戸部くんに抱きついちゃった。
泣き顔で抱きついたから、戸部くんのシャツを濡らしちゃった。
なにやってるんだろうな。
わたし。
× × ×
ひと晩寝ても、まだ、記憶はぶり返してくる。
やらかしたことが頭にこびり付いていて、電車の中で落ち着いて本が読めない。
マラルメの詩集も、うわの空。
――気づいたら、降りるべき駅に停車寸前だった。
慌てて、マラルメの詩集をかばんにしまう。
湘南地方らしいお天気。
いまから向かうのは――幼なじみのキョウくんの家。
そう。
わたしの大好きな……幼なじみの……男の子。
× × ×
良かった。
キョウくんの顔を見た途端に、心身の「こわばり」がほぐれた。
やっぱり、キョウくんだ。
× × ×
「――わたし最近ね、関西地方の私鉄だと、京阪電車と阪急電車に興味があるの」
こういう話題を振ることのできる余裕アリ。
いいぞ。わたし。
「なんでまた、京阪と阪急?」
訊くキョウくん。
「京都競馬場の最寄り駅が京阪の駅で、阪神競馬場の最寄り駅が阪急の駅なのよ」
こう答えるわたし。
知ってたの!?
「知ってたの!? キョウくん」
「そりゃー知ってるさ」
「すごい……ますますリスペクトしちゃうわ」
「いや~、それほどでも」
ベッドの上で頭を掻く仕草をするキョウくん。
わたしのほうは、床座り。
「夏の競馬って、大きいレースはあるの?」
キョウくんから質問が投げかけられた。
わたしは即座に回答する。
「G1は無いわね。トップホースは休養するから。8月の『札幌記念』っていうG2レースが、いちばん大きなレースかな。札幌記念には毎年のように一流馬が参戦するのよ」
「札幌かー。ほかには、どんなレースが?」
「新潟競馬の『アイビスサマーダッシュ』っていうG3が有名ね」
「ほほー」
「なんで有名かというと、日本で唯一の、直線1000メートルの重賞だから」
「直線…」
「コーナーが一切無いのよ」
「…純粋なスピード勝負ってことか」
「まさに」
「どれくらいのタイムが出るの?」
んーっと。
「……少し待ってね。いま、新潟直千(ちょくせん)のレコードタイム調べるから」
「……完璧主義だね、むつみちゃんも」
× × ×
「――でも、夏は競馬はお休みかな。秋まで充電って感じ」
「充電、っていうのは?」
「馬券力を蓄えるの」
「……なるほどね」
「遊んでられないからね――今年の夏も」
「あ、またバイトするの? むつみちゃん」
「するする。去年同様、おじさんのお店で」
「くれぐれも、体調には気をつけてね。無理は禁物だよ」
「――ありがとう。感動的に嬉しいわ」
「か、感動的に嬉しいって、なに」
「だから、感動的に嬉しいのよ」
「……」
困った顔のキョウくん。
大好きな幼なじみを困らせちゃうなんて、ダメね、わたしって。
まっすぐに彼の顔を見つつ、
「ところで。もうすぐ、お昼なんだけど」
と言う。
「んーっと……。冷やし中華をむつみちゃんが作ってくれるんだったよね」
とキョウくん。
「そうね。冷やし中華解禁」
とわたし。
冷やし中華解禁宣言をして。
それからそれから。
わたしは……じーーーっと、キョウくんの胸もとに、視線をそそいでいく。
「キョウくん、」
「え……なにかな、」
「わたし、キッチンに行く前に……したいこと、あって」
「??」
床から立ち上がる。
ベッドに座るキョウくんの左隣に、ぽすん、と腰を下ろす。
それから。
あらためて、キョウくんの顔を見つめる。
日焼けし始めた彼の顔。
そこから。
彼の胸もとに、視線を下げて。
そして。
× × ×
うん。
やっぱり――戸部くんより、キョウくんの感触のほうが、断然いい。
抱きつくなら、キョウくんだ。
キョウくんしか勝たない。
最高で、最愛。