよ……。
× × ×
ちなみにこのマンションは賃貸ではない。
だれにお金を出してもらったのかは……まあ、別の話だ。
後日。
『お給料入るようになったら、お金入れてちょうだいね☆』とは……母さんから言われている。
× × ×
夕食後、愛がアカ子さんと通話をする。
アカ子さんファミリーには恩があるので、代わってもらって、アカ子さんと少し話す。
夜の8時45分を過ぎた。
NHKのニュースを流しながら、今夜の「読書タイム」についての話をする。
読書中BGMの件だ。
「SpotifyでEDMを流すのは?」
愛が提案してくるが、
「ちょいと騒がし過ぎねえか」
「たしかに。……それなら、ジャズかクラシックかしら」
「ジャズのほうがいいな」
「ジャズにするのなら、だれの音源?」
「そうだなあ」
本棚に匹敵するぐらいの大きさを誇るCD棚を見ながら、
「バド・パウエルとか」
とおれは言う。
「なるほど」
笑みを浮かべる愛。
「なるほどねえ~」
ニヤリとしながら言う愛。
完璧なる美人顔に、難のある性格がにじみ出る……。
……だが、「難あり」もひっくるめて愛という人間なのだ。
おれは、
「そろそろテレビ消すぞ」
と言いつつ、バド・パウエルのCDを棚から抜き出す。
今夜おれが読むのは、西洋美術に関する入門書的なソフトカバーの本だ。
先週発覚した美術に関するおれの「無知」を見かねた愛が、買ってきてくれた本である。
重量も文章も軽い本のように思う。これならば、今日か明日で読み終えてしまえるだろう。
「――ところで、おまえが読む本は?」
座椅子にもたれて本を開きながら、
「あらゆる時代の『源氏物語』についての論考を集めたアンソロジー」
と愛は答える。
へえー。
「へえー。すごそうな本だなあ」
微笑して、
「アツマくんにクイズ」
と言い出す愛。
唐突な。
「『源氏物語玉の小櫛』を書いた人物は、だれでしょう?」
ぐ……。
わかんねえぞっ。
わかんねえけども、なにも答えねえのも、悔しいし、虚しい。
なので、本当に苦し紛れに、
「平賀……源内」
と回答。
すると途端に、愛が大爆笑。
「こ、コラッ」
「おもしろい、アツマくんおもしろいおもしろいおもしろいっ」
「う、うるせぇよ」
「こきゅう、こきゅうが、こんなんになりそうっ、おもしろくて」
「う、う、うるせぇよオイ」
× × ×
平賀源内ではなく、本居宣長でした。