フランソワ・ヴィヨンの詩を読んでいたら、電車が横浜駅に到着した。
さて、さて、さて。
人生初バイトの日。
× × ×
といっても、親戚のおじさんのお店なんだから、過度に緊張する必要もない。
八木八重子はすでにお店に来ていた。
ちゃっかりしてるんだから。
「八重子はバイトの経験あるのー?」
「あるに決まってるでしょ。バイトで稼がなきゃ大学通えないよ」
「そっか……そうだったよね。
やっぱり、わたしより……がんばってる」
「葉山は葉山でがんばってるでしょっ、そんなこと言わないの」
「……どういうふうに」
「――どういうふうにかなあ」
「や、八重子ぉ」
「いろんなひとを……後押ししてるじゃん」
「後押ししてる……わたしが?」
「わたしだって、葉山に後押しされてる。
このバイトを誘ってきてくれたときも――うれしかった。
葉山、あんたはあんたが思うより、いろんなひとをいっぱい後押ししてるんだよ」
「……ごめん、実感が」
「なくたっていい。
――バイト始めるんだからさ、もっともっとがんばれるじゃん。
やる前から、自信なくしちゃってどーすんの?」
そう言って、八重子はエネルギッシュに笑っている。
「……だよね。
ごめん、悪いクセが発動しちゃって、変なこと言っちゃった」
八重子の笑顔を見つめて――気を取り直す。
持ってきたもののことを、忘れてしまうところだった。
しっかりしなきゃ、だ。
「八重子に渡したいものが」
「え、なーに」
「エプロン」
小さめのエプロンを、八重子に差し出す。
「これつけて、接客すればいいと思う。わたしのぶんと八重子のぶん、作った」
「葉山の、手作り!?」
「純粋な…手作りじゃ、ないかなぁ。
…お母さんに、協力してもらって」
「母娘(おやこ)合作かあ」
「うん」
「ありがとう…このエプロン、大事にするね。
葉山、やっぱりがんばってんじゃん。
わたしにできないことを、がんばってる。自信持って」
「照れちゃうじゃない……」
「照れさせたんだよ」
「え…」
「どう? カラダ、あったまってきた?」
「んっ…」
× × ×
八重子とのやり取りが――ウォーミングアップ代わりになった。
持つべきものは八重子――といった感じ。
「素敵なエプロンだね、むつみちゃん」
おじさんがわたしのエプロン姿を見て、ホメてくれた。
「やる気にあふれてるなぁ。おじさんも、見習いたいよ」
「…見習って。
わたし、がんばるから――見ていてね、おじさん」
「おいおい、あんまり気負うもんじゃないぞ」
「……バイト初めてだから、つい、気負いこんで」
「ま、初めてなら、しょーがないっちゃ、しょーがないか」
優しいおじさんは、落ち着かせるように、
「うまくできなくたって、かまわないし。
疲れたり、つらくなったりしたら、遠慮なく休めばいいし――ちゃんと、むつみちゃんのためのベッドなんかも、用意しておいたから」
「――助かる、おじさん」
「頼ってくれよ」
「うん、頼る」
× × ×
そして開店時刻が来た。
わたしと八重子は、無難に仕事をこなした。
来客は、そこそこ。
そこそこ、というより……少なめ、かも。
お客さんが少なければ、負担も小さくなる。
忙しくないことは、良し悪し…だけど、バイト初日でそこまで忙しくないのは、ラッキーなのかな。
連日、お客さんの入(い)りが、この程度だと――不安になってきちゃうけど。
おじさんは、客入りの少なさなど、どこ吹く風――といった感じで、ジョッキに生ビールを注(そそ)いでいる。
夜が進行すると、ますます客数(きゃくかず)がまばらになっていく。
ゆったりとした空気がお店に流れている。
それほど、わたしは疲れていない。
やればできるじゃないの、わたし……と、素直に思う。
おじさんが、
『むつみちゃん、常連さんが来る時間だ』
と耳打ちしてきた。
「常連さん?」
問いかけたが、
おじさんは穏やかな微笑みで――なにも答えてくれない。
…やがて、ひとりの女性客が入店してきた。
ポニーテール。
20代半ばから後半の年格好(としかっこう)。
背丈は、わたしと同じぐらい。
この女性(ひと)が……常連?
「はい、むつみちゃん」
中生(ちゅうなま)のジョッキを、おじさんがわたしに手渡そうとする。
オーダーが省略された、ということ。
オーダーをとる必要がない、ということは――、
やはり、彼女が、常連みたいだ。
「あの常連さんに持っていってあげて」
おじさんのことば。
わたしの予感は的中した。
常連であるという、ポニーテールのお姉さんに、
中生ジョッキを持っていく。
近づくと、
「あら、新しい子?」
と、右手で頬杖をついていた彼女が、振り向いてくる。
――美人だった。
きれい、ってことばが、陳腐になるぐらい――きれい。
すさまじい美女オーラ。
わたしより、ぜんぜん素敵な――120%の美人顔。
街を歩いていたら、思わず男の人も女の人も振り返ってしまうぐらいの――そんな、イジワルなぐらいの、美人顔で。
なんでポニーテールなのかが、不可解なほどに。
……もしかしたら、
羽田さんより、きれいかも……!?
そんなばかな。
そんなことってあるのかしら。
ショック。
羽田さんと彼女じゃ、年代が違うから、比較対象じゃない気もするけど、
それでも、
いままで出会った女子のなかで、羽田さんがずば抜けて美人だったのに……、
こんなことって、ある!?
…中生ジョッキを、なんとかテーブルに置く。
こぼさなかったのが奇跡なくらい。
ポニーテールのお姉さんが、おもむろにジョッキを口に運んでいく。
その、飲みぶりまでもが……美人。
なにものなの……このお姉さん。
わたしは気になり通し。
なぜ、こんなにも美人なのか。
そしてなぜ、こんなにも、ポニーテールなのか……。