本番終了後、水無瀬さんの申し出通り、体育館裏にわたしは来た。
水無瀬さんが、いる。
「来てくれてありがとう、羽田さん。
まずは――お疲れ様」
「お疲れ様……。
えーっと、それで、なんの話するんだっけ」
水無瀬さんは穏やかに笑うばかり。
「進路の話…だっけか?
ほら、水無瀬さん、演劇の勉強がしたくて、日芸が第一志望だったとか」
「――日芸が第一志望は過去だよ。話したじゃんそのことは。記憶力いいんじゃなかったの」
「そっか――でも、演劇の勉強はしたいんだよね」
「あのね。
わたしの母親――日芸出身なの」
そうだったのか。
「わたしは母を尊敬していた。
厳しく育てられたけど、ちゃんと育ててくれたし。
母に憧れていたから――だれに言われるでもなく、母と同じ日芸に進むことに決めていた、迷いはなかった」
「――いいじゃないの。
お母さんを尊敬できるって、すごいことだよ」
「……そう思うでしょ?」
「わたしなんか、自分の母が『スゴい』って思っていても、ついつい反発したり、ケンカしちゃったりで、うまくいかない。父に対しては、そんなわだかまり全然ないのに」
「お父さんと仲良しなの?」
「おとうさんのことは……むかしから大好きだった」
「パパ大好き、って顔してるねぇ」
「どっどうしてわかるの!?」
「――ウチの父は、母の尻にしかれっぱなしだよ。
それで、話を戻すとして」
「はい」
「日芸志望に、迷いはなかったって言ったよね」
「うん」
「でも、迷いはなかったっていうのは、『これまで』の話で」
「第一志望を変える、ってことだよね?」
「そう、日芸はやめた」
「どうして?」
「後追いになると思ったから」
「後追い……お母さんの?」
「そ。
母の背中を追いかけ続けることに――疑問を持ったんだ」
× × ×
背景には、大きな桜の木。
見事に、桜の花が咲き誇っている。
『春のように暖かい世界。
そんな世界を、わたしは望んだ。
列車はもう動いていない。
ここは、サヤが連れてきてくれた世界。
そして、わたし自身が決めた世界。
わたしが決めた、目的地。
わたしが創(つく)り上げた、目的地。
自分が創った線路――その先に、旅の終着点が生まれた』
「わたし」は、おもむろに本を取り出して、ページをふたたび開く。
『木漏れ日が優しく降りそそぐ。
花びらがひらひらと散り、小鳥はさえずりの歌を歌っている。
すべてが穏やかで、なにも不都合がないような世界。
どんな不幸を背負った人でも、ここに来れば、痛みは消え、ふたたび生まれ変われる――。
世界の愛が、どんな存在も許容してくれる。
愛情――、そう、愛情に満ちた世界。
愛情があふれ出るような、永遠の春』
スキップしながら、第4幕のゲスト、内田さん演じる女の子が現れる。
幼さを感じさせる服装。内田さんの小柄も相まって、「わたし」より子どものように見える。
<「わたし」より幼い年頃に見える>という脚本上の設定。
ほんとうの年齢は、わからない。
「わたし」は内田さん演じる<少女>を歓迎するように、本をそっと閉じる。
<少女>が呼びかける。
『こんにちは! おねえちゃん』
『はい、こんにちは』
『楽しいでしょ!』
『楽しいよ。楽しい春だね』
<少女>はキョトン、として、
『春ってなーに?』
「わたし」は動じることなく、
『そっかー、知らないよね。でも、いいんだ』
『いいってなにが?』
『オールオッケー、ってことだよ』
『なるほど、オールオッケーかぁ! おねえちゃんもいいこと言うね』
『そうでしょ?』
『ねー、おねえちゃん、まだ降りないの? お外はもっと楽しいんだよ、日なたぼっこもできるんだよ』
『……もうちょっと、ここに座っていたいの。日なたぼっこは、それから』
『なんで~?』
『余韻に浸りたいから』
『…よいん、??』
『あなたには、まだ難しいかもね』
『…ま、いいや!』
「わたし」の隣にぴょん、と飛び乗って、肩を寄せる<少女>。
しばらくスキンシップが続く。
『おねえちゃんのからだ、あったかいね!!』
『ありがとう。
ようやく、あったまったみたい』
× × ×
背中を、追いかけること。
背中。
わたしはアツマくんの背中が好きで、ときどき飛びついてスキンシップしたりするけれど、そんな背中の憧れかたとは、全然意味合いが違う。
「母のように生きるのは、ちょっと違うんじゃないか、って思って。
母と同じように生きて、それで幸せなんだろうか? って」
「同じ日芸を受けることが、すなわち後追い、なのかしら」
「わたしは後追いだと思った。
羽田さんが『それは違う』って言っても、わたしは自分を曲げない」
「『違う』なんて言わないわ。水無瀬さんの考えを尊重する。
でも、日芸志望をやめるんだったら、あなたどうするの、どうしたいの」
「――別のところを探してる。もちろん、演劇が勉強できるところ。
でも、定まらない、まだ迷ってる。
迷い始めたんだ、ようやく迷ったばかりなんだ、わたし。
もっと早く迷い始めればよかったのに」
「迷うって――つらくない?
