ロートレアモンの『マルドロールの歌』を読んでいたら、電車が横浜駅に到着した。
アルバイト、である。
× × ×
お店で、八木八重子と合流。
身支度をしながら、
「八重子、小説は、進んでいるの?」
と訊いてみる。
彼女の創作ノートのことを知ってしまった以上、小説執筆の進捗状況を訊き出さないではいられなくなる。
八重子は、
「んー、正直、イマイチ進んでないや」
「だめかー、進捗」
「がっかりした? 葉山」
「小説が、簡単に書き進められないのは、当然わかってる。
でも、八重子の作品を読める日が、楽しみなのは――事実」
「――そっか、楽しみか」
すでにエプロンをつけた八重子は、
「ハッパも、かけられないとね」
「八重子はいろいろ、忙しそうだし――気長に楽しみにしてるから」
「焦らないで、と?」
わたしがコクン、とうなずくと、
「――適度に、追い立てられたほうが、いいのかもしれないけどな」
「追い立てなんかしないってば」
「でもさぁ、ゆっくり構えすぎると、いつまでたっても出来上がらないじゃん? 作品。」
「それはいえてる……けど」
「葉山」
「え、えっ、」
「エプロンの着かたが雑」
× × ×
八重子にエプロンを直される――恥ずかしさ。
けっきょく、八重子の小説云々のことは宙ぶらりんになってしまった。
いまは、労働が先――か。
八重子に、よいインスピレーションが浮かんでくるといいんだけどね。
でも、労働の時間だ。
がんばらなきゃ、八重子とともに。
× × ×
アルバイト、
慣れてきた部分と、まだ慣れてない部分がある。
始めたばっかりなんだから――慣れない部分もじきに慣れるだろう、と、楽観的に考えている。
おじさんのサポートもあるし、ね。
にしても、八重子はテキパキしてるなー。
接客業バイトの経験がすでにあるんだっけか。
彼女から学ぶこと――この夏は、多そうだ。
時間が経過するにつれ、空席が目立ってくる。
お客さんはどんどん帰っていくし、入店する人数も少ない。
『そろそろ、あの常連さんが来る時間帯では……?』
わたしはそう思い始めた。
先週のバイト初日、鮮烈な印象をわたしに与えた、あの常連さんが……いまにも、お店にやって来そうな気がする。
その常連さんの指定席と化した席を、思わずジッと眺めてしまう。
それから、カウンターにいるおじさんを振り返る。
わたしの振り返りに気づいて、おじさんは優しく微笑み、それから軽くウインクする。
おじさんのウインクの意味を――なんとなく把握した、
そのとたん、
お店のドアが開いて――『彼女』が、常連さんが、とうとう、やって来た。
× × ×
『彼女』が指定席に向かっていくと同時に、おじさんがビールサーバーのレバーを押した。
ポニーテールのお姉さん。
きょうは両手で頬杖をついている。
そこにわたしは、いつもの中生ジョッキを運んでいく。
『彼女は転職活動中みたいだ』
おじさんから、彼女についてそういう情報が提供されていた。
……なるほど。
20代半ばから後半ぐらいで、
転職活動中で、
わたしの勝手な推測だけど、たぶん、独身……。
「ありがと」
ポニーテールのお姉さんは、気さくにビールジョッキを受け取る。
…例によって、とびきりの美人だ。
少女時代のあどけなさが、ほんの少し残っていたりはするんだけど、
全体的に、まんべんなく…美しい。
初対面のときも思ったけど、あの羽田さんが負けてしまいそうなぐらいの、ルックスの美しさ。
本気でキレイなオトナのお姉さんは、こうなんだ……って、心苦しさまでも感じてしまう。
こんな出会いも、社会勉強の一環だろうか?
『独身なんだろうけど、こんなに見惚れるぐらいの美人なんだったら、恋人が手放さないでいるんだろうな――』
こういう、よこしまな考えにふけって、ポニーテールお姉さんの指定席のすぐ横で、立ちんぼ状態だったわたしに、
「ねぇねぇ」
と、ほかならぬポニーテールお姉さんが、唐突に声かけをしてきたのだから、跳び上がるぐらいビックリした。
「……どうされましたか?」
緊張ぎみに指定席に近寄って、尋ねるわたしに、
「中生、おかわり!」
と、弾むようなテンションで、彼女は言ってくる。
「かしこまりました…」
くるり、と指定席に背を向けるわたしに、
「あ、それとねぇ」
と、彼女がまだなにか言ってくるから、さらに緊張が走る。
「――ほかのお客さん、あらかた、帰っちゃったし。
中生のおかわり、持ってきてくれたら――、
わたしと、おしゃべりしよーよ」
……思わぬ申し出に、わたしは再度ポニーテールお姉さんに振り向いて、
「……なぜですか?」
「つきあってほしいんだな~、わたしに」
「…で、ですからっ、なぜわたしを、おしゃべり相手に……」
「…実はね、」
「はい……、」
「先週、あなたが新しくバイトに入ってきたときから、『指名』したいと思っていて」
「『指名』……」
「だよ。葉山さん。」
…ちゃっかり、わたしの苗字をインプットしている彼女。
「ほら、中生中生」
ビールのおかわりを、急かしてくる……。
案外に、ワガママな性格?
× × ×
「――今夜はもう一杯飲むかも」
「はあ……」
「3杯目の中生頼んだら、ちょうどオーダーストップってとこじゃない?」
「……ですかね」
2杯目のジョッキを軽く持ち上げて、
「乾杯! ――が、したいとこだったけど、葉山さん、なんにも持ってなかった、ざんねん」
「わたしと――乾杯を?」
「今夜は乾杯ラガーな気分」
「――え」
「――ネタが古すぎたか」
なにがネタで、どうしてそのネタが古すぎるのか、まったく理解できなくて、困惑してしまう。
「葉山さんも飲まない? ジョッキでもグラスでもいいから、乾杯しよーよ」
無茶振り。
「未成年じゃないんでしょ?」
畳み掛けてくるけど、
「――あいにくこの子は飲めないんです」
いつの間にやら、おじさんが指定席のところにやって来ていて、
わたしに炭酸水の入ったグラスを提供してくれる。
まずった……! という顔になって、
ポニーテールが萎(な)えるがごとく、しおしおと恐縮して、
「……アルハラしちゃうところだった。
ごめんなさい、マスター」
謝られたおじさんはニッコリと、
「仕方ないですよ、誤解は」
「だけど……勢い余って、配慮が足りずに」
「まあまあ。反省しすぎも、毒ですし」
とんでもない美人さんが、しおしおにしおれっぱなしなのは、見ていてつらいので、
「乾杯。乾杯――しないんですか?
ちょうどわたしのグラスも、来たんだし。
ただの炭酸水ですけど――」
おじさんもわたしに加勢し、
「むつみちゃんがこう言ってくれてるんだし――乾杯しないと、損ですよ」
と趣深い微笑みをたたえながら言い、
そして指定席のところから離れ、カウンターに戻っていく。
「失敗しちゃったな。
こんな場所でまで、失敗しちゃうなんて。
アルハラ未遂は、大罪だよ。
ごめんね。」
まだ、シャッキリとしていない。
「……わたしの人生、失敗の繰り返しだ。
大学受験は2度失敗、
新卒で入った会社も失敗、
転職活動も失敗のオンパレード。
挙げ句の果てに……バイトの新人ちゃんのあなたに、アルハラな絡みかたをしてしまったり」
――仕方ないなあ。
「わたしは、アルハラとか、ぜんぜん思ってませんから」
「……ホント??」
「そこは、気に病まないでください」
「……よかった」
「もしかして、思い込みが激しいタイプだったりします?」
「えっ……それはどういう」
「なんだか、自分語りが、被害妄想めいてきてるので」
「そう……感じちゃった??」
「あのですね」
「う、うんっ」
「わたしも、よく言われることあるんです。
『自分を責めすぎないで』――って」
「――」
「で、やっぱり、失敗失敗…ってばかり言ってるのは、自分を責めすぎてて、つらくなるいっぽうだと思うんですよ」
…わたしのことばを受け止め、
彼女は、少しのあいだ、思案して、
「――そっか。
自虐は――自分に毒だよね、あなたの言うように。
せっかくの生ビールも、美味しくなくなる」
「なので、いますぐに、乾杯を済ませるべきだと思うんですけど」
「あ、乾杯、忘れちゃうとこだった」
「……言い出しっぺがなに言ってるんですか」
「だよね。――迷路に、入ってるみたいだった」
「その迷路から抜け出してください」
「そうね。
…わたしのあしたの、ためにもね。」
× × ×
「――乾杯っ!」
そう言って、彼女はジョッキをわたしのグラスに合わせる。
乾杯の弾みで、彼女のポニーテールが揺れた。
揺れるポニーテールを、眼に焼きつけながら、
「乾杯。」
とわたしも言って、グラスの炭酸水を、口に運び始めた。