秋刀魚(さんま)が手に入ったので、愛が焼いてくれた。
焼き秋刀魚をメインおかずとした夕飯を食べたあと、例によって自分専用マグカップにブラックコーヒーをなみなみと注(そそ)いだ愛が、
「お邸(やしき)にシャンプー台を作ることだけど」
と話題を振る。
美容師のサナさんが10月頭から邸(いえ)に住み始めた。だれが言い出したのか定かではないが、『邸(いえ)にシャンプー台を設置したら楽しくなるよね』と。楽しくなるというのはもちろん、シャンプー台があったら、美容院に行かずともサナさんにシャンプーしてもらえるので。
「近日中に工事に来てもらうそうよ。いよいよシャンプー台が邸(あっち)に『搭載』されるの」
ふーん。
「え、アツマくんは嬉しくないわけ」
「『嬉しい』とは」
「サナさんのシャンプーの腕はスゴいのよ。並みの美容師のレベルなんか遥かに超えてるのよ」
「美容師のシャンプースキルを格付けするんかいな」
「わたしは既に邸(あっち)でのシャンプーをサナさんに『予約』済み」
例のごとくおれのツッコミを華麗にスルーして、
「アツマくんもやってもらいなさいよ。シャンプー」
「サナさんに?」
「サナさんに!」
「おれは長年通ってる美容院が」
「それはあんまり関係ない。シャンプーをしてもらうだけなら」
一理(いちり)ある。
サナさんはおれの行きつけ美容院とは違う美容院に勤めているが、彼女にシャンプーしてもらうぐらいならば、不都合はあまりない。
「今のあなたの顔は、サナさんの極上シャンプーを体感することに前向きな顔ね」
勝手に断定する愛。
たしかに、不都合はあまりない。
しかし、
「普段おれがやってもらってる美容師さんも、シャンプーとっても巧いんだぞ」
「巧いかもしれないけど、果たして極上なのかしらねえ」
「おれの美容師さんをバカにするな」
「バカになんかしてないっ!」
あのなー。
愛よ。おまえの今のその笑い顔は、性格の悪さが完全に滲(にじ)み出ている笑い顔だぞ?
少しは自覚しろよな?
× × ×
テレビを見ようとソファのほうに向かうおれを愛が追ってくる。
「なんじゃいな」
そう言っておれはドカリ、とソファに腰掛けるが、
「あーっ、アツマくんソファに座っちゃったー」
「……座ったから、なに」
愛はソファ脇のカーペットにぺたん、と正座して、
「ソファから降りて、わたしと同じ目線になってほしいなーって」
「なぜ」
「今日は金曜日よね」
「それが?」
「クタクタでしょあなた。お仕事で」
「そうでもないぞ」
「そうでもあるわよ。分かるのよ、あなたがクッタリクタクタしてるって」
クッタリクタクタは、言い過ぎ。
体力しか取り柄がないゆえに、蓄積疲労もそれほどない。
肩や背中が少しだけ凝ってるかな、というぐらい。
リモコンに手を伸ばし、テレビをつけ、液晶画面に眼をやりつつ、
「おれは大丈夫だから。クッタリクタクタなんぞ、ありえん」
と言う。
……しかし、目線を少し愛のほうに向けてみると、愛がつぶらな瞳になりかけていたので、おれはいささか慌てて、
「ど、どうしたか」
「……」
つぶらな瞳、持続。
『哀願モード』発動……の気配が。
『哀願』というのは。
つまり。
「おまえ……もしや、どうしても、おれのカラダをほぐしてあげたかったり?」
コックリうなずく愛。
そういうことか。
つまりは。
「たとえおれの疲労度がクッタリクタクタなレベルではなかったとしても、どうしてもカラダをほぐしてあげたいというキモチが、おまえは強いんだな」
テレビの音量を絞り、ソファから腰を上げ、
「悪かったよ、おまえのキモチに応えてやろうとしないで」
と謝り、愛の正面に腰を下ろして胡座(あぐら)になって、
「ほれ。背中、貸す。自由にホグってくれ」
と促す。
やや下向き目線ではあるが、嬉しそうな気配濃厚な顔になった愛は、
「ありがとう」
と言い、
「ホグホグするね」
と言い、
「サナさんよりは、腕が落ちるけど……」
「比較すんなよなー。サナさんの美容院でのマッサージはどうだか知らんが、おまえのホグホグの技術も相当なもんだと思うぞ?」
おれがそう言ったら、愛は苦笑いしながら、
「どうしてわかるの?」
「や、そりゃあ、長年おまえにはホグホグしてもらってるんだし」
「……そっか。そうよね。そうなのよね」
「肩も背中も手も足も、おまえにホグホグしてもらうと、一気にスッキリするんだ」
「ベタ褒(ぼ)め。」
「悪いかよ。」
「ううん」
ふるふるふるふる首を横に振って、
「あなたをわたしが最初にホグホグしたのって、いつだっけ?」
と訊いてくる。
「おまえが女子校の中等部から高等部に上がった頃じゃなかったか?」
「そんなに前!?」
「あー」
「わたし、あなたに告白もしてないじゃないの」
……だったかねぇ。