【愛の◯◯】「保健体育」というワード一発で勉強会があえなく瓦解する

 

姉の親友の、青島さやかさん。

日本の最高学府に現役で合格した、才女(さいじょ)である。

 

そのさやかさんが、邸(いえ)にやってきた。

 

 

「ようこそ、さやかさん」

「久しぶりだね、利比古くん」

「きょうはよろしくおねがいします」

「…真面目で礼儀正しいね。『だれかさん』と違って」

 

あはは……。

 

『ちょっと、『だれかさん』って、だれのこと!?』

 

――驚いた。

いつのまにか、姉がぼくの後ろに立っていた。

腕を組んで、怒り気味の顔。

 

「アチャー」

「アチャー、じゃないでしょ、さやか。あなたわたしのこと言ってたでしょ」

「どうかな」

「不真面目だとか、礼儀正しくないとか……」

なおも腕を組み続けて、

「わたしだって真面目なときは真面目だし、礼儀正しいときは礼儀正しいし」

わかったわかった……と、さやかさんは手をヒラヒラとさせて、

「はいはい、午前中から血圧上げない」

「さやかっ!」

「あんたとケンカしたくないよ」

「もう……」

姉は踵(きびす)を返し、

「利比古、会場のセッティングを手伝って。さやかはどこでもいいから座って待ってて」

 

 

ダイニングに向かう姉を追う。

髪が、慌ててブラッシングをしたように見える。

「身支度の時間あんまりなかったんだね、お姉ちゃん」

「どうしてわかるの」

「弟のぼくが見ればわかるよ」

「……」

「お姉ちゃんは珍しく余裕なかった。一方、さやかさんは、東大生の余裕が……」

「……ふんっ」

 

× × ×

 

「利比古がきょうに限ってなんだか生意気なのよ。教育してあげてさやか」

 

本日の会場に、さやかさんを迎え入れた。

集まっているのは、

・さやかさん

・姉

・ぼく

・あすかさん

の4名。

 

「教育する、って言ってもねぇ」

しょうがない親友だなあ……といった眼で、姉にさやかさんは言う。

「日本の最高学府でしょっ」と姉。

「どういうツッコミかなあ」と苦笑のさやかさん。

 

「ちょっと利比古くん、生意気じゃーだめじゃないの」

あすかさんに型通りたしなめられて、

「お姉ちゃんが少しばかり気が立ってるだけですよ」

 

それを聞いた姉が、

「わ、わたしいつもと変わんないよ」

と反発するが、

「そうかなあ?」とぼく。

「ほんとー?」とさやかさん。

 

窮地の姉は、

「ど、どうぞ、3人でごゆっくり」

と声を震わせ、

「わたし、自分を見つめ直してくる……」

と言ったかと思うと、部屋への階段へと、トボトボと歩いていった。

 

× × ×

 

「自分を見つめ直してくるとか、大げさ言っちゃって」とさやかさん。

「きっと、自分の部屋じゃなくて、アツマさんの部屋に行ってますよ」とぼく。

「あー、なぐさめられたいんだ」とさやかさん。

「……利比古くんにしては、不真面目なこと言うね」とあすかさん。

「不真面目ですか?」とぼく。

「いつもはもっと、おねーさんに弱腰じゃない」とあすかさん。

「ぼくだって、言うときは言いますよ」

「利比古くん……少し、変わったよね」

あすかさんのご指摘に、

「変わらないほうが、不自然です」

と返す。

「さやかさんは……こういう利比古くんを見て、どう思われるでしょうか?」

とあすかさんが訊く。

するとさやかさんは、

「姉にやられっぱなしよりは――いいんじゃないの?」

と答える。

部屋に続く階段のほうを向いて、

「愛だって――張り合いがないよりは、あるほうがいいでしょ」

 

ぼくは、

「――いままで、姉に甘えすぎていた面もあったんだと思います。

 姉のほうも、弟に甘すぎるというか――少なからず、ブラザーコンプレックス的なものが入ってたんで」

「愛から自立したいのか、利比古くんは」

微笑みながらさやかさんが言った。

「そうですね。高校2年生にもなっちゃいましたし」

ぼくは答えた。

「それなら。

 自立したいのなら――勉強会、早く始めよう?」

さやかさんが、促してきた。

 

× × ×

 

戸(と)ゼミ。

戸部邸ゼミナールの略で、あすかさんとぼくが立ち上げた勉強会である。

普段はあすかさんとふたりで『開講』しているのだが、きょうは土曜日ということで、『特別講師』として、さやかさんを招いたというわけだ。

 

ぼくとあすかさんは、ふたり並んで、テーブルに教科書や問題集を広げて、勉強態勢を作っている。

向かい側には、さやかさん。

ぼくには理数系科目を、あすかさんには国語と社会を指導してくれる手筈(てはず)になっていた。

 

「あすかちゃん、国語は得意なんじゃないの?」

さやかさんの疑問ももっともだが、

「それでもさやかさんのほうが、国語の偏差値、15ぐらい高いじゃないですか」

とあすかさんが応戦。

「自分より国語ができる人に教えを請(こ)うのは当然です」

とあすかさんはキッパリ。

「……わかった。その代わり、ちゃんとわたしの教えについてくるんだよ」

「はい!」

高らかに言うあすかさんだった。

 

 

それから、ときどきさやかさんに様子を見てもらいつつ、ぼくたちは勉強に勤(いそ)しんだ。

 

お昼になるまで、ひたすら勉強に勤しみ続ける。

はずだった。

 

――ところが、突如として、あすかさんが勉強の手を止めて、

「さやかさんっ!」

「えっ――いきなりどうしたの、あすかちゃん」

さやかさんが眼をパチクリさせるのも、当たり前だった。

あすかさんはさやかさんに向かって身を乗り出し加減だ。

猛烈な勢いのままにあすかさんは、

「さやかさんに、訊きたいことが、あるんです!」

「え、え、え」

さやかさんが気圧(けお)されてしまっている。

「それって……勉強以外の……こと……?」

「ん~っ、たしかに勉強関係あるといえば、あるんですけど」

「なんの……ご質問、なのかな」

「質問、言います。

 さやかさんの、高校時代の、苦手教科は――なんでしたか?」

「『苦手』な教科?」

「ハイ」

 

なんでこのタイミングでそんなこと訊くんだろ……とぼくは不可解だった。

あすかさん、さやかさんの弱みでも握りたいんだろうか?

 

若干、恥ずかしそうに、さやかさんはこう答えた。

「……保健体育と、家庭科」

「へえええぇ~~、保健体育!!

即座にあすかさんが叫ぶような声を上げた……!

 

「そう……保健体育」

ショボショボとさやかさんはつぶやく。

 

あすかさんにたまりかねてぼくは、

「だめじゃないですか、素っ頓狂な声上げちゃ」

「へへん、上げちゃった。上げちゃった声は、仕方がない」

「あすかさんっ……」

ここは、たしなめておかないと、と思い、

「『保健体育』を強調するのは、よくないと思います」

「どして?」

あすかさんっ。

「だって……『保健体育』って、デリケートなニュアンスも含まれてるじゃないですか」

「たしかにね。利比古くんの顔も、デリケートに赤くなり始めてるもんね」

「で、『デリケートに赤くなる』って、どんな日本語ですかっ」

 

なんでこのひとは、こんなタイミングで、さやかさんやぼくを、おちょくり続けるのかなあ……。

 

せっかくの特別講師付きの戸(と)ゼミが、空中分解しそうになりかかっていたところに、

ブラ~ッと、アツマさんが、通りがかってきた。

 

「なんだよ。勉強会やってるって愛は言ってたけど、みんな手が動いてないじゃんか」

ソファに頬杖をついて、空中分解寸前のぼくたちを眺めながら、

「…さやかさんと利比古は、なぜに赤面状態なの?」

 

さやかさんの赤面状態が加速していく。

一方で、ぼくは、さやかさんを筆頭にいろいろラチがあかなくなる……という危機感で、襟(えり)を正して、

「戦犯は、あすかさんです。あすかさんが悪いんです」

「あすかが暴言でも吐いたんか」

「それに類する……」

 

ぼくのことばをうけてアツマさんは、

「ダメじゃねーかあすか。さやかさんにまで迷惑かけるようなことして。お仕置きすっぞ、お仕置き」

「――散らかった部屋をわたしが掃除してあげたの忘れたの!? お仕置きする資格なんて、お兄ちゃんにはない」

「あすか!」

 

ダンマリを決め込んでしまうあすかさん。

だめだぁ、収拾つきっこないよ。

 

「……利比古くん」

相当弱々しい声で、さやかさんが呼びかけてきた。

「どーしよっかあ……」

「どう、しましょうねえ……」

お互い、困惑に困惑。

「お昼ごはん食べたら、リセットできるかなあ……場を」

「それは……食べてみたいと、わかりませんねぇ……」

「わたし、いまみたいな精神状態で、東大の二次試験もう一度受けろと言われたって、絶対にできっこない……」

「さっ…さやかさん、凹(へこ)みすぎでは!?」

 

あすかさんの罪だけが……、

どんどん重たくなっていく。

 

もっと、普段の生活から……あすかさんに、厳しくしていくべきだったんだろうか。

後悔。そして、自責の念。