大学から帰ってきた。
邸(いえ)の中に入ると、向こうから愛が、パタパタとやって来る。
エプロン姿だ。
「おかえり。早いわね、アツマくん」
「講義を受けたわけじゃないからな」
「あ、そうか。
卒業論文、提出しに行ったんだっけ」
「そう。卒論提出だけ。
これで、おれは冬休み」
「めでたいわね」
美人な笑顔で愛は、
「おめでとう、卒論提出。何度だって、おめでとうって言ってあげるわ」
…『お疲れさま』じゃなくて、「おめでとう」、か。
…ま、どっちだっていいのかもな。
「あんがと、愛」
おれは感謝。
ところで、
「エプロン姿だってことは、おまえ、キッチンの掃除でもしてたんか」
「え、どうしてわかるの?」
おれのほうから距離を詰めて、
「名探偵アツマだからな、おれは」
と言ってみる。
「それ、どんな三流探偵よ」
笑みを崩さず言いやがる愛。
ちぇっ。
「三流探偵じゃねーよ」
「じゃあ、二流ということにしてあげる」
「あっそ」
「…推理は、当たってたわね。そうよ。キッチンをピカピカに磨いてたの。それと、冷蔵庫の整理整頓もしておいた」
ふむ。
そうか。
『お疲れさま』を言うべきは……おれのほう、ってことか。
「それはお疲れさまだな、愛」
もう一歩、おれのほうから距離を詰め、
「肩とか腕とか、お疲れモードなんじゃないのか?」
愛は少しうろたえ、
「お、お疲れモードって、なあに」
と言うのだが、
「ちょっと腕貸してくれよ」
とおれは言い、左手で愛の右腕をつかむ。
「ど、ど、どうしたのアツマくん」
「――やっぱ、腕、くたびれてんなあ」
「た、た、たしかに――ゴシゴシして、腕は使ったけど」
「ほぐしてやろうか?」
「!?
あなたが……わたしを、ほぐす???」
「いたわりのココロで」
「ちょ、ちょっとまって、わたしのほうのココロの準備が」
「まあ落ち着け」
「……」
× × ×
言われるがままに、おれにホグホグとほぐされた、愛。
ホグホグしてもらってるばっかじゃ、いけねーからな。
たまには、こっちからも、ホグホグと。
× × ×
「どーだ? うまい具合に、カラダが軽くなっただろ」
愛の部屋。
ベッドの上で、壁に背をひっつけている愛。
「おーい、なんか言えや」
ボショリ、と愛は、
「わたしよりは、上手くなかったけど……ほぐれた。」
と。
「軽くなったってゆーことだな」
とおれ。
小さく首を縦に振って、
「そういうことに、しておくわ」
と愛。
「なあ。
おれの卒論の中身に、興味はないんか?」
訊いてみる。
訊いてみたら、
「ホイットマンの……詩の翻訳、だったわよね」
と愛が。
そう。
ウォルター・ホイットマン。
アメリカの国民的な詩人だ。
ホイットマンの詩を訳したものが、おれの卒論なのである。
「大学院に行くための論文を書くわけじゃなかったから、気楽にやれたよ。プレッシャーは、あまり無かった」
おれは回顧。
…回顧するおれを、なぜか前のめり姿勢になって、見つめてくる。
見つめてきたかと思うと、ベッドを降り、立ち上がる。
立ち上がったかと思うと、ゆっくりと、ご自慢の本棚へと近づいていく。
なにがしたいのか。
「……ホイットマンの詩集、この棚に、入ってて」
「マジかよ」
「マジよ。マジに決まってるでしょ」
迷うこと無く、ホイットマンの詩集を抜き取る愛。
そして、
「これは、訳詩集(やくししゅう)だけど」
と言って、それから、
「この本の訳(やく)と、あなたが訳したのを、比べてみたい」
と言うのである。
「おれの翻訳の能力を、試すってか」
「――あなたが、どれだけ詩人になれているか。ホイットマンに、どれだけ近づけているか」
カッコつけたこと言いやがって。
どれだけ詩人になれているか……とか。
……それも、コイツの個性、なのかもな。
「分かったよ、愛。
いっしょに見ながら…だな。その訳詩集を」
「そうよ。
わたしとあなたで――1つの本を見ながら。
そうやって――ホイットマンを共有しながら、『あなたの詩』を、聴かせてほしいの」