「ねえねえ、あすか」
お母さんに呼び止められた。
「あなたがいつも髪を切ってもらってる美容師のサナちゃんなんだけどね。彼女の住んでるアパートで水回りのトラブルがあったらしくって。もしかしたら邸(ここ)にお泊りに来るかも」
コトバが出てこない。
返事のコトバが。
どういう反応を返せばいいのか完全に分からなくなっていて。
「あすか?? ……どしたの」
俯いてしまうわたしがいた。
両手をキツく握りしめて。
握り拳を両手で作るのは、もちろん自分が不甲斐ないから。
お母さんは例のごとく優しい笑顔で、
「アパートの水回りが復旧しなかったら、サナちゃんに邸(ここ)に住んでもらうのもいいわね。現在(いま)4人しか居ないでしょ? お邸(やしき)が4人から5人になったら、賑わうから楽しいと思うの」
と続ける。
そして、コトバの出てこない不甲斐なくて情けないわたしを、じっくりコトコトと見つめていく。
申し訳無さが芽生えてくるから、
「お母さん、ごめんなさい」
というコトバが自然と出てくる。
「え? 謝る必要無いじゃないの」
「……」と押し黙ってしまう。
コトバを付け足せない。
ごめんなさいのその先のコトバが出ない。
お母さんの微笑みが温かすぎてつらい。
『仕方ないんだから……』という気持ちの籠もった笑み。
それがつらかった。
× × ×
わたしには反抗期が無かった。
10代のときお母さんにキレたことなんて1回も無かった。
反抗期が無いままオトナになれるんだって思っていた。
そうやってわたしはハタチになった。
なったんだけど。
さっきのわたしの態度……ひょっとすると反抗期っぽかったのかもしれない。
ハタチになったのに、あんなふうにお母さんに良くない態度を……。
自己嫌悪の4文字がピタリと当てはまる。
さらに不都合なことに、廊下でバッタリと流(ながる)さんに出会ってしまった。
「あすかちゃん。今、少しいいかな」
なにか言われる。
言われることの内容が把握できる。
把握できてしまう。
だから、流さんの顔をまっすぐ見られない。
「ぼく思うんだ。あすかちゃんと利比古くんがなんだかすれ違ってるよね……って」
目線を合わせられないまま、
「すれ違う? どこらへんがですか?」
と、不甲斐ない問い掛けをわたしは。
「今朝とか……きみと彼は一緒に朝ごはんを食べなかったでしょ?」
「それがなにか」
「邪推かな……ぼく思ったんだ。『朝ごはんを食べる時間を、わざとずらしているのかな』って」
「ずらしている主体は、わたしのほうだって思ってますか?」
「ん……それは……だね」
「口ごもらないでください。『互いに』ずらしているんじゃなくて、『わたしが』『自分勝手に』ずらしているってことですよね……」
× × ×
詰(なじ)ってしまった。
詰ってしまった後始末もせずに、流さんから離れて逃げた。
駆け込むように自分の部屋に入る。
幸いなことに利比古くんは新宿に出かけている。
だから、このフロアに居るのはわたしだけ。……ただ1つの救いだ。
× × ×
夜8時をまわっていた。
部屋の照明を点けた途端、散らかった床が眼に入ってきた。
ぐちゃぐちゃな床。
本やらレジュメやら校内スポーツ新聞バックナンバーやら『PADDLE(パドル)』のバックナンバーやらが散乱しまくっている。
紙類のほかには着るもの。下着以外のありとあらゆる着るものが、やはり床に散乱している。
せめて着るものだけでも片(かた)したくて、残る気力体力を振り絞って、収納に取り掛かった。
衣類を収納してくたびれる。
依然散らかりっぱなしの紙類をまとめたりする気力体力は無い。
消耗し切ったわたしは、ベッドの側面を背もたれ代わりにして、無残な部屋をボンヤリと見渡す。
ぬいぐるみ群が眼に入った。
転がっている「ホエール君」。
わたしの大好きな「ホエール君」のぬいぐるみ。
その「ホエール君」ぬいぐるみを、ひとりでに、蹴っ飛ばしていた。
ホエール君を蹴るなんて。
あんなにいつも可愛がってるホエール君を。
どう見たって、わたしが正常じゃない証拠。
下向き目線がつらくなって、天井を見上げた。
でも、天井を見上げてもどうにもならない。
どうにもならないっていうのは。
……。
いろいろ、なんだけど。
再び床を見てしまう。
『はじめての野鳥図鑑』
そんな題名の本が視界に突き刺さる。
ミヤジにもらった本だ。
ミヤジにもらった本『だから』、胃がキリキリと痛んでいく。
胃袋を抉(えぐ)られるぐらい痛い。
わたしとミヤジがまだ順風満帆だったとき、ミヤジにもらった本。
だから、内蔵を抉ってくるがごとき痛みが産まれてくる。
順風満帆な船が難破した。
沈んで、沈んで、底の底まで堕ちていくみたいな……。
そんな状態になってしまって。
それに。
現在形が次第に過去形になるというか……。
最低最悪の状態すらも、過ぎてしまった感じが強くて。
つまりは。
破局……まっしぐら……。
『しばらく僕のマンションには来ないでくれるか』
言われた。
言われてしまった。
ミヤジに。
今月13回目の大喧嘩をしたあとで。
『トイレに籠もっちゃうんだから!!』っていう最後の手段のコトバが、口から出なかった。
ミヤジのマンションの部屋で立ち尽くすわたしに、究極の追い打ちみたいに、『しばらく来ないでくれるか』というコトバが突き刺さってきた。
それは、コトバの凶器で。
わたしは、ミヤジに、傷つけられて。
わたしにもミヤジにも咎(とが)はある。
どっちが悪いかという話じゃない。
そんなのはどうでもいい。
……いいんだけど。
現状を自覚するたび、わたしにネガティブな感情がどんどん染み込んでくる。
情けなさ。
やるせなさ。
不安。
虚しさ。
絶望感。
特に、絶望感。
わたしのネガティブシンキングは、最終的に絶望感に帰結する。
そしてその絶望感は『悲しさ』に直結する。
この絶望は消えるんだろうか。
きっと消えないんだろうか?
わたしを絶望の暗闇から引き離してくれるような人が居ない。
……いや、それはちょっと違う。
より正確に言うと、『身近な人に頼ってみる』という能動性が、現在(いま)のわたしには……欠落していて。