『アルゴールの城にて』という小説を読んでいたら、電車が湘南地方某駅に到着した。幼馴染みのキョウくんの実家の最寄り駅だ。
× × ×
キョウくんの部屋に入っている。わたしはキョウくんのベッドに座り、キョウくんは床に座る。いつもの通りの構図である。
わたしを見上げるキョウくんが、
「お誕生日おめでとう、むつみちゃん。2日遅れになっちゃったけど」
首を横に振って、
「ううんいいのよ2日遅れでも。こちらこそ、誕生日を祝ってくれてありがとう」
と感謝し返す。
ジトッとキョウくんの顔を見つめる。
キョウくんも微笑んでわたしを見つめてくる。
横のカレンダーを見た。だれがどう見ても勤労感謝の日である。
「今日は勤労感謝の日なのよね。働いて社会を動かしている人たちに感謝しないといけない日。わたしは労働者でも学生でもない身分だから、なおさら」
言いながら肩をすくめていってしまう。
「むつみちゃんはむつみちゃんだよ。自分の立場を無理に意識しすぎる必要ないよ」
「だけど……」
「『だけど』に、なにが続くの?」
思わず縮こまる。コトバが出てこない。
「勤労感謝の日だからって、過剰に『勤労』の漢字二文字を意識する必要もない。おれ、そんなことをきみに意識してほしくないんだ」
「でもキョウくん。……やっぱり」
「やっぱり、なんなの??」
彼は真面目な顔だ。
真面目な顔になっていることに直面して、動揺してしまい、
「なんだかイジワルよ、今日のキョウくん」
と言ってしまう。
真面目な顔のまま、その顔を逸らしてしまう彼。
口元が苦い口元になっているようにも見えた。
惑い、焦りながら、
「わたしの思いも理解してよ。社会の歯車になれない自分自身が歯がゆくて。だからなおさら、立派に働いている人たちの有り難みを感じるの」
と言ってしまい、
「有り難みを感じなければ、わたし、ココロまでブサイクになっちゃうし」
と言ってしまう。
「ココロまでブサイクって、なんなのさ」とキョウくん。
「……」と上手く説明できなくて、うつむいてしまうわたし。
「むつみちゃんのココロがブサイクになるわけないじゃんか」
「なるのよっ」
吐き捨てるように言ってしまった。
気まずさの度合いが天井を超えていく。
沈黙。嫌な空気。重い空気。
思い通りにキョウくんとコミュニケーションできなくなっちゃった。重苦しい空気を日が暮れるまで引きずりそうで、怖い。
この空気感がイヤなのはキョウくんも同じで、気を紛らせたいのか、黙って本棚まで歩いていき、『鉄道ファン』と『鉄道ジャーナル』を3冊ずつ棚から抜き取り、ひとことも口から発することなく誌面を読み始めた。
「キョウくん」
わたしは勇気を出して、
「ごめんなさい。わたしが悪かったの。鉄道雑誌に没頭したくなる気持ちも分かるわ。分かるから、気が済むまで読み続けても全然構わない」
ページをめくる手を止めて、まっすぐに誌面に視線を落とした彼は、
「悪かったのは、おれのほうだから」
「そんなこと言わないで。責任を感じないで」
「感じる」
ラチがあかず、ベッドから降りる。彼の眼前(がんぜん)に寄り、正座になる。
「マジメすぎだよ、むつみちゃん」
「マジメすぎなぐらいが、ちょうどいいと思うの」
「やれやれ……」
彼の態度に我慢できなくなる。彼の持っていた『鉄道ファン』を掴み、奪い取る。
「ボッシュート」
とわたし。
「へっ?」
「キョウくんあなた、『世界ふしぎ発見!』を視(み)たこともないわけ!? ボッシュートよボッシュート。雑誌は全部、ボッシュート」
「意味が分からない」
「分からなくて結構ですから」
言うやいなや。
わたしは、キョウくんの胸に、飛びついた。
「……ビックリさせないでくれよ」
「あなたがいけないのよ。あなたがいけないから、ドッキリ企画が始まっちゃうの」
背中に手を回し、ガッチリと押さえる。
彼の胸を5回、10回とオデコでスリスリしていく。
でもこんな体勢になるだけでは、到底満足できなかった。
「好き」
胸に顔を埋めて明瞭に「好き」と発声する。
だけどこれは単なる「好き」に過ぎない。「好き」って言う以上のコトがしたい。
キョウくんを後ろに押していこうとした。
キョウくんが反発して抵抗した。
「わたしが『好き』って言ったのを受け容れられないわけ?」
敢えて挑発気味に言う。
「そういうわけじゃない」
「でもキョウくん、『わたしのキョウくん』になってくれてないじゃない」
「難しい言い回しは苦手だ」
「あなたの苦手になんか構ってられない。わたしのお誕生日祝いのときぐらい、わたしの好き勝手にさせて」
「理屈が通ってない」
そうは言うものの、キョウくんのほうからも、両腕を伸ばしてきてくれる。
「ちょっときみらしくないよね。ケンカになったからだろーか」
「あなたがケンカと定義するならばケンカなのかもね」
「なんだそれ」
「これまでケンカが少なすぎたのよ。15年以上も幼馴染み同士のカンケイなのに」
「なんだよそれ」
「ケンカするほど仲良しになれる。互いに気持ちを寄せ合える」
「そんなもの?」
『そんなものよ。そんなものなんだからっ』と、抱き返されたわたしは、胸の中でささやく。
「もう1つワガママ。たまには、あなたのほうから、『大好き』って言ってきてほしい」
「ん……」
「勇気を出してよっ」
キョウくんがすぐには勇気を出していけないコトぐらい百も承知。だから、キョウくんのカラダでしばらく温まる。
日差しが窓からこぼれて来る。近くを自動車が往来する音も時折聞こえる。
「む……むつみちゃん。いま、何時だっけか」
「キョウくんのおバカ。何時だっていいでしょーが」
関係ないことを言うんだったら、容赦なく「おバカ」って言う。
口をモゴモゴさせ始めたのが手に取るように分かった。
しばらくモゴモゴは続くだろう。
不安材料はキョウくんママの鈴子(すずこ)さんがドアをノックしてくることだけ。
もっとも、鈴子さんがやって来ても、わたしはキョウくんを抱き続けるかもしれない。
そうでいいんだ、と思い始める。
『だいすき……だ。きみの、ことが』
震える声が耳に届いた。
「不合格。不可。あなたの『大好き』の言いかた、100点満点の40点」
「そっ、そんなっ」
「追試験。『かわいい』って、ハッキリ言ってちょーだい」
「きみに?」
「わたし以外のだれに言うつもりなのよ」
抱き合ったまま、彼の焦りっぷりを余すところなく味わう。
彼をまるごと堪能するわたしの耳に、『ゴクン』と喉の鳴る音が届いてくる。
視線を上げて、彼の喉ぼとけの位置を確かめる。
『喉ぼとけまでは、さすがに日焼けしてないのね……』と内心で呟いた。
そしたら、
「かわいいよ。かわいい。今までもずーっとかわいかったし、これからもずーっと、きみがいちばんかわいい」
と言われた。
不純物のまったく無い嬉しさがこみ上げる。
もう一度、胸に顔を埋め、キョウくんの胸の奥の奥まで、わたしの愛情を届かせる。