起きた。
顔を洗う。キッチンに近寄る。
おれより早く起きた愛がリンゴの皮を剥いている。
「おはようさん、愛」
声をかけたら、
「はい、おはよう」
と答えて、皮を剥き切ったあとで、おれに振り向いてくれる。
沈黙が流れる。
愛はニコニコ笑っているが、奇妙な沈黙が流れている。
なぜか。
理由はもう明白で。
つまりは、今日が……。
「んーーっと」
首をポリポリ掻きながら、おれは、
「今日がなんの日か……って話だよな」
と切り出す。
ウフフ、と笑う愛。
「ズバリ、アツマくんのお誕生日」
正解である。
おれの23歳の誕生日の朝だ。
「あなたはわたしになんて言ってほしいの」
そう言われて、少しだけ緊張するものの、綺麗な愛の顔に視線を合わせて、
「祝福のコトバを」
と答えてみる。
愛の笑い顔がさらに美しくなり、
「おめでとう。ホントにおめでたいわ。23歳。なによりも、こういうシチュエーションであなたを祝福できることが嬉しい。幸せ」
可愛いエプロンをつけた愛が一歩距離を詰めた。
それから、例によってというかなんというか――ふぎゅうっ、とおれのカラダに引っ付く。
「アツマくん。おめでとう。だいすきよ」
純粋な愛情表現。
朝飯を作るのを手伝ってやろうか……というキモチが芽生えてくる。
× × ×
リビングの丸テーブルを挟んで向かい合う。
1冊の本が丸テーブルに。
「『一味違うコーヒー図鑑』」
書名を読み上げるおれ。
「ささやかだけど、お誕生日プレゼント」
「おれが喫茶店勤めゆえに?」
「まあそうね。500ページ近くあるから、読み応えあるわよ」
言ってから、なぜか顔を少し赤くして、
「あのね……。なかなかあなたのプレゼントが決まらなくて、本をプレゼントするのは決めたんだけど、書店に行っても決めあぐねてて。でも、一緒に来てた利比古が、『アツマさんにぴったりの本がありそうだよ』って言って、このコーヒー図鑑を勧めてくれて」
「おまえの弟はほんとーに偉大だよな」
「そうね」
「利比古とあすかが、今晩マンションに来ることになってるが」
「うん」
「感謝のキモチを利比古に伝えてやるよ」
「そうして」
「おまえにも、もちろん『ありがとう』だ」
「どういたしまして」
「大切に読む」
「読んでね」
「ところで。もうすぐ出勤せねばならん時間なわけだ」
「身支度?」
「身支度。」
いきなり愛がおれの前に身を寄せてくる。
驚いていたら、シャツのボタンを留めてくれた。気づかずに外れていたのだ。
「……歳(とし)をひとつ重ねても、こういう『詰めの甘さ』は変わんないんだから。」
軽く苦笑いして愛は言った。
× × ×
鍋がグツグツ煮えている。ごま豆乳鍋だ。
おれの左隣に利比古。コーヒー図鑑のことへの感謝は既に告げてある。
おれの真向かいの席があすかで、おれから見てあすかの左の席に愛。
すなわち、兄妹同士で向かい合い、かつ、姉弟同士で向かい合い、というわけ。
食べごろになった豚バラ肉を菜箸でヒョイヒョイと取ったら、
「お兄ちゃん。お肉取り過ぎ」
とすかさず妹にたしなめられた。いつものパターン。
おれの妹はおれの皿に野菜をヒョイヒョイヒョイと投入していく。
「あすか。皿があふれちまう」
「わたしの真心なんだよ!? 兄貴の皿を野菜たっぷりにするのは」
真心って。おいおい。
呼びかたも『兄貴』になっちまってるし。
ま、いいか……と思い、皿の中身をパクパク食っていく。
肉も野菜も美味い。
「利比古くんもだよ。お肉と野菜のバランスがなってない。もう少しお肉取る量を減らして、野菜取る量を増やさなきゃ」
利比古にも注文付けるんかいな、あすかよ。
おれは利比古に、
「いつも以上にあすかが鍋奉行なんだが。邸(あっち)でなんかあったんか」
「ありましたね」
即座に利比古はそう答えた。
「余計なこと言わないで!! 利比古くんッ」
妹が喚(わめ)くから、
「おいおい、せっかくの鍋パーティーなんだ。血圧上げずに行こうぜ」
たしなめられ、萎(しぼ)んでいく妹。
おれは、
「愛。豚バラ肉を鍋に追加してくれ」
「わかったわアツマくん」
「ほれほれ、妹よ。お兄ちゃん、おまえに肉を譲ってやる」
そう言ってやると、妹は、
「……コドモじゃないもん」
「でも、おれの妹だ」
「なに、それ」
と弱く呟きつつも、目線を上げ始めて、
「今追加された豚バラ肉は、わたしとおねーさんのモノ」
と……おれと利比古に野菜食(ぐ)いを強制する。
これも妹らしさか。
× × ×
「おねーさん。兄貴は23歳になっても面倒くさいですよね。一緒に暮らしてて、パンチとかキックとかしたくならないですか?」
フォークでショートケーキを切りながら言うあすか。
あすかに対し愛は、
「とっくにしてるわよ~」
とお答えする……。
「でもね、あすかちゃん。そこも含めて、愛しいの」
おー、おれを『上げて』くれる気もあるんじゃねーか。
「愛しい……??」
戸惑うあすか。
「特に、パンチとキックの両方をお見舞いしてあげた日は、とってもアツマくんのことが愛おしくなって……」
「と、とんでもないこと言わないでっ、おねーさん」
愛はショートケーキを優雅に咀嚼(そしゃく)して、
「そーゆーものなのよ☆」
ふぅ……。
どういうやり取りだ、って話だぜ、女子コンビよ。
「あすかちゃんは、どーなの?」
意味深な笑みで愛が言った。
「どーなの、と言われましても……」
「利比古に、パンチしたくなったり、キックしたくなったりする日もあるんでしょ」
「!?」とあすかが眼を見開く。
「お邸(やしき)で同居なんだから、利比古を折檻(せっかん)したいときだって――」
「……」
ほとんど食べ終えたケーキの皿にあすかが視線を落とした。
考えを巡らせているようなご様子。
やがて、ぽつり、と、
「半年前の利比古くんだったら、折檻したいキモチも出てたかもしんないですけど」
と言って、それから、
「今は……したくないかな」
ほほう。
利比古の評価が上昇したってことか。
「利比古」
「ハイ、アツマさん」
「あすか、前より優しくなったふうに見えるか?」
「ですねえ。半年前と比べたら、明らかに」
「利比古くん!!!」
たまらずにおれの妹は大声を出し始め、
「余計なこと言いまくるんだったら、わたし、鬼になっちゃうよ!? いいの!?!?」
「あすかさん」
「……なに」
「あなたのそういうコトバも、優しさなんですよね?」
利比古の決定的なひとことに、呆然となる妹。
ニヤニヤ……。