【愛の◯◯】天使のような愛

 

朝から愛の機嫌がすこぶる良い。

不可解なほどに。

キッチンの間近に立ち、エプロン姿で、ニッコリニコニコとしている。

いつもよりも柔らかみのある笑顔に見える。

「早くサラダを食べてほしいわ。アツマくん」

そう要求する声に攻撃的な含みはゼロだった。

「究極のドレッシングで味付けしたサラダなんだから」

きゅ、究極ッ!?

「究極って……なんぞ」

「食べてみれば分かるわよ。あなたなら、『究極』だってことが理解できる」

釈然としないモノがあるが、食べてみる。

確かにいつもとは、ひと味もふた味も違う。

レタスがとても美味しくなっている。

ただ、『究極』というのは……どういうコトなんだろうか。

依然としてニコニコの愛が、

「ごめんなさい。『究極』は言い過ぎだったかも。もっともっと美味しくなる余地があるわよね」

と言い、

「精進しないとね」

と言う。

反省のコトバを言う愛だったのだが、笑い顔は明るく、そして優しさに満ちていた。

 

出勤する時間になった。

玄関の前に立つ。

靴を履こうとする寸前、背中をつん、と突かれた。

驚いて振り向く。

さっきとは色の違うエプロンをつけて、やはりニコニコしながら、愛が立っていた。

「なんだよ、いったい」

「頑張って、って言いたかったの」

「お、おう……」

「わたしも頑張るから、あなたも頑張って」

持ち前の攻撃性は完全に消えている。

愛が、丸くなっている……。

理由や動機はなんなのか。

わかんねえ。

適切な比喩かどうかは疑わしくもあるが……まるで天使のような笑い顔だ。

お隣の天使様どころではない。

同じ部屋の、天使様……!?

「……今朝のおまえ、なんか妙じゃねーか?」

「妙って、なあに?」

やはり天使様的な笑顔に、甘えの色の濃くなった声。

「いつもより段違いに優しいから……」

ふふふっ、と軽く笑う愛。

笑ってから、

「3月になったから、ってコトにしておいてよ」

と言って、そのあとで急速に距離を詰めてくる。

顔と顔が近づいた。

おれは背筋がヒンヤリとする。

『もしや、見送りの、接吻、する気なのか!?』

そう思ったからだ。

視線がくちびるに集中するのを抑えられない。

しかし、くちびるを近づけるコトはなく、両腕を背中に回し、軽やかに抱きしめてくるのだった。

キスではなくハグなのであった。

 

× × ×

 

夜。

緊張しながらマンションの部屋のドアを開けた。

ぺたぺた、と愛が歩み寄ってきた。

また色の違うエプロン。

後ろ手に、

「おかえりなさい。おつかれさま。」

笑顔が暖かい。

こっちが動揺するほどに暖かい。

立ち尽くしていると、す~っと右手が伸びてくる。

愛の右手はおれの胸元に触れる。

「ど、どうしたか」

ココロがざわめくおれ。

そのざわめきを知ってか知らずか、

「お風呂が先がいいわよね?」

という、暖かな問いかけ。

「お、おう」

「もうすぐお湯入れのタイマーが鳴ると思うわ」

「……」

「あのね」

静かに、なおかつ優しく、

「アツマくんが欲しがってた入浴剤、買ってたの」

いつの間にやら、である。

おれは、

『値段が高い入浴剤なんだけど、一度風呂に入れて、湯に浸かってみたいな』

と、1回だけ言った。

1回だけ何気なく言ったコトをカンペキに憶えているとは。

 

× × ×

 

いい湯だった。

いい湯だったが、トゲの取れた愛の『天使ぶり』に対する戸惑いは、洗い流せなかった。

 

作ってくれた晩飯も美味かった。

美味かったが、本日朝からずっと上機嫌を持続させていると思われる愛の笑顔と向かい合って食ったから、ときおり箸を持つ手つきが危うくなってしまっていた。

 

食後。

食器を持とうとしたら、

「あなたの食器もわたしが洗って拭いてあげるわ。お仕事で疲れてるでしょう? 負担をかけたくないの」

「え、悪い……」

無言で微笑んでくる愛。

『わたしの言う通りにしてよ』

優しさに満ちた、要求。

それが伝わってくる。

伝わってきて、ドキリ。

心拍数の増加を知ってか知らずか、軽やかに椅子から立ち上がる優しきパートナー。

「焼きタルトを作ったのよ」

マジかよ。

「食器を片したあとで、食べましょ?」

 

鼻歌を歌いながら食器を洗い、拭き、元の場所に戻し、それから鼻歌を歌い続けて冷蔵庫に歩み寄る。

焼きタルトをダイニングテーブルに置く。

我慢できずに、おれは、

「なあ……。朝も同じようなコト訊いたんだが、今日のおまえ、なんでそんなに優しいんだ」

「わたしはいつもあなたに優しいわよ? 好きなんだから」

「いつもはもっと、とんがってるじゃんか」

「どういうコトかしら♫」

お、おいおいっ。

そういう満面の笑みは、なんというか……眩しすぎるんですが。

視線を逸らしてしまいながら、

「強気じゃないというか、なんというか。どう形容していいか分からんけど。今日みたいなおまえの優しい態度は、本当に珍しいと思っちまって」

唐突に愛が右手を握ってきた。

「なんだよっ!?」

「ほぐしたいの」

「手を!?」

「手を。1日中ずっと使ってる利き手だから、是非ともホグホグしてあげたいのよ」

うっ……。

愛が握るおれの右手。

愛の愛情に包まれ、最初にくすぐったくなって、次になんとも言えない感情が襲ってきて、そのあとに顔が熱くなってくる。

「や、や、焼きタルトが、先、だよなっ」

「そうねっ♫」

いったん握る手が離れる。

愛と眼を合わせながら焼きタルトを食うのが絶望的になってくる。

そして、食べたあとにホグホグされるというコトに対して、ココロの準備を始めるコトが、なかなかできなくなって、それから、それから……!!