わたしも、1学期に進路で迷ってて――つらかったよ。
……まるで、水無瀬さん、いま、迷うのを楽しんでるみたいに」
「迷わなかった『これまで』が嘘だったんだ」
バッサリと、断定するように、水無瀬さんは言う。
「甘ったれてたんだよ。
甘くない道を行っているようで、ほんとは甘かったんだ。
自分で自分に欺かれてた」
壁にドン、ともたれ、秋晴れの空の雲を見上げているような眼になる。
まるっきり黄昏(たそが)れ状態の水無瀬さん。
「……上にのぼりつめて行くのは、厳しいひとだけだって、思ってた。
正確には、
『厳しいひとに育てられた、厳しいひと』、
そういうひとだけが、上にのぼって行く、成功する資格のあるひとだって、信じて疑わなかった。
なにかを成(な)すのは、いつも厳しいひと。
いくつも証拠があったから、その証拠を信じて、厳しいひとが勝つ、厳しいひとが勝ち続ける世界を信じ切って。
今思えば――『過去が証明しているから』っていうあやふやな信念に、頼り切って、甘え切ってたんだ。
灰皿を投げたり、ときには暴力を振るったり、そんな稽古をすることで有名な演出家の劇が好きで、憧れて。
その演出家のもとで育った俳優にも、同じように憧れて。
『厳しいひと』、『厳しいひとに育てられたひと』、そんなひとしか、眼中になかった。
厳しく指導するから一流なんだって、厳しく演技を叩き込まれるから一流になるんだって、そんなの事実に決まってるじゃん、って。真理だよね、って。
わたしも演劇に関しては、そんなふうに振る舞い続けてきた。
灰皿なんて投げない、暴力なんて振るわない、そこまでではなくっても、最大限自分にも他人にも厳しくしていた。
とくに……他人には。厳しくなれるだけ、厳しく。それでこれまでは、わたしについてきてくれる人間のほうが多かったし、ついてこない人間なんてシカトのしっぱなしだった。
ついてこない人間は、シカトすれば、やがて存在が跡形もなく消えていく……、
でも……ヤスノだけは違ったんだ。ついてこない人間のなかでも、ヤスノだけは別だった。
ヤスノが演劇部から消えても、わたしのなかからヤスノの存在は片時も消えてくれない。死ぬまで消えてくれないんじゃないかって。頭のなかに存在感がこびりついて、こびりついて、拭うことすらできずに――そんなの卑怯だよねって、思って。
ヤスノを主役に指名したのは、卑怯だからって理由だけでは、もちろんない。
でも――見返してやりたい、って感情があったのは、否定できない。勝手な、復讐心。
それとともに、『厳しくしなければならない』という信念が、わたしのなかで燃え上がって、
根っからの信念が、復讐心とひとつになって、
だから――ヤスノに対して、あんなにスパルタだったんだ。
でも、厳しくするだけじゃ、ダメだったんだよね。
『厳しく指導するから一流なんだって、厳しく演技を叩き込まれるから一流になるんだって、そんなの事実に決まってるじゃん、真理じゃん』って思うこと自体が……だれかが敷いたレールを、それと気づかずに、走っているだけのことだったんだよ。
ずっと敷かれたレールの上を走っていた。
『厳しいひとに育てられた厳しいひと』が敷いた、終着駅のあらかじめ決められた、レールの上を……。
――あなたと松若さんの脚本には、教えられることが多かったよ。
たしかにあの主人公は、列車に乗ってレールの上を走っているけれども、でも彼女は、決められた終着駅に向かっていくんじゃなくて、サヤの問いに答えて、終着駅を自分で決めた。その終着駅は、主人公自身のオリジナルにほかならなくて。自分自身で、想像して、創造した、目的地。
敷かれたレールに乗っていく目的地じゃなかった。
主人公は、レールを自分で継(つ)いでいた。
まるで、自分自身の物語を、紡いでいくみたいに――」
× × ×
『ひとすじの春風が吹いて、
『ようやく歩いていける』と、わたしは思った。』
『――うん、もうじゅうぶん、あったまった』
『そう?』
『そう。』
『あったかいっていいよねー、おねえちゃん!!』
『だよね。あったかいものを飲んで、あったかいものを食べて、あったかいお風呂に入りたい』
『うんうん!!』
そして――クロスシートの座席から、ゆっくりと「わたし」は立ち上がる。
『おねえちゃん、行く気になったんだ、おそとに!』
『行くよ、そろそろ。外はもっと、あたたかいんでしょう?』
『もちろんだよ!』
「わたし」は、列車の降車口へと、歩いていく。
<少女>が寄りすがって、
『おねえちゃん、しばらくいるよね?』
『いるよ。』
『どっかに行っちゃ、やーよ??』
『それはわかんないなあ』
『えーっ、いじわるっ』
『……約束、しよっか。』
『どんな約束?』
『こんな約束だよ、
『あともどりだけは、ぜったいしない』』