「アツマくん。わたし、あしたの土曜日に、マンションに戻る」
寝耳に水だった。
「……なんでだよ。日曜日まで邸(いえ)に居るって、おまえ言ってただろ」
愛は沈黙。
「沈黙されても困る。理由があるから、早くマンションに戻るんだろ? その理由を、だな――」
また、沈黙。
なにかを言いあぐねているような、そんな顔。
問い詰めるのは酷なのかもしれん……と、おれは次第に思い始めた。
愛が、つらそうだったからだ。
あきらめて、
「――やっぱいいよ、詳しく説明せんでも。おまえにはおまえの事情がある、ってことなんだよな」
と言う。
つらそうな眼で、
「ありがとう」
と言う愛。
感謝してきたかと思うと、
「あと……ごめんなさい」
と言い添えてくる。
おれの良心に、針がチクリ、と刺さるみたいな感覚。
おれは視線を合わせられない。
きっと、愛も同じだ。
× × ×
翌日。7日の土曜日。
重々しい朝だった。
重々しい朝だったが、愛についていってやらねば、と思って、気力で身支度した。
『中野区のマンションまで一緒に行って、愛を見送る』という約束をしたのだ。
荷物を持った愛が、玄関前でスタンバイしている。
「……名残惜しくないんか? まだ、朝飯時だぞ」
おれは言うが、
「お邸(やしき)を出るのが早すぎる、って言いたいの?」
と冷たい声で、言い返される。
愛の冷たさに戸惑って、二の句が継げない。
「もっとハッキリ意思表示してくれても……いいでしょ」
下向き目線で、
「すまん」
と小さくつぶやくことしか、おれはできない。
愛が、おれに背を向ける。
× × ×
駅までの道中、お互いにひとことも話さなかった。
× × ×
となり同士で、吊り革に掴まっている。
おれは、中央線の車窓を、ボンヤリと眺めるだけ。
…ふと、左どなりに立つ愛が、ため息をついた。
「なにもしゃべらないのも……息苦しいわね」
苦く言う愛。
「やっぱり、さみしいかしら。わたしが、こんなに早く、マンションに戻っちゃうのは」
武蔵境を列車は出ていく。
「少ししか、居られなかったし。トンボ返りみたいになって。…ごめんね。ワガママよね、わたしの。今になって、自己中心ぶりを、反省してる」
三鷹に近づく。
「だれだって…少なからず、自己中心なもんだろ」
あんまり責めるなよ、おまえ自身を。
「おれだって、自分勝手な振る舞いが、あったと思う」
「…そう?」
「冷たくしたら悪いと思っていながら、おまえを冷たく突き放した」
「…あーっ」
憲法記念日のこと。
おれの部屋で、おまえに、つれない態度を取ってしまったこと。
「あの態度は、良くなかったよ」
反省してるのは……おまえだけじゃない。
「なんでこんなにおれはダメ男なんだって、今朝も、ベッドの上で反省してた」
「…あなたらしくもない」
いや、違う。
「むしろ、繊細なほうなんだよ、おれ」
「説得力ないわねえ」
――なくたって。
「人並みにナーバスになったりする。もしかすると、人並み以上かもしれない」
少し丸くなった声で、
「ナーバスもほどほどにしておかないと、就活も、今よりもっと、うまくいかなくなるわよ?」
と言われてしまう。
おれは、車窓の先を、にらみつけるように、
「ふんっ。」
とだけ、ことばを吐く。
中野駅に停車するため、列車は減速し始めていた。
× × ×
中野駅から、愛のマンションまで歩く。
「――だいぶ、歩くんじゃないのか? 中野駅からだと、15分以上はかかるだろ」
「ヘッチャラよ」
「…自信ありげだな」
「脚力にも持久力にも自信あるし」
たしかに、脚力があるのも、持久力があるのも、事実なんだろう。
でも。
「体力だけで――ほんとに、ひとり暮らし、乗り切れるんだろうか」
「――え」
おれのほうを、愛がまじまじと見ている。
「いや、すまん。おれが、勝手にそう思ってるだけだ」
おれの『はぐらかし』が、良くなかったんだろうか――、愛の表情が、不機嫌を帯びてくる。
「疑問なの? わたしが、ひとり暮らしを続けていけるかどうか」
……そこまで深刻に考えているわけじゃない。
それは、誤解しないでほしい、と思って、
「――疑ってない。むしろ、信じてる。おまえが、ひとりでやっていけるって」
と言った。
後押しのことばのつもりだった。
なのに。
愛の表情は……不機嫌から、狼狽(うろた)えに、なり変わっていた。