あさってが共通試験なので、とても早く授業が終わった。
向こうの教室まで出向いて、愛としゃべっている。
「きのう、文芸部で修羅場っちゃって」
そっかー。
修羅場っちゃったかー。
にしても、この時期に部活やって修羅場るなんて、余裕あるねえ。
「――でも、おさまったんでしょ、修羅場?」
「なんとかね」
苦笑して愛は言う。
「いつまであんた部長やんの」
「…もう少しよ。もう少しだけ部長なの」
あ、そう。
「わたし、さやかが最近図書館に来なくて、少しさびしいの」
「なかなか、慌ただしくってね」
「…そりゃそうか」
窓の外の景色を見る。
当然、桜の花は、まだ咲かない。
「早く、暖かくなるといいのにね」
そうポツリとわたしは言う。
「春が――やってきたら、卒業か」
わたしがつぶやくと、愛がしんみりとした顔になり、
「こうやって、教室でおしゃべりすることも、なくなっちゃうのね」
進路は必然的に分かれる。
同じ大学で仲良しこよし……なんてことには、なり得ない。
「さやかは、わたしの受ける大学、すべり止めにはしないんだよね」
「うん、すべり止めはべつの大学」
「具体的には?」
「アカ子が進む大学とか」
「やっぱり、そうなるよねー」
第一志望が、第一志望なだけに。
ところで、
「愛が私立文系を志望校にしたのは、意外だったな。あんたの学力だったら、もっと高望みできたのに」
2学期の期末テストの学年順位も、直近の模試の偏差値も、わたしより愛のほうが上だった。
「もったいない、って思ってる?」
笑って愛は問いかける。
「…正直。」
「でもさ、やりたいことを曲げてまで、偏差値重視で大学を選ぶなんて、そっちのほうがもったいないとわたしは思うよ」
考えかたが柔らかくていいな…愛は。
「勘違いしてほしくないのは――さやかの進む道を、否定してないってこと。
さやかが、やりたいことを曲げてる、なんて、そんなことぜんぜん思ってないから」
優しくわたしを見つめて、
「東大を受けるのだって――さやか自身の意志でしょう?」
そう問いかける愛の顔が、自然な優しさに満ち溢(あふ)れていたから、思わずドキッとしてしまう。
「進路のことを話しているの?」
アカ子がやってきた。
「この時期に、進路以外のことを話すのも、なんだかヘンでしょ」
軽くツッコむわたし。
「そうよね、あさって――だものね」
アカ子は言う。
「愛ちゃん、あんまりさやかちゃんにプレッシャーかけないのよ?」
「かけてないよぉ~」
無邪気な愛。
「さやかちゃん、体調だけは、崩さないでね」
「気づかってくれて、ありがとう」
感謝しつつ、アカ子の顔をまっすぐに見る。
ん~、
「アカ子、あんたさ――」
「えっなに、さやかちゃん」
「――オトナっぽくなったよね」
そのことばにビックリして、
「どうしてそう思うの!? さやかちゃん…」
「根拠は、とくになし」
「そんな」
「…まあ軽く受け止めてくれたらいいんだけど、それはそうとして」
「まだなにかあるの…?」
「ある。あんたに訊きたいこと」
「……言ってくれる?」
「うん、言う」
なにが言いたいのかしら、と若干不安そうな表情のアカ子に、
「ハルくんの志望校……教えてくれない?」
「え……どうして、とつぜん、ハルくんのこと訊くの……」
わたしだって、親友の彼氏は、気になるよ。
イジワルかもしれないけど。
でも、たまには、ちょっかい出したくなっちゃうよね。
× × ×
3人でおしゃべりしたのが、ちょうどいい息抜きになった。
持つべきものは、親友だな。
ここまで、愛やアカ子と仲良くなるなんて、思いもしなかった。
孤立無援だったわたしを、ふたりが救ってくれた。
卒業しても――手放したくない。
友情は、ずっと続いていく。
× × ×
廊下を歩いていたら、荒木先生に出くわした。
出くわした弾(はず)みで、わたしは立ち止まる。
荒木先生が、気づく。
なんとも言えない表情の先生。
――気まずい。
11月24日の事件以来、まともに荒木先生と意思疎通できていない。
音楽の授業は、受けている。
だけど、授業中、わたしは一切発言しなくなった。
だんまりを決め込んでいる。
教壇に視線も向けなくなった。
先生のほうでも……わたしの席に眼を向けるのを、躊躇(ためら)っているのかもしれない。
久々に、視線が出会った。
どうコミュニケーションすればいいんだろう。
わたしは、考えをめぐらせる。
……気まずいまま、終わりたくない。
残り少ない、先生との関わりを、大切な時間にしたい。
そういう願望が……言えない。
願いが、願いのまま、宙に浮いていく。
視線を逸(そ)らして、逃げようとした。
あきらめの足を踏み出した、その瞬間。
「青島さん」
久方ぶりに……先生が、わたしの苗字を呼んだ。
呼んでくれた。
呼んでくれたのなら、
逃げる必要も、あきらめる必要もない。
「青島さん、」
もう一度、呼んでくれた。
ことばの続きは、予測するまでもない。
「ちょっと、話があるんだ」
× × ×
音楽準備室に入るのも、11月24日の事件以来だった。
「けっこう、度胸あるんですね、先生も」
「度胸?」
「教え子と音楽準備室でふたりきりも、何度目ですか」
「――もう数えてないよ」
「そういうところが、度胸です」
「しょうがないな、青島さんも……ま、ホメ言葉として、受け取っておくよ」
床に落ちた楽譜やらプリントやらを拾いながら、ことばを交わしている。
交わしているうちに、氷が溶けるようにして、わたしと先生は打ち解けていく。
机の上で、拾ったプリントの山を、トントンと整頓する。
それを見た先生が、
「――要領いいね、青島さんは」
「要領が良くなかったら、わたしこんなに学業優秀になってません」
わざとらしい自慢だったのだが、
「自信があって――いいと思うよ。きっと入試も、うまくいく」
「気になるんですか? わたしの大学入試が」
「小耳に挟んじゃったんだよ――きみが、すごい大学受けるんだって」
「先生が話したいことって、もしかして、東大入試の心構えだったり」
冗談で、揺らしてみる。
「東大を出てない人間が東大入試の心構えを言えるわけないじゃないか」
型通りの、ツッコミ。
「そうですよねー。先生は東大も出てなければ、東京藝大も出ていない」
「ずいぶんおちょくってくるね」
「この際(さい)だから」
は~っ、とため息ついて、
「あのね。ぼくが話したいことは、そういうことじゃないんだよ」
一気にわたしは身構える。
「たしかに、共通試験も、その先の試験も、青島さんにはがんばってほしいと思ってる」
「はい……」
「でもそれだけじゃないんだ」
窓を、見ながら、
「桜の花が咲くまでに……なんとかしておかないといけないことがある」
そして、目線をわたしに移し――、
「悲しい思いや寂しい思いを、きみにさせてしまった。すまなかった」
謝られた。
ひとことで、わたしはぜんぶ、理解した。
先生が、彼が、どんなことを、謝っているのか。
ギクシャクしなくなる代わりに、
わたしの胸が、ドキドキと高鳴る。
「――大事な入試前に、かえってマズかったかな」
「そんなこと、ないですっ」
「ほんとうかい?」
「ほんとうですよっ」
そして、ひとりでに、身を乗り出し、
「先生!」
「……青島さん?」
「ちゃんと謝ってくれて、わたしうれしいし、
それに……それと……わたし……。
せ、
先生の……、ことがっ、」
……そこで、宙づりになる、わたしの、ことば。
「……、
ごめんなさい、
これ以上、先走れない」
震え声。
机に押し当てた両腕まで震えてくる。
胸のなかで、いろんな気持ちが、震動している。
こころのうねりが、耐えきれなくて。
「これ以上、先走れないけど――やっぱりわたしは、先走る先を先走りたい」
メチャクチャな日本語。
こころがおかしくなりそう!
だから、
わたしは叫んだ!
「ずっと、ずっと好きだったの!!」
――言ってしまったら、
ぜんぶが、楽になった。
荒木先生は、いま、わたしの清々(すがすが)しい気持ちとは、真反対だろう。
そんな先生を思いやって、
なにも言えない先生を思いやって、
あの日、11月24日に言えなかったことば、
「またあした。」
を、こんどは、ちゃんと言って、
音楽準備室を、わたしは引き払った。
× × ×
名残惜しい、音楽準備室の扉。
「またあした。」ともう一度、扉に向かって、声をかける。