文学を読み始めた。
羽田さんに薦(すす)められた新潮文庫を読んでいる。
文学なんて初めてだから――読み慣れないよね。
読むスピードが駆け足になったと思ったら、ゆっくり立ち止まったり。
文学の呼吸を――これからじっくりと、覚えていくんだ。
「余裕あるねえ、たまきは」
マツワカに言われた。
自由登校期間、なのである。
学校に来ても来なくてもいい、でも来ないんだったらおうちでしっかり勉強しなさいよ……というわけ。
『おうちでも勉強できるよ』派と、『おうちにいたら気が散ったりするから、学校に行ったほうが勉強はかどるよ』派に、大まかに分かれる。
わたしやマツワカは後者、つまり、登校して自習する派。
――というわけで、きょうも朝から学校に来てるわけだ。
文芸部のスペースにいる。
空気を読んでくれて、わたしやマツワカがいるところには、あまり人が近寄ってこない。
『あそこは文芸部の領域だから……』と気配りしてくれてるわけ。
みんな、優しいな。
なんだかこっちが恐縮しちゃう。
いま図書館にいる高等部3年生は、ほとんどが自習中。
堂々と新潮文庫を開いて読んでいるのは……わたしぐらい?
申し訳ないなあ……と良心を少しだけ傷(いた)める。
や、わたしだって受験生には変わりないんだけど、きょうは朝早くから登校したし、悠長に構えてても差し支えないよね……と、若干空気を読めずに、読書している。
なんだか、授業中に内職で本をこっそり読んでいる感覚みたいだ。
「余裕あるねえ」とマツワカに言われた。
マツワカは朝、席についたとたんに、迷いなく勉強道具を広げ、一直線に勉強し始めた。
受験に一途(いちず)、って感じ。
無理もないや。
共通試験の結果は上々だったみたいだけど――なにせ、関東地方の国立大学文系のなかだと、上から2番目に難しいとこ受けるんだもんね。
目指せ、国立(くにたち)の国立(こくりつ)。
ここに至るまで、マツワカにもいろいろあったのだ。
進路指導の先生との、折り合いとか……。
けれども、いろんなプレッシャーやストレスがかかるなかで、『6年劇』の脚本を書き上げちゃうんだもんな。
なんていうタフネスか。
見習いたいよ。
わたしは、マイペースなようで、マイペースを裏返せば、現実逃避。
そう。
こうやって、余裕しゃくしゃくで読書…っていうのは、『うわべ』なんであって。
ハタから見れば、『たまきさんは落ち着いてる』『受験のプレッシャーに動じてない』『この時期に読書できるなんてスゴい』なんて、そんなふうに過大評価されてるのかもしれないけど。
……現実逃避を否定したら、ウソになる。
いまの自分を、3分割してみる。
1/3の、マイペース。
1/3の、現実逃避。
そして――、
1/3の、焦り。
振り子時計を見る。
もうこんな時間か。
いつまでも読書してるわけにもいかないよね……と、少し焦り気味に、新潮文庫を読みさしにして、かばんに入れようとする。
ふと、赤本に没頭していたマツワカが、顔を上げた。
「あ」
なにか、大発見でもしたかのように、わたしに向かって眼を見開いている。
どうしたんだろう……と思う間(ま)もなく、
「――よく見たら、たまきのカーディガン、裏返し」
!!
「めっずらし~~、やっぱあんたも焦ってんだねぇ」
そんなに……慌てて身支度したはずじゃ、なかったのに……。
マツワカは笑い顔で、和(なご)やかに、
「安心したよ」
と言ってくる。
わたしはいささか早口に、
「安心ってなに」
と、問い返すばかり。
「たまきも……人並みに焦るんだな、って思ったら、安心した」
「わ、わたしは人並みだよっ、おっちょこちょいにもなったりするよっ」
「ほんとにおっちょこちょいだね、カーディガン裏返しなんてさ」
「…なんでもっと早く気づいてくれなかったかなあ」
「恥(は)ずい?」
「恥ずいよ。すっごく」
「冷静さ、欠いてる、欠いてる」
自習……どころの話ではなく、
「わ、わ、わたし服をちゃんとしてくるからっっ」
そう言ってガバアッ、と立ち上がるわたしに、
「く~っ、かわいいな~」
とマツワカが追い打ちをかけてくる。
ダメ押し。
テンパるわたしは、
「だって、羽田さんが、もうすぐここに来ちゃうんだよっ!?」
昼前に、羽田さんが合流する、という予定だったのだ。
「このままじゃ羽田さんに顔、合わせられないじゃん!」
わめくような声になってしまった。
本音の悲鳴。
人差し指を口に当てて、『お静かに…』というメッセージを、マツワカが送ってくる。
こんなにテンパったまま図書館にいても迷惑だし、早くカーディガンを直さないと羽田さんがやって来ちゃうし……で、たまらず一目散に出口に向かっていくわたしだった。
情けない。
1/3の焦りが、1/3じゃなくなってる。
いまのわたしの50%以上が、焦りでできている。
過半数どころじゃなくて――2/3が、焦りかも。
× × ×
よかった。
間に合った。
羽田さん、まだ到着してない。
こころを整えておく時間がある。
「よしよし、カーディガン、ちゃんとなったね」
焦りを鎮(しず)めようとするわたしに、マツワカが余計なことを言ってくる。
「バカにするみたいに……」
わたしはグチをこぼすけれど、反面、こんなマツワカが憎めなかったりもする。
そして、羽田さんがとうとう姿を現した。
「おはよう、松若さん、たまきさん。もうお昼に近いから、『おそよう』かな?」
いつもながら、キレイ……。
惚れ惚れするくらいの、髪の色と、髪の長さ。
……ちゃんとしといてよかった、カーディガン。
「――なにウットリしてるの? たまきさん」
「あ、あせってるからかなっ」
キョトーン、とした顔になる羽田さん。
そんな顔まで、キレイに整っているから――脈拍が、速くなる。