ボクシング中継番組の制作が、現実味を帯びてきた。
「実況はもちろんわたしで、撮影はとうぜん黒柳くんね。
羽田くんは、全体の構成を考えて」
そう、新会長の板東さんに言われた。
全体の構成――か。
いわば、段取り。
番組を、どういう流れに、していくか。
ボクシングについてあまりにも知らなかったので、例によってウィキペディア先生に頼ってみた。
日本におけるボクシングの歴史…みたいな記事があったのだが、ものすごーく記述が長かった。
情報量が多くて、とても一読では把握しきれない。
日本のボクシングも、深いんだなあ……と。
井上尚弥選手の活躍などで、ボクシングもトレンド性がある。
この時期にボクシングを取り上げるのにも、意義があるだろう。
「ボクシング部ね、ちょうどうまい具合に、試合があるんだって」
「え、板東さん、いつの間にボクシング部から、情報を」
「黒柳くん、わたしは行動が早いの。あなたは行動が遅いの」
シュンとする黒柳さん。
ボクシング部に…行ってきたんですね、板東さん。
さすが新会長。
「ねえ、これからボクシング部のところに打ち合わせに行こうよ、黒柳くん」
「ぼくも?」
「撮影にも、段取り、ってものがあるじゃないの」
「たしかに…」
「…ボクシング部だからって、ビビってない?」
「正直、少し…」
「こわくなんかないって。どこまで気弱なのっ」
例によって板東さんにタジタジな黒柳さん。
この構図が、これからも繰り返されるのか。
× × ×
「留守番しててー」と言い、板東さんは黒柳さんを連れて出ていった。
ぼくは、居残り。
そして、いま、【第2放送室】に残っているのは、ぼくだけではなく――。
「わりと順調じゃん」
頬杖をつきながら、板東さんと黒柳さんが打ち合わせに向かっていくのを見送った、麻井『名誉会長』。
「羽田もがんばんのよ」
さりげなく、といった感じで、ぼくにエールを送ってくれる。
「はい、ぼくもがんばりますけど――」
「――けど、?」
「会長、じゃなかった、麻井先輩も、がんばってくださいね」
姉のような百点満点スマイルは作れないけれど、できる限り励ましの笑顔になるよう努力しながら、ぼくはエールを送り返した。
もちろん、受験勉強がんばってください、っていう、応援だ。
……ぼくの「がんばってください」を受け止めた麻井先輩。
彼女の顔が、かなり赤くなっている。
戸惑ってるみたいに、あるいは、恥ずかしがってるみたいに。
あるいは、その両方か。
そんなに――赤面しなくてもいいのに。
ちょっと、彼女らしくない気がする。
なぜ?
ほっぺたが赤くなったまま、こほん、と咳払いして麻井先輩は、
「あ、ありがとう」
「わぁ、素直に麻井先輩に感謝された」
条件反射でぼくはリアクションを返した。
すると、
「あ、アタシ……前より素直だもん」
顔面の『赤面率』が、いっそう高くなっている。
なぜ?
おもむろに、麻井先輩が立ち上がった。
ぼくの向かい側から、ぼくの椅子の左隣の椅子に移動して、腰かける。
つまり、
ぼくと彼女は隣り合って、同じ方向を見ている――、
そんなシチュエーションになった。
【第2放送室】で、ぼくと麻井先輩が、同じ方向を向いて座るなんて。
史上初ではないだろうか。
にしても――、
「なんでこっち来たんですか」
「……」
「赤くなった顔を正面から見られるのが恥ずかしいとか」
「バカ! 羽田のわからずや」
怒鳴られた。
いきなり「わからずや」ですかー。
それから、いくぶん時間をかけて、平静さを取り戻していった彼女が、こう言った。
「新鮮さが、ほしかった」
「はい??」
「アンタと同じ方向向いて座るのは……新鮮でしょ」
「は、はい」
「たまにはいいじゃん。
それに、この空間にアタシが居られるのも、あと少しだし……」
ここで、板東さんからLINE通知。
確認すると、
『現地解散!!
わたしたち現地解散したから、そっちも現地解散でよろしく~』
――つまり、きょうは、板東さんと黒柳さんは、もう【第2放送室】に戻ってこない。
そういうわけだ。
「どうしましょうか? 2年のおふたがたは戻ってこないって」
「じゃ、アンタともう少しここにいる」
「ここにいる、って」
「……いさせてよ、羽田っ」
こころなしか、
麻井先輩が……ぼくに、からだを近づけているような気がする。
「アタシだって受験勉強で、てんてこ舞いで、疲れたまってんだから…」
たしかに――、
小学生のように小柄なからだが、くたびれているようにも見える。
「認めたくないけど…」
「?」
「アンタの存在が、癒(い)やしなの」
「!」
「かっ、勘違いしないでよね!! アンタといっしょにいるとホッとする、ってだけだから」
知らなかった。
ぼくのこと、そういうふうに思ってたんだ。
――うれしいかも。
「――なかなか、先輩もたいへんですもんね。
家出、したりとか」
「そう。
だから、だからこそ――アンタとの繋(つな)がりが、ありがたい」
なぜか、
ぼくの左の手のひらに、触れてくる、先輩。
「どうしたんですか……?」
「羽田。」
「……はい。」
「アンタの手、きれいだよね」
「え」
「ようやく、わかったわ」
麻井先輩の、現在(いま)の行動原理が、わからない……。
黙りこくるぼく。
その沈黙が、いけなかったんだろうか。
にわかに、不満そうな顔になったと思ったら、
「――どこまですっとぼけんのよ、アンタ」
と、トゲのある声で、言ってくる。
すっとぼけてる――つもりは、ないんだけど。
横を向く。
モニョモニョと、なにか彼女が口を動かしている。
正確には聴き取れない。
『鈍感……』
――そう、つぶやいているようにも思える。
半信半疑、だけど。
あるいは、ぼくの見当はずれかもしれない。
だから、彼女がなにをつぶやいたかは、保留にしておく。
「……もういい、アタシ帰る」
「えっ、もういいんですか?」
「きょうのところは、これぐらいにする。勉強もしたいし」
「これぐらいにする、って」
すっく、と立ち上がって、音を立てて歩き、ドアノブに手をかける。
「あー、もう!!」
突如、やけっぱちのような叫び声を上げる、先輩。
「ボクシング番組、作るみたいだけど――、
羽田、アンタをボクシングでノックアウトしたい気分だよ」
そう言う先輩のことばには、本気が立ち込めていた。
ドアノブを回して、退室する瞬間。
今度は、彼女のつぶやきが、はっきりと、聴き取れたのだ。
「……ズル」
なにが、ズルいんだろう。
でも、たしかにぼくは、ズルく見えるのかもしれない。
ズルいことをしたら、反省する――、
そんな心がまえ、だけれど、
知らずしらずのうちに、ズルをしてしまう――いままでの経験で、思い当たるフシがあった。
ぼくは、
麻井先輩に――不誠実なんだろうか。
ぼくの先輩に対する振る舞いで、なにがいちばんいけなかったんだろう?
――候補が、2つや3つじゃ済まない気がする。
自己嫌悪に見舞われて、すこし、苦しくなった。
このまま、麻井先輩を、送り出したくない……。
ぼくは、そう思った。