文学部キャンパス。
本を購入して生協を出た。
そしたら、ロシア語の中里先生とバッタリ。
「羽田さん!! 久しぶりね~」
「こんにちは、中里先生」
「元気? あなたの姿をぜんぜん見かけなかったから、心配してたのよ」
「……」
「あら」
「……」
「なにかあったみたいね、羽田さん。それで、なかなか大学に来られなかったんでしょう」
鋭い中里先生。
事情を言うのを少し躊躇(ためら)ったけど、それでも勇気を出して、
「先生……。
わたし、最近まで、元気じゃなかったんです」
× × ×
「――そうだったの」
優しい顔。
中里先生、やっぱり、素敵なオトナの女性だ。
わたしのこと、わかってくれる。
「ゆっくりでいいと思うわ。ゆっくりゆっくり、元の自分を取り戻していくのがいいと思う」
「はい」
「きっと、『つまずき』だって、人生のスパイスになる」
「スパイス、ですか」
「つまずくから、強くなれるのよ」
先生の表情に、意味深なものが混じっているような気がする。
もしかしたら。
先生も、若い頃に――。
「人生には、本当にいろいろなことがあるわ。
だけど。
『愛』さえあれば、乗り越えていけるから」
「おっしゃってましたよね、先生。
生きていく上でいちばん大事なものは、『愛』なんだ、って」
「それ以上に大事なものなんてあるの??」
わたしは苦笑して、
「ないと思います」
「そうでしょ」
「そして、わたしの名前も『愛』」
「そうだったわね。ご両親もよくお分かりになられてる」
「またまた」
先生が、わたしの左肩をぽーん、と軽く叩く。
激励だった。
少し、こそばゆい。
「期待してるわ、羽田さん」
「がんばります」
「やがて見つかるわよ、自分の道も」
「道、ですか」
「あまりプレッシャーかけちゃってもいけないけど」
「いいえ。ありがとうございます。
先生の『愛』、実感できました」
「どういたしまして」
× × ×
中里先生はチェブラーシカグッズをくれた。
ベンチに座って、チェブラーシカに眼を凝らす。
ロシア語、最近忘れかけてたけど、また勉強始めてみようかな……と思った。
読んだけど忘れかけているロシア文学作品もけっこうある。
そういう作品がわたしの本棚には多く並んでるから、読み返してみたい。
× × ×
やる気を出すために、コーヒーが飲みたくなった。
コーヒーを買いに、もう1回生協に行ってみようと思った。
ベンチから立ち上がって、歩き出す。
生協の自動ドアの手前まで来た。
そこでわたしはピタッ、と立ち止まってしまった。
なぜか。
よく知っている女子学生の姿が、視界に入ってきたからだ。
大井町さん。
いつもと変わらない長さのストレートの黒髪。
例によって履いているジーンズ。
……なんだけど。
なんだか……弱ってる??
強気な性格が顔にダイレクトに表れているのが、大井町さんだったはず。
それなのに。
弱りきってるじゃないの、顔が。
完全に下向き目線だし。
キツめな性格とは真反対みたいな。
角(カド)が取れてる。
角(カド)が取れてしまったら、こんな弱い顔になるんだ……って感心しちゃうぐらい。
弱々(よわよわ)な大井町さんだ。
弱々ってことは、なにか困りごとが、彼女に――?
彼女は生協入り口の間近に立っているので、とりあえず近づいてみる。
どうやら彼女のほうは、わたしの存在に気づけていないみたい。
「お~い、おおいまちさ~ん」
とりあえず声かけ。
15秒ぐらいしてから気づく彼女。
大きく見開かれる眼。
びっくりしちゃってるのかしら。
のけぞるように、後ずさり。
後方を向いて、顔を背けようとするが、
「どうしたの?」
すかさず、2度めの声かけをするわたし。
弱った眼でわたしを見てくるけど、無言の彼女。
「大井町さん。あなた、困ってたりするんじゃないの?」
か弱い声で、
「困ってたりって……なによ」
と弱く反発する彼女。
しょーがないんだから……という気持ちにわたしはなっていく。
彼女のことが気にならないワケもなく、
「わたしにはわかるのよ」
「……どういう意味」
「バレバレだから。あなたが弱ってる状態なのは」
また、後ずさり。
図星の証拠かな。
ちょっと怖がらせちゃったかも。
「ごめん、指摘がストレートすぎちゃったかも」
できるだけ彼女を和(なご)ませられるように、笑顔になって、
「突然160キロのストレート投げられたら、こわいよね」
と言い、それから、
「だけど、そんなふうになるあなたを、放っておけるワケがないから」
とも言う。
くちびるを噛み、斜め下に視線を逸らす。
彼女のそんな挙動も、想定範囲内。
3歩、距離を詰めた。
見守るように、微笑み顔で、大井町さんに向き合う。
『愛』。
『愛』、か。
愛、は、愛情の、愛。
できるかな、わたし。
愛情を込めて、弱々(よわよわ)コンディションになった大井町さんを、助けてあげることが。
わたしの愛情で、大井町さんらしい大井町さんに、戻してあげることが。
難しいけど――やらなきゃ。
いま、この場で。