「ねえ、羽田さん……」
「なあに? 松若さん」
「えーっとね、
きょうって……水曜日でいいんだよね」
えっ。
どうしちゃったの……松若さん!?
「きょ、きょうはどっからどうみたって水曜日よ、OK? 松若さん」
「そうだよねー」
彼女は、恥ずかしそうに笑って、
「月曜日が、祝日だったでしょ? それで、曜日の感覚がつかめてないんだと思う」
「マツワカがそんなふうになっちゃうのも、わからないでもない」
たまきさんが、松若さんに共感を寄せる。
「わたしもね、きのうの夜、『もうすぐ月9ドラマの時間だよね』とか、一瞬思っちゃった」
よ、曜日って、間違えるものなのかな。
「――だからマツワカもあんまり気にしなくていいと思うよ」
「そう言ってくれるとありがたいよ、たまき」
たまきさんは「あんまり気にしなくていい」って言うけど、
わたしは少しばかりでなく心配だった。
松若さん――きょうが何曜日かわからなくなるぐらい、切羽詰まってる?
× × ×
文芸部である。
共通試験が間近に迫っているが、平常営業。
最高学年がここまで居残る部活は、わが校では文芸部が唯一だろう。
まあ――部活動の負担とか、あってないようなものだし。
わが文芸部は自由なのだ。
小説を書いてもよし。
ただ本を読んでるだけでもよし。
おしゃべりしてるだけでもよし。
受験勉強を持ち込んだって構わない。
入試が迫るにつれて、3年生のあいだで勉強サークル色が強まってきているのは――良し悪し。
入試の情報を交換しあっているわたしたち最上級生を、後輩がどんな目で見ているのかは――気になる。
「川又さん、迷惑してない?」
気になったから、かわいいかわいい後輩の川又さんに、思い切って訊いてみた。
「迷惑……? なにがですか」
「最近、受験勉強の話ばっかりじゃない? わたしたち3年」
川又さんはキョトンとして、
「気のせいでは」
「正直に言っていいのよ」
「じゃあ正直に言いますけど……センパイが考えすぎなんだと思います」
「うっそー」
「たしかに受験の話題は増えた気はしますが……羽田センパイ、赤本ばっかり解いてるとか、そういうわけじゃないでしょ」
「まーねぇ」
「むしろ、赤本じゃなくって、岩波文庫の赤を読んでる」
わたしの手元を見て、
「きょうだって――そんなに分厚い岩波の赤を」
「読んでるねー」
「――入試前なのに、余裕があって、尊敬します」
「あら、ありがとう」
「たまきセンパイだって、いつもどおり、マイペース読書だし」
「ほんとうね」
「松若センパイが……きょうは参考書とにらめっこしてないのは、意外ですけど」
「ほんとうだ」
松若さんと、川又さんの、眼が合った。
「す、すっ、すみませんっ、失礼なこと言っちゃいましたか!? わたし」
松若さんは首をかしげ、
「なぜ川又さんテンパるかな」
「いや…その…」
あたふたしている川又さんを優しく包み込むように、
「落ち着いてよ」
と、なだめる松若さん。
「心境の変化があってさ――『いまさらジタバタしても、しょうがないじゃん』って」
右手で頬杖(ほおづえ)をつきながら、
「だからあたし、勉強をし過ぎないようにしたの」
松若さんの手元には、なにも置かれていない。
「――ずいぶんドラスティックな心境の変化ね」
わたしは思わず言ってしまった。
「羽田さん、不安? あたしのことが」
松若さんは、動じず。
「不安よ……切羽詰まってるんじゃないかと思ってたら、急に気持ちを切り換えたようなことを言うんだもの」
川又さんがハラハラしているのを感じ取りながらも、
「そんなにいきなり――気持ちを切り換えられるものでもないでしょうに」
ピーン、と張り詰めた空気が形成されてくるのは……わたしのせい。
部長失格。
「松若さんのことが心配なのよ、わかってよ」
閉じた岩波文庫。
悪寒にも似た、冷たい空気。
「……きょうが何曜日かもわからないっていうのは、余裕がないことの証拠じゃないのっ」
捨てゼリフ。
それとともに、乱暴に立ち上がって、
乱暴な足取りで、図書館の出口に向かう。
松若さんの顔を見られない、自分への怒りが、
わたしの足音を大きくさせる。
× × ×
なにも持たずに出てきてしまった。
空気を破壊した挙げ句、部長みずから逃亡。
最悪だ。
なにやってんだろ。
自分で自分に、平手打ち。
ほっぺたがアザになるのが怖くて、中途半端なビンタになる。
なにやってんのよっ。
わたし。
「バカっ」
ひとりでに大声が出た。
びっくりして、通りがかった子が足を止める。
下級生?
周りに、気を払っていなくて、
他人の存在に気づかなかった。
自分ビンタしてるところも、もしかしたら見られちゃったのかも。
だとしたら、恥ずかしすぎる。
下級生らしき子が、足早に去っていく。
これからどうしよう。
いまのわたし、半分が虚脱感でできてる。
あーーっ。
大きな樹(き)の幹が、眼の前にある。
右手を幹に押し当てて、眼を閉じる。
『……なにしてるの? 羽田さん』
声が聞こえてきた。
松若さん以外のだれでもない声だ。
「よく見つけられたね……」
弱気な声で言うわたし。
「すぐにあたし追いかけたよ。いろんな子に『羽田さんらしき女の子、目撃しなかった?』って訊いてまわって」
わたしは松若さんに振り向く。
そしたら、
「なんで……片方のほっぺたが、赤くなってるの?」
肩を落としつつわたしは、
「自分で自分をビンタしたからに決まってるでしょ」
「……責任感、感じすぎだよ、それは」
わたしに近づいて、
「あたしのこと、『心配してる』って言ってくれたけどさ、逆じゃん、ほんとうは」
「逆、って」
「あたしのほうが、羽田さんを、心配しちゃうってこと」
なにも、言えない。
「ホラ、さっさと戻っちゃおうよ。だれも気にしてないって」
謝りたかった。
謝りたかったけど……なかなか、口からことばが出てこずに。
うなだれて、松若さんの背中を追って歩く。
このままじゃダメだ。
このままじゃ、部活には復帰できない。
なにか、松若さんに言ってあげないと――わたしは、図書館の自分の席に戻って行けない。
『ごめんなさい』でもない。
『ありがとう』でもない。
もっと――かけるべきことばがある。
それは、
その最適解は。
「――がんばって」
図書館の眼の前まで来て、ようやく、言えた。
「がんばって、松若さん。
わたしもがんばるから、がんばって」
わたしに背中を向けたままで、松若さんは言う――、
「やっぱり、スゴい、羽田さんは。」
「どうして、どうしてスゴいって思うの」
「だって――本気で応援してくれてるんだって、わかるんだもん」
「気持ちが、伝わったのなら、うれしい…かな」
「伝わった。『愛』がこもってた」
「『愛』って。わたしの名前に、掛けてるのかな」
「するどい。さすがだ、羽田さん」
ようやく、気持ちの矢印が、上向きになってくる。
松若さんが、わたしのほうを、振り返る。
「ひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」
「なあに? いまなら、なんでも約束してあげるよ」
「そう。
――じゃあ、言うんだけど、
自分で自分を、傷つけないで。」
「……、
自虐的な考えに走らないで、ってことかしら」
「それもある」
「『それもある』ってことは……まだなにか、あるってことよね」
「そ。
もう一点。
物理的なこと…なんだけどさ」
「物理的って……もしや」
「その、『もしや』だよ。
自分で自分をビンタするのは、あたしが許しません――ってこと」
「――ダメ? 自分ビンタ」
「ダメ!
まだほっぺた腫(は)れてんじゃん、微妙に。
羽田さんが、自分で自分の顔を痛めつけるなんて……あっちゃいけないよ」
「でも――自分の顔は、自己責任だし」
「そーゆーところっ」
「ど、どういうところよ…」
「なんでそーゆーとこだけ、ニブいのかなぁ」
「……?」
「あたしが男子だったら――とっくに惚れてるぐらい、羽田さんは美人なんだよ」
「……!!」
「というか――絶対に、一目惚れしちゃってるよ」
× × ×
「センパイ、わたしちょっと怒ってます」
川又さんがムッとしてる。
「……自分勝手に、その場を放り出して。中等部の子みたいなワガママぶりでしたね」
はい。
ワガママでした、わたし。
「部長としての自覚を持ってください――といっても、こんな時期に言ったってしょうがないですけど」
「わかったわかった」
「反省……ほんとにしてますか?」
「部長がこんなんじゃ、川又さんも安心して引き継げないよねえ」
「……え??」
もう一度、言ってくれませんか…と、川又さんの表情が、言っている。
「次期部長は、川又さん、あなただから。…これだけわたしに説教できるのなら、心配しなくったって、任せられるわね」
動揺する川又さんをよそに、
「あたしも太鼓判押すよ」と松若さんが賛同し、
「羽田さんの言うとおり」とたまきさんも同意を示してくれる。
「ま、正式な引き継ぎは、また今度」
「きゅ、急展開すぎませんか?」
「なにを言うの、川又さん」
「えぇ……」
「よろしくね」
「よろしくね、って」
「ほーのーかちゃんっ♫」
「ななななんで下の名前いきなり」
「だってわたしは『ほのかちゃん』がかわいいんだから」
「…『ほのか』ってあんまり呼ばないでください、『川又』でいいですっ!」
「そういう突っぱねかたが…いちばんかわいいのよっ♫」
「……羽田センパイの思考回路が摩訶不思議です」