鏡のない世界に行きたかった。
部屋の姿見、家の洗面所、学校の女子トイレ……。
鏡はどこまでも、ついてくる。
鏡だけじゃなくて、窓に自分の顔が映るのが、もう、いや。
× × ×
ヤスノにキレられた。
まさか、あんな凶暴になるなんて。
メガホンで殴られそうになって、本気で恐怖を感じた。
羽田さんに助けられたのが、たまらなく情けなかった。
怖くて、情けなくて、ショックで、なにもできなくなって、
ヤスノが脱走したあとのことは――ほとんど覚えていない。
まるで、自分の弱さをえぐられるような出来事だった。
演出家として、初めて、無力を感じた。
無力さに、絶望を感じると同時に……、
わたしは自分の容姿にも絶望的になった。
わたしから、演劇を取ったら、ブサイクな外見しか残らない。
見たくもない自分の顔を強制的に見せられる、鏡を、わたしは一層憎んだ。
× × ×
木曜の放課後。
稽古に行きたくない。
鏡のない世界。
鏡のない世界。
責任を放棄して、
鏡の存在しない、場所へ、
行きたいけれど――そんなところ、探しても無駄か。
きれいな花が沢山咲き誇っている『ガーデン』から少し離れた、辺鄙(へんぴ)な場所。
ここなら人気(ひとけ)もない。
隠れられる。
ひとしきり、隠れていようか。
困ってるだろうな――演者は。
とつぜん演技指導する人間が消えたんだもの。
演劇部から逃げたのが、卑怯だと思って、
ヤスノに対する復讐も兼ねて、彼女を主役に指名した。
でも――それは、理由のひとつにすぎない。
「事情はもっと複雑なんだけどな。」
どうせここにはだれもいないから、独り言をつぶやいてみる。
「本当に卑怯だったのは……わたしだったのかもしれない。」
地面を蹴りつけながら、自己批判してみる。
その場をグルグルと歩き回る。
なにも、前に進まない。
いま、何時何分なんだろう。
次第に、罪悪感が襲ってくる。
もちろん、稽古を投げ出したことへの、罪悪感だ。
「『6年劇』の伝統復活ならず、か」
わたしのせいで……。
とてつもない、自己嫌悪が湧き上がってくる。
ムシャクシャムシャクシャして、モノを壊したくなる。
自分の冴えない容姿の原因になっている、眼鏡。
腹いせに、眼鏡を叩き割りたくなってきた。
でも、低すぎる裸眼視力が不安すぎて、眼鏡を投げ出す踏ん切りがどうしてもつかない。
いっそのこと――。
――弁当箱を取り出して、すぐ近くの地面に放り投げた。
鈍くクラッシュする音。
無残に転がる弁当箱。
――それから次に、水筒。
水筒も、勢いよく放り投げる。
フタが取れて、とたんに中身の液体が漏れ出す。
漏れ出した液が地面を伝ってジワジワ広がっていくのを眺めていると、笑えてきた。
気持ち悪い独り笑いを、抑えきれない。
だけど――背後に人の気配を感じ始めて、わたしの笑いはピタリと止まる。
劇の関係者以外だったら、目撃されてもそこまでダメージはなかった。
だけど。
「ともかちゃん……ここにいたんだ」
どっからどう聞いても、ヤスノの声だ。
歩み寄って、わたしの隣に立って、
「大惨事……」
弁当箱と水筒のクラッシュぶりを眺める。
しゃがんで、弁当箱を見つめながら、
「壊れちゃってる。もう使えないよ、これ」
「知ってるよ」
「乱暴になっちゃだめだよともかちゃん」
あんたが言えたタチか。
「そっくりそのままヤスノにお返しするよ、そのことば」
「あぁー、きのうは爆発しちゃったね、わたし」
あっけらかんと、よくも。
「羽田さんが全速力で追いかけてきてさ。考えてみたらあの子、スポーツテスト校内1位で、逃げ切れるわけないんだよね」
「羽田さんと話したの?」
「『よかったら事情を教えてくれる?』って訊かれたから、素直に答えちゃった。あの子の前だと、ウソをつけない」
「なにを答えたの、なにを」
「わたしが演劇部を退部した理由……『嫉妬してたんだ』、って言っちゃった」
「…だれに対しての嫉妬よ、それ」
「ともかちゃんに決まってるじゃんか」
「……初耳なんだけど」
「わたしがいても……しょうがないって思ったから。
ともかちゃんの輝きが、まぶしすぎたんだ」
「それお世辞!? あんたみたいな美人には、ブスの気持ちなんてどうせわからない」
天然パーマ、
加えて眼鏡、
そんな不器量(ぶきりょう)のわたしの、
どこが輝いてるっていうの。
「相変わらず――ともかちゃんの話は、飛躍するね」
「まぶしいのはあんたのほうでしょ。まぶしく見えるのは――いつもあんたのほうだったよ」
「自己評価低いんだね」
「あのねえ!!」
ヤスノが、わたしの顔面を、一方的に見てくる。
「――いつも見てた。ともかちゃんを見てた。ともかちゃんは気が付かなくても、わたしはずっと追いかけてた」
「ヤスノ……なにを言い出すの」
だんだん、ヤスノの存在が、怖くなる。
「ともかちゃんが、わたしを主演にしてくれたの、うれしかったの」
「……そうですか。」
「だから、どんなにキツいこと言われても、耐えなきゃ、って思った。わたしのことを思って厳しくしてくれるんだって、勝手に思い続けてた。――でも、思いが重くて、『耐えなきゃ』『厳しくされるのには意味があるんだ』っていう思いが、重荷になって、のしかかってきて……とうとうきのう、我慢ができなくなっちゃった。ごめんね――あんなに取り乱しちゃって」
「わたしは……わたしにないものを、あんたが持っているから、あんたを主役にしたんだよ」
「なんにもないよ、わたしには」
「なんにもないわけないでしょ。
あんた、みんながうらやましがるぐらい……キレイなんだよ」
キョトン、とするヤスノ。
ヤスノは――鏡で自分の顔を見ても、なんとも思わないんだろうか。
そんなのズルい、ズルい女だ。
だけど――そんなことよりも、せめてもの罪滅ぼしをしたくって、
「謝るのは、わたしのほうだ」
「どうして?」
「『敗残者』だとか…きのうは、言い過ぎだった。あんたの言う通り、飛躍してたよ。罵倒すれば罵倒するほど、脱線していって、『敗残者』だなんて……悪かったと思う。たぶん、あんたにメガホンで殴られても、甘んじて受け入れてた」
「手を出そうとしたほうが――悪いから」
「一発ぐらいなら、よろこんで殴られてたよ」
「なにそれ」
ぷっ、と吹き出すヤスノ。
わたしも、自然と笑い返す。
苦笑いで、わたしは、
「『敗残者』とか言っちゃったんだけどさ……いまのわたしとあんた、とんだ負け犬だね」
「だよね。舞台から、逃げてきた」
さーて、転がった弁当箱と水筒を回収して……とか思い始めていたら、
『ここにいたのね、ふたりとも』
羽田さんが現れた。
野生のポケモンみたいに、現れた。
とつぜんのエンカウント。
ひょっこりと現れた羽田さんは、腰に手を当てて、『まったく、もう…』とたしなめるような表情で、わたしたちを見ている。
そんな表情も、かわいい。
もっとも、羽田さんなら、どんな表情でも、かわいい。
罪な美少女が、わたしの周りにふたり。
――でも、わたしにとって最高の美人は、八洲野(やすの)あやねのほうだ。
「自主練してるよ、みんな。水無瀬さん、気持ちはわかるけど、わかるけどさ、……早く来てほしいな」
「わかってるよ」
縮(ちぢ)れた髪をかき上げて、わたしは歩み出す。
「ほら行くよ、ヤスノも」
「了解です、水無瀬先生」
「…なにその呼びかた」
そして、羽田さんの後ろについて、稽古場へとふたたびわたしたちは向かっていく。
リスタートだ。
演出家と主演女優の――リスタートだ